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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日

負傷者の治療を行う医療スタッフ
負傷者の治療を行う医療スタッフ

水陸両用作戦の集大成

 硫黄島攻略作戦である「Detachment(分離、孤立)」は、水陸両用作戦の頂点に位置する作戦でした。

 大規模な突撃計画で太平洋を渡って三個師団を硫黄島へ送り込み、更にそれを維持したことでデタッチメント作戦は、「詳細な計画立案と猛烈な遂行」のモデルとなりました。

 奇襲要素は得られませんでしたが、強力な砲撃と共に強靱で迅速な突撃部隊は、

「硫黄島への上陸は、我々が水陸両用襲撃について数年間かけて学んでいた全ての見本であった」

 と第27海兵連隊のウォーンハム大佐に語らせたように、D-dayにおける抵抗は最悪でしたし、上陸地点は混乱したものの、原因不明の問題が生じたという報告はありませんでした(する暇や気付く暇が無かっただけかもしれませんが)。

 強襲揚陸は、日本軍の攻撃が無かったこともあり、第3波までは極めて順調でしたし、これを支える後方支援もまた円滑に進められていました。前線へ弾薬類を送り届けるだけでなく、それ以外の必需品や、贅沢品も、硫黄島では多く存在していました。輸血のための血液は二週間前に献血された新鮮な物が、十分な量、冷凍されて空輸され、同じように手紙、部隊会報、(硫黄島では貴重な)新鮮な水、無線機の電源、組み立て式墓標、トイレットペーパー、焼きたてのパン、そして必須のアイスクリームが硫黄島には存在していました。

 これらを支えた中には、第8弾薬中隊と第36兵站中隊のアフリカ系アメリカ人部隊も含まれ、彼らはDUKW部隊の運転手として重要な役割を果たし、またVAC海岸班にいた隊員たちは日本軍の反撃部隊が上陸地点に侵入したとき、勇敢に戦い、ジェームズ・W・ホワイトロック二等兵とジェームズ・デーヴィス二等兵がブロンズスターを授与され、VAC海岸班指揮官リーランド・S・スワインドラー大佐に、黒人海兵隊員の死体全てが、

「際立った冷静さと勇気と共に彼らは行動した」

 と語らせました。

 また、この戦いで、海兵隊は、これまで使用してきたディーゼルエンジン搭載のM4A2に代わり、ガソリンエンジンを搭載し、より信頼性を高めたM4A3を初めて使用しました。戦車自体は硫黄島の地形で待ち伏せを受け、また姿を見せるやいなや日本軍の集中攻撃が始まり、あまり有り難がられない一方で、その主砲と装甲は価値あるものでした。中でもM4ベースの新型火炎放射戦車は数が少ないながらも有効性が認められ、次の沖縄では更に大量の火炎放射戦車が投入されることになります。

 ヒル提督と、そのスタッフが考案した装甲ブルドーザーは銃撃の中で工兵や建築大隊の仕事を幾分かは楽にしました。

 暗視装置も、硫黄島で装備され、解像度も低く、巨大で重く、軍事機密ということで数も少なかったのですが、それなりの効果はあげました。

 通信設備も大幅に改善し、タラワでは海から上陸することが分かっていながら、防水されていなかった通信機が故障して初期の混乱に拍車を掛けましたが、これらは受話器も本体も防水処理が施され、より多くの周波数が利用可能となり、前線観測チームは、SCR-610。中隊―小隊間はSC-300ウォーキートーキーか、より軽いSCR-536と多いに活用され、第27海兵連隊副官で元通信将校ジェームズ・P・バークレー中佐は言いました。

「硫黄島で、我々はどんな指揮官でも望むことのできた全ての通信手段をほぼ完璧に備えていた」

 戦闘が進むにつれ、戦車やLVTによる損傷を避けるために支柱を立てて張られた有線電話のケーブルが、支援部隊と前線司令部の間を結びました。

 日本軍の防諜部隊は、これらの通信網を傍受しようとしましたが、傍受に成功しても、聞こえてくるのはナヴァホ暗号通信員の喋る意味不明の言語でしかありませんでした。ナヴァホ族のコードトーカーは各師団でそれぞれ24名が配属され、第5海兵師団では島で六つの通信網を確立しました。

  医療の面でも硫黄島では極めて優秀なシステムが機能しました。海兵隊員が負傷すると即座に、海軍衛生官が駆け寄って傷口に包帯を巻き、搬出が可能になるまでの処置を行い、応急処置所から、更に後方の野戦病院へ運ばれ、何人かは治療を受けて回復すると前線へと戻り、重傷者は海上にある病院船へと運ばれ、或いは(飛行場が利用可能になってからは)空輸されて戦場を離れました。病院船では実に13,737名が治療を受け、2,449名が空輸によってグアムへ搬送されています。

 しかし、前線近くに医療支援を配置したことは犠牲も強いました。サイパン戦を上回る23名の医者と827名の衛生官が死傷しました。二番目の星条旗を掲揚した一人ジョン・ブラッドリー二等兵曹も負傷して島を離れた衛生官の一人でした。一方で4名の衛生官が名誉勲章を授けられる栄誉を受けました。

 報道に関してもこれまでと違っていました。かつては戦闘が終わってから、どうにか記事や情報が配信されていたのですが、大幅にこの面が改善され、D-dayには約5,000語、翌日以降は10,000語以上のテレタイプが送信されました。ローゼンソール氏の、摺鉢山の星条旗の写真も、その恩恵を授かった一つでした。しかし、一方で、これまでは作戦が終わってから報じられたアメリカ軍の損失が、硫黄島では戦闘が継続中に報じられ、これがアメリカ国民を紛糾させる弊害も産みました。

 2月22日に海兵隊が5,000名近い死傷者が戦闘中に発生したことを公式発表した五日後、マッカーサー信者のウィリアム・ランドルフ・ハーストが、

「それはタラワとサイパンで起きたのと同様の出来事である」という論説から、「彼自身の部下の生命を彼が守る」とマッカーサー大将の太平洋最高司令官への登用を促す社説を載せました。

 この記事に怒った非番の海兵隊員100名が謝罪を要求するために新聞社に押し掛ける一幕もありましたが、硫黄島攻略の意義は伝えず、ことさら犠牲者の数字だけを報じるという現在でも良く行われる偏向報道は、大きな支持を受け、硫黄島にいる海兵隊員の下に、家族が新聞の切り抜きを送って士気への打撃を与えたり、またある婦人は、真偽は分からず、軍も調査しませんでしたが、彼女の息子のために硫黄島の戦いを今すぐ終わらせるよう抗議の手紙を書いたりもしました。

 この騒ぎを収めるためもあり、ルーズベルト大統領は、ジョー・ローゼンソール氏の摺鉢山への二度目の星条旗掲揚の写真を例に、海兵隊たちの犠牲的精神を強調することによって世論に訴えかけました。

 この頃、この写真は広く知れ渡り、既に第7回戦争公債ツアーの公式ロゴにもなっていましたが、6人の掲揚者たちを市民の士気を掲揚するために帰還させるように要請されたときには、既にストランク軍曹、ブロック伍長、サウスリー一等兵は戦死していましたし、ブラッドリー二等下士官も重傷を負って病院で治療を受けていました。それでも、ギャグノン一等兵の証言から、他の五人―ストランク軍曹、ハンセン軍曹(この時点ではギャグノン一等兵の証言から、そう思われていた)、サウスリー一等兵、ヘイズ一等兵、ブラッドリー二等下士官―の名が明らかになると生き残った三人は公債ツアーのために本国へ戻され、公債ツアーを多いに盛り上げる一方で、三人に"星条旗の掲揚者"としての重圧がのし掛かっていくこととなります。

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