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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日

倒れた海兵隊員、そして海軍衛生官たちの臨終の儀式を行う従軍牧師
倒れた海兵隊員、そして海軍衛生官たちの臨終の儀式を行う従軍牧師

3月16日(D+25)-3月25日(D+34) 峡谷の戦い

3月16日(D+25)

 海兵隊員の最初の一人が硫黄島の黒い砂の海岸に足を踏み降ろしてから、26日と9時間後の1800。日本軍の組織的な抵抗はほぼ終結していました。

 後方地帯では映画が上映され、海兵隊員たちは地熱を利用したお湯でシャワーを浴び、コーヒーを沸かしました。

 無線機からは、グアムや本国から、そして東京ローズの放送が流れていました。

 千鳥飛行場では、攻撃を終えたP-51に代わって夜間戦闘機P-61ブラックウィドウの離発着が始まり、その日最後の輸送機が負傷者を乗せてマリアナへと飛び立ち、上空では名古屋の空襲の際に損傷したB-29が旋回していました。

 摺鉢山の、すぐ北の西海岸。後に海兵隊が、陸軍兵士だと言い張る海兵隊員2人が哨戒任務に就いていました。第3海兵師団の報道員アルビン・J・ドイル一等兵や、まだ硫黄島に残っていた数少ない従軍記者の記事は海軍の検閲で抹消され、海兵隊戦史「IWO JIMA」にも記録されていない事件―後にシュミット少将が、「偽降伏の事件」と呼ぶ出来事が、この日の終わりに起こりました。

 2人は暇を持て余しながら、SCR-300携帯無線機(ウォーキートーキー)を手に反対側へ歩き出しました。

 と1人が相手に向かって、次の通信を行いました。

「速報! ナチス・ドイツがラジオ・ベルリンの公式声明で無条件降伏の条件を容認! ヨーロッパの戦争は終わった!」

 運がいいのか悪いのか、たまたまVAC司令部の通信センターと沖合の艦隊の通信室がこれを傍受。

 10分後。この吉報は周囲に知れ渡り、途端に大騒ぎとなりました。あちこちでライフルや機関銃が空へ放たれ、更に駆逐艦は照明弾を打ち上げ、中には北の鼻へロケット弾攻撃をでたらめに始める船も出る始末。更に対空砲すら発射され始めました。

 この混乱で、映画の上映は中止。中には何だか良く分からないまま騒ぎに混ざる者もいました。

 第4海兵師団長ケイツ少将が、シュミット少将に連絡を取り、

「これは緊急警戒報を発令しない限り、止められませんね」

 と言ってきましたが、権限は海軍にあるとシュミット少将が応じるとケイツ少将は笑って、

「確実に何とかしなければなりません。あなたが取り敢えず小さな飛行機一機を見たに違いありません」

 と言ってきましたが、さすがにそれもまずいので15分後、シュミット少将から連絡を受け、既に誤報であることを知っていた指揮艦オバーンにいたヒル提督から、緊急非常警戒態勢が発令されて、ようやく、この大騒ぎは終結しました。

 その後、救護所には祝砲の破片で負傷した12名の軽傷者が治療を受け、そして、騒ぎの張本人はと言えば、指揮官の下に出頭し、

「サー。私は私がしくじったと思います」

 と報告しますが、その海兵隊曰く陸軍兵士という海兵隊員が誰だったのかは秘密にされ、デタッチメント作戦における謎の一つとなりました。

3月17日(D+26)

 ニミッツ提督は、硫黄島における戦いで最後のコミュニケを発表し、硫黄島が1800を持って公式に占領され、日本軍の抵抗の終結を宣言しました。

 26日間と9時間の戦闘で24,127名の海兵隊員が戦死し、19,938名が負傷したと発表され、海兵隊の歴史において最大の損害であることも合わせて発表され、この戦いを象徴する有名な言葉で結びました。

「Among the Americans who served on Iwo Isramd uncommon valor was a common virtue(硫黄島に従事したアメリカ人の間では、非凡な勇気が共通の美徳だった)」

 抵抗が終結したと宣言されても、前線では相変わらず戦闘は続いており、そこで戦う海兵隊員たちは、では自分たちは今誰に殺されているのかと舌打ちしながらも最後の抵抗線で戦っていました。

 3月16日に第5師団第27連隊三個大隊(内情は二個ライフル中隊に一個司令部中隊という有様)は、第21連隊と交替し、1700に第3大隊はA中隊とD中隊の補強を受け、混成部隊を構成。これで1個司令部中隊に四個ライフル中隊となりますが、実際の兵力は470名を数えるのみでしたが。

 3月17日は、最後の残存兵力を掃討するために北の鼻へ第26連隊が前進を開始。1230に第1大隊がついに北の鼻の海岸到達に成功。そこから部隊は南西へ矛先を向けて、ゴージを西から攻める第28連隊と挟む形で攻勢を仕掛けました。

 計画では、第5工兵大隊と師団偵察中隊で補強された第28連隊が険しい崖伝いに南の突出部に向かい、第26連隊と第28連隊第3大隊、第27連隊第3大隊が北と西へ攻撃を仕掛けることになり、次の9日間、更に海兵隊員は損害を重ねていくことになります。

 3月16日2200頃、栗林将軍の司令部と市丸少将の海軍司令部は合流。

 海兵隊が、「偽降伏事件」で大騒ぎしている一方で、日本からの特別番組が放送され、硫黄島守備部隊の栄誉を称え、硫黄島の歌を流しました。

 この日、第3海兵師団は、降伏した日本兵2人が池田増雄大佐の居場所を知っているというので、降伏文書と無線機を渡して送り出しましたが、翌朝8時までの降伏期限が来ても池田大佐からの返答はありませんでした。

 二日後、池田大佐がいると思われた洞窟は火炎放射器で焼き払われた後に爆破され、封鎖されました。池田大佐が、そこにいたかは不明で、死体も見付かっていません。

 ホランド・スミス中将は、オバーンから、硫黄島に最後の上陸を果たしました。スミス中将は残る意志がありましたが、ニミッツ提督は、自分の専用機を差し向けて、この老戦士を真珠湾まで帰還させました。

 同じ日、上陸当初より、激減した第4海兵師団の海兵隊員たちは、島の墓地に眠る戦友たちに別れを告げてLSTに乗り込み、ハワイへと帰還。

 スミス中将は、帰還後の記者会見で次のように語ります。

「我々は、硫黄島で、我々がそれを手に入れるためなら、どんな困難でも成し遂げることを日本人に示して見せた。

 海兵隊員が島を横切るのを見ることは、私にゲティスバーグでのピケット将軍の突撃を思い出させた。迫撃砲、砲撃、そしてロケットが兵士たちの間に落下したが、彼らは休まなかった。海岸に第一波が到達してから、37分の後には飛行場の南端に我々は達していた。私は重ねて言う、これは我々がこれまで経験してきた中でも最も激しい戦いだった。

 もしこの戦争の後、海兵隊が存続すべきかという疑問があったならば、硫黄島の戦いは海兵隊が常に存在するであろうことを証明するだろう」

 その夜、B-29、307機が神戸に対する空襲を決行。帰還途中、対空砲火で傷ついた13機のB-29、150人の搭乗員を硫黄島は救いました。ルメイ将軍は、記者会見で、

「硫黄島は実に仕事をやりやすくしてくれた」

 と語り、首都ワシントンでは、陸軍長官スティムソンが海軍長官フォレスタルに対し、

「代償は甚大だった。しかし、硫黄島の軍事的価値は計り知れない。その制圧で太平洋における我々の最終的な勝利の日が、より近付いた」

 同じ17日24時、栗林将軍は、大本営に対し、決別の電文を発しました。

 栗林兵団長決別の電文(膽参電四二七号)

 戦局最後ノ関頭ニ直面セリ 敵来攻以来麾下将兵ノ敢闘ハ鬼神ヲ哭シムルモノアリ 特二想像ヲ越エタル物量的優勢以テスル陸海空ヨリノ攻撃二対シ宛然徒手空拳ヲ以テ克トク健闘ヲ続ケタルハ小職自ラ聊カ悦ヒトスル所ナリ

 然レトモ飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次イデ斃レ為ニ御期待ニ反シ此ノ要地ヲ敵手ニ委ネル外ナキニ至リシハ小職ノ誠ニ恐懼ニ堪エサル所ニシテ幾重ニモ御託申上ク 今ヤ弾丸尽キ水涸レ全員反撃シ最後ノ敢闘ヲ行ワントスルニ方リ熟々皇恩ヲ思ヒ粉骨砕身モ亦悔イス 特二本島ヲ奪還セサル限リ皇土永遠ニ安カラサルニ思ヒ至リ縦ヒ魂魄トナルモ誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁ケタランコトヲ期ス 茲ニ最後ノ関頭ニ立チ重ネテ哀情ヲ披瀝スルト共ニ只管皇国ノ必勝ト安寧トヲ祈念シツツ永ヘ二御別レ申上ク

 尚父島、母島島ニ就イテハ同地麾下将兵如何ナル敵ノ攻撃モ断固破摧シ得ルヲ確信スルモ何卒宜シク御願申上ク

  終ニ先駄作御笑覧ニ供ス 何卒玉斧ヲ乞フ

  左 記

国の為重きつとめを果たし得で 矢玉尽き果て散るぞ悲しき
仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生まれて矛を執らむぞ
醜草の島に蔓るその時の 皇国の行く手一途に思ふ

 栗林中将(戦史叢書中部太平洋陸軍作戦より)

 この電報の後、司令部は第百四十五連隊本部と合流。総反撃を目論見、これを援護するため、岡知三少佐が偽の司令部を設置して偽電波を発信し欺騙を図りましたが、海兵隊の包囲網は厚く、攻撃は行えませんでした。

 栗林将軍は一端兵を退いて出撃の好機を窺いながら、海兵隊の出血を強いるための戦闘を継続しました。

3月18日(D+27)-3月25日(D+34)

 3月18日を持って、アメリカ軍は艦砲と砲兵の支援砲撃を停止しました。

 第5海兵師団は、更に包囲を狭め、75mm戦車砲や爆薬合計8,500ポンドを使って洞窟を粉砕しました。

 同日、第5海兵師団の一部が撤収を開始。

 3月19日、第4海兵師団は司令部を閉鎖し、硫黄島を去りました。

 3月20日、硫黄島守備部隊となる陸軍第147歩兵連隊が活動を開始。

 3月21日、クッシュマンズ・ポケットは完全に沈黙。硫黄島のほとんどを制圧したことになります。同日、午後、摺鉢山に二番目に星条旗を掲揚した一人フランク・サウスリー一等兵は、安全が確保された場所を歩いていたところ、狙撃兵に背後から撃たれて倒れました。

 戦友たちの、

「大丈夫か?」

 との問い掛けに19歳の海兵隊員は返事を、そして最後の言葉を発しました。

「悪くはないよ。何も感じないから」

 3月24日(D+33)1800。海兵隊は包囲を完了し、翌、3月25日(D+34)、第28連隊がゴージにおける最後の日本軍部隊の抵抗を沈黙させました。

 作戦予定14日で完了するはずだった掃討作戦は35日目にして、ようやく完了。この戦いは、第5海兵師団の戦闘報告に、下記のように記され、日本軍が常に有利な条件で戦っていたことが指摘されています。

これらの陣地を攻撃するにおいて、岩の中の洞窟、或いはクレバスに全員がいることで、日本兵を見ることができず、そして、それはそれぞれが小さな区画に区切られ、全方位が連動した幽霊のような防衛手段を持っていた。攻撃する兵士たちは、彼らの前面以上に、側面やより後方から銃撃を受け、それは防護射撃の源を正確に定めることは常に難しく、そしてしばしば不可能だった。その洞窟陣地において、それぞれの日本人守備者の射撃地帯はしばしば10度かそれより少ない弧に限定されており、逆にそれは、この弧に戻ること以外では銃撃から守られていた。常に有利な小火器として、日本軍の無煙、無閃光火薬は、ここでは得に有効だった。陣地が突破、或いは脅威にさらされたとき、敵はいつもそれらの銃砲撃から安全な洞窟の更に奥へと撤退し、好機が確実となると即座に、パッと再び飛び出してきた。

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