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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日

支援を行う海兵隊ロケット分遣隊
支援を行う海兵隊ロケット分遣隊

D+19 3月10日

 江戸を幕府の城下町にするべく開発を行った徳川家康でしたが、後々まで抱え込む弱点の解消はできませんでした。

 1657年3月2日に起きた火災"明暦の大火"は3万から10万の死傷者を出し、その後も度々江戸の町は大火に見舞われました。1945年3月9日、この弱点に着目した第21爆撃機軍団司令官カーチス・E・ルメイ少将の立てた作戦に基づいてマリアナ基地を飛び立った325機の焼夷弾を満載したB-29が硫黄島上空を通過。

 以前と違い、硫黄島は既に、これらを迎撃することも、本土へ通報する能力も失っていました。また、東京は強風に見舞われ、空襲警報も遅れました(最初の警報は0015)

 3月10日0007、夜間の低高度侵入を果たしたB-29は深川に対し、最初の爆弾を投下。最初に投下された焼夷弾約1,700トン。

 折からの強風に煽られ、火災は瞬く間に広がっていきました。帰還する後方機銃手は250キロ離れた後にも火災で赤く染まる空を見ることができたと報告されています。

 朝までに東京の三分の一以上の41平方キロが消失。焼死者84,000名(10万超えとも)、消失家屋約27万戸。その数は、後の広島の原爆すら上回る規模でした。

 これに匹敵するのは明暦の大火と大正十四年の関東大震災のみ。世界的においても、硫黄島攻略作戦前にイギリス主体で行われたドレスデン爆撃すら上回る惨劇となりました。

 一方、B-29の損失は撃墜12機、大破42機。14機が海上に不時着水して内5機の乗員が硫黄島の摺鉢山沖を発進基地にするカタリナ飛行艇に救助され、2機が硫黄島へ緊急着陸を行いました。

 硫黄島が失われたことによる最初の結果です。

第3海兵師団

 クッシュマンズ・ポケットでの戦車第二十六連隊との戦いは依然として継続していました。

 第9連隊第3大隊は海岸へ部隊を進めた後に南の362A高地へ向かい師団の右の境界線を作りました。この日は一日中、右翼の高地から銃撃によって部隊は停止させられましたが。

 右翼の第21連隊第3大隊は第3戦車大隊B中隊の戦車と共にクッシュマンズ・ポケットへ向かいました。朝の内、前日放棄したシャーマン戦車に乗り込んだ日本軍が踏ん張り、バズーカで撃破されるまで前進を阻むなどして、孤立地帯の寸断には成功しますが、ほとんど前進できずに終わります。

 北の第3師団左翼では第21連隊第1大隊と第2大隊が前進を開始。第21連隊第1大隊の方はパトロール部隊が日本軍と遭遇することなく海岸に達して、そこを確保し、断崖に沿って右翼を北へと向け直しました。

 1500に第1大隊の担当域で全ての組織的抵抗が終わり、その後、後方地域の哨戒を開始し、残敵掃討に移ります。

 第2大隊の方は、357高地を越えた地点で停止し、第1大隊に沿うように部隊を動かしました。

 午後早く、師団予備の第9連隊第1大隊が第4師団の担当域に向けて第21連隊第3大隊の戦線を横切って第3師団の右翼に付き、第9連隊第3大隊と接続するべく北西への攻勢を開始しました。

 1535に前進を開始した第9連隊第1大隊でしたが、200メートル進んだ時点で、日暮れとなり、1800に前進を停止。第9連隊第2大隊の方は、この間に師団予備となるために孤立地帯の西側から外されました。

 1800に第3師団が攻撃を停止させた時点で、クッシュマンズ・ポケットを除く抵抗のほとんどは排除され、師団は海岸を見下ろす断崖の上にいました。これにより、第3師団の硫黄島中央部への作戦は終了し、

「モップがけ終了(mopping up)」

 と報告されました。

14日間の戦闘で、第3海兵師団の損失は下記になります。
 戦死 627名
 戦傷による死亡 200名
 戦傷 2,241名
 行方不明 4名
 戦闘疲労 491名
 合計 3,563名

第4海兵師団

 第24連隊(二個大隊欠)が師団予備から前線に復帰。

 左翼が第23連隊、右翼第25連隊となって師団の攻撃は開始されました。

 軍団と師団砲兵の準備砲撃の後、0800に前進開始。

 左翼の第23連隊は第2大隊と第24連隊第3大隊による攻撃を開始しました。岩の峰からの性格且つ激しい機銃掃射を浴びながら。

 それでも、1500に700メートル前進することに成功し、東海岸まで500メートルの位置にまで到達しました。

 第23連隊の前進は、ただ海岸へ進むだけの単純なものでしたが右翼の第25連隊は円形劇場とターキーノブを沈黙させる最後の詰めに入りました。

 0800に第25連隊第1大隊と第3大隊が前進を開始し、二週間近く頑強な抵抗を続けた日本軍陣地への攻勢を開始し、中程度の抵抗に遭遇。

 第3大隊は南西へ、第2大隊は北東へ向かって、1600に接触に成功。

 しかし、第3大隊とともにいた統合部隊は包囲の内側へと進路を変えたところで、第2大隊を迂回してきた日本軍の小部隊と遭遇。これは第25連隊第1大隊と第2大隊が孤立地帯を包囲することで対応。

 第25連隊は600メートルを前進し、夜間に備えて海岸から800メートルの地点に沿った第23連隊と左翼を固めました。

 結果として、この日の戦闘は満足ゆくもので、肉挽き器の抵抗はようやく沈黙させることに成功しました。

 この地区の指揮官第二混成旅団の千田少将はまだ健在でしたが、やはり、8日から9日にかけての反撃は致命的でした。

第4海兵師団の損失は下記のとおり
戦死 642名
戦傷による死亡 205名
戦傷 2,836名
行方不明 1名
戦闘疲労 391名
合計 4,075名

 反撃さえ行わなければ、この数字はもっと大きくなっていたでしょう。海兵隊の戦史において、この夜襲は、

「一つの明確な過ち」

 とされています。

第5海兵師団

 早朝に始まった第26連隊の戦果は、何度目かの"無し"。1400に再び攻撃を再開し、70メートル。

 北の鼻の165高地では依然として日本軍の抵抗は健在でした。

 第27連隊と第28連隊も似たようなもので、北の鼻を三個連隊で包囲しているものの前進は芳しくなく、戦闘を終えた第3師団第21連隊も北の鼻包囲網に加わることになります。

 結局、この日の前進は僅かなもので、以降、3月24日まで第5海兵師団は北の鼻での戦闘を継続することになります。

第5海兵師団の14日間の損失は、
戦死 830名
戦傷による死亡 263名
戦傷 2,974名
行方不明 5名
戦闘疲労 220名
合計 4,292名

D+10

 第4海兵師団を、文字通り、挽いていたMeatGrinderも、8日から9日にかけての夜襲で日本軍が自滅してくれたこともあり、10日、ついに沈黙させることに成功させました。

 第3海兵師団もクッシュマンズ・ポケットでは西中佐率いる部隊によって攻めきることはできませんでしたが、中央部での突破に成功し、北東海岸へついに到達して日本軍を二分することに成功し、第5海兵師団も、北の鼻で激しい抵抗によって前進は阻止されたものの包囲網を徐々に狭めていきます。

 一メートルごとに出血を強いた、地獄の2週間は終わりを遂げました。

 しかし、これらの出来事を伝える役割を持つ戦場特派員のほとんどが既に硫黄島を後にし、次の沖縄上陸作戦に参加する部隊に合流しており、アメリカ本土の関心も、硫黄島の記事は新聞の片隅に小さく載るだけで、アイゼンハワー元帥率いる連合軍のヨーロッパでの快進撃へと移っていました。

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