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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日

D+6 2月25日


日本軍陣地へ砲撃を行う海兵隊のハーフトラック

D+6 高地

 D+6の2月25日、依然として日本軍は海兵隊の前進を阻み続け、海兵隊はそれらの抵抗をほとんど排除できませんでした。

 日本軍はほとんど姿を見せず、陣地も大半が地下に構築されているため、硫黄島の戦いは一方が地下で、もう一方が地上で戦うという奇妙な様相となり、こうした状態は最後まで続きます。

 上陸から一週間で、既に戦車は貴重となっていました。大半は道に迷い、地雷に相変わらず悩まされ、前線に到達すれば、日本軍の集中砲火が待っていました。

 前線が何ら進展しない一方で、吉報もあり、ジョン・S・リッチャー大佐率いるVAC付砲兵の第1臨時野砲集団の残りが、この日上陸することに成功しました。

 第2-155mm榴弾砲大隊(アール・J・ロウズ少佐)と第4-155mm榴弾砲大隊(ダグラス・E・リーブ中佐)の155mm榴弾砲は、その高威力を持って前進を多少は楽にし、これとは別に海兵隊は海上からも巡洋艦や駆逐艦の艦砲射撃の支援を受けていました。

 砲兵隊と艦砲射撃には満足する一方で、海軍航空隊の支援は十分ではありませんでした。例えば第3海兵師団に割り当てられたのは戦闘機と急降下爆撃機が8機ずつでしかなく、第4海兵師団も似たようなもので、ケイツ将軍は25日の午後には、シュミット将軍に対して、海軍とマリアナ諸島にいる戦略航空隊とを交替させてくれと憤慨しながら要請し、空中支援管制上陸分遣隊指揮官バーノン・E・メギー大佐に宥められる始末でした。

 メギー大佐自身、海軍機が支援を十分行わない点と、必要な時に必要な場所にいた試しがないと海軍の航空支援には不満を持っていました(というより、それでどうにかケイツ将軍を宥めた)。とはいえ、北部への進軍の初期段階では、各連隊に同行している航空管制班は日本軍の巧妙に偽装した陣地をなかなか発見できず、そうこうしている内に交戦状態に陥ってしまって場所もはっきりしないまま、過大な航空支援要請が行っていたのも事実でしたが。

 こうした問題も、艦載機が搭載する爆弾を最高で500ポンドまで増やし、迅速な対応を行うことで徐々に解決していき、機嫌を損ねていたケイツ将軍も、次の週には航空支援には十分満足することとなりました。

  シュミット将軍は、中央の第3海兵師団をVACの主力とした攻撃を計画し、そのため、軍団砲兵だけでなく、第4と第5師団にも、第3海兵師団に対する支援砲撃を優先するよう命令しましたが、円形劇場で前進を阻まれている第4師団のケイツ将軍も、西峰へ攻防戦を繰り広げていた第5師団のロッキー将軍もその命令には不満を抱きました。

 そして、優先的な支援砲撃を受けられることになったアースカイン将軍も、また不満を持っていました。第4師団と第5師団は三個歩兵連隊と一個砲兵連隊が揃っていましたが、第3海兵師団第3海兵連隊だけが、未だに軍団予備として温存されており、再三の要求にもかかわらず、スミス将軍は投入を認めない状況が続いていました。

 支援砲撃においても、優先的とはいえ、この時点ではVACが保有している砲兵部隊は数が少ないだけでなく、運用される砲においても最大口径は155mmで、沿岸地域ならば海軍の艦砲射撃の受けられましたが、威力も効果も十分とは言えませんでした。
※アメリカ軍は8インチ(203mm)口径のM1重榴弾砲を約1,000門保有していましたが、全て陸軍の所有でした。もっとも、155mm榴弾砲ですら揚陸に四苦八苦していたのですが。

 そうした状況で、第3海兵師団は、第2飛行場の真北にある高地ピーター(元山砲台)と19-9オーボエ(海軍砲台)、そして第3飛行場の先にある362-C高地、そして、後に"クッシュマンズポケット"と呼ぶことになる岩のジャングルへと。

 第4海兵師団は、382高地にある二つの目標「円形劇場」と「ターキーノブ(或いは肉挽器)」という名前を与え、屏風山への攻撃を開始しました。

 第5海兵師団も、西の峰と362-A及びBへ向かう攻勢を開始。

 翌日から始まる"地獄の2週間"の前哨戦が、ここに始まりました。 

第3海兵師団

 第3海兵師団は、今なお果敢に抵抗を続ける飛行場西端の日本軍陣地を制圧することを目的とした攻撃を、この日開始。

 0830だった攻撃開始時刻は、第9海兵連隊と第21海兵連隊を交替させるために一時間遅れの0930に変更されました。攻撃開始の遅れの分、軍団砲兵の155mm榴弾砲部隊と艦砲射撃による準備砲撃は50分間、1,200発(内600発が第3海兵師団前線)が各師団の前線へ撃ち込まれ、更に散々、文句を言ったのが功を奏して艦載機も500ポンド爆弾を搭載しての爆撃を行いました。

 日本軍守備隊の防衛拠点は飛行場西端の速射砲第十大隊、歩兵第百四十五連隊第三大隊のいる飛行場北の海軍砲台(19-9オーボエ高地)、そして元山砲台(ピーター高地)にあり、これらの拠点へ向けて、第9海兵連隊第1大隊(1/9)と第2大隊(2/9)が前進を開始(第3大隊は予備)。

 第2大隊は飛行場西端を目標とした主力であり、第3戦車大隊のシャーマン26輛の支援を受けていました。大隊長ロバート・E・クッシュマンJr.中佐と、その部隊はグアムで実戦経験のあるベテランでしたが、戦場に到着した彼らは滑走路のあちこちで燃え上がるシャーマン戦車や機銃掃射でなぎ倒された海兵隊員たちの姿に戦慄しました。当初は戦車に海兵隊員が乗って前進する計画でしたが、クッシュマン中佐は、この計画を取り下げ、戦車だけの前進となりました。

 戦車に随伴した小部隊が、どうにか滑走路を横切ることに成功しますが、甚大な被害を覚悟しなければ増援部隊はそこへ到達することができず、当然、そこへ補給へ赴くなど無茶な話となりました。

 前進した先遣隊の戦車も獅子岩に潜む速射砲部隊の待ち伏せを受け、3輛が撃破。続いた6輛の内、アゴニー、エンジェル、そしてエイトボールが同じように待ち伏せされ、アゴニーとエンジェルは炎上、エイトボールも足回りが破壊され、擱座しました。

 アゴニーの乗員ウィリアム・A・アダムソン伍長はハッチから転げ出たところで脚を撃たれ、燃え上がる戦車の煙に巻かれながら、地面に座っていましたが、傷口に包帯を巻いたところで日本軍の速射砲の発射炎を見付け、砲塔だけは健在のエイトボールへ這い寄ると速射砲の位置を指し示しました。

 エイトボールは、一発で、この速射砲を破壊。アダムソン伍長は更に四つの機関銃陣地を発見し、これを破壊させることに成功しました。

 日本軍は、この厄介な伍長と戦車1輛を排除しようと、爆弾を抱えた兵士を含む30名が飛び出してきましたが、エイトボールは砲塔を彼らに向けて、これを追い散らし、その後、牽引車両が到達してエイトボールとアダムソン伍長の救出に成功しました。

 海兵隊側は貴重な戦車9輛を失い、それらの乗員17名が死傷しながらも、残った三つの速射砲を破壊し、もう一方の第1大隊も、機関銃と迫撃砲弾の雨の中を前進する5時間に渡る戦いの後、ピーター高地の麓まで100メートルの位置まで前進しました。

 25日の夕方までに、戦線は最右翼を除けば第2飛行場の北側まで進みましたが、その代償として第9海兵連隊は約400名を失っていました。

第4海兵師団

 第4海兵師団は、382高地の二つの目標「円形劇場」とに狙いを定め、そこへ向かうための屏風山に対する戦闘を開始しました。

 第4海兵師団は岩と背の低い藪があるだけの遮蔽物のない場所を、摺鉢山に次ぐ高さの382高地―二段岩、円形劇場、そしてターキーノブ(七面鳥のコブ)、ミナミ・ヴィレッジからなる日本軍の複合要塞―"肉挽き器(Meat Grinder"へと突入していきました。

 第3海兵師団と同じく0930に第23連隊と第24連隊を左右に配置して進撃を開始。

 地形は狭く、戦車部隊は歩兵部隊を支援できず、先頭を切った6台の戦車も、地雷で最初の2台が、次に対戦車砲が2台、残った2台も火山灰に轍を作るだけで前進できず。

 スタンリー・G・マクダニエル大尉の中隊の一個小隊が匍匐前進で山頂に達したものの日本軍の激しい攻撃に、後続部隊の中央突破が不可能となり、そのまま小隊は孤立。煙幕を張り、苛烈な白兵戦の末に二時間後、どうにか小隊の救出に成功。しかし、負傷者10名が取り残され、担架班が夜間に潜入して救出しなければならず、一人の中隊からはぐれた海兵隊員は戦友たちの死体とともに横たわり、運良く日本兵に見付からず(或いは死んだと思われて)、一晩を明かし、翌午前10時に再び同じ地点を確保した部隊に救出されました。

 この日の午後、攻撃は完璧に行き詰まり、考えた末に1630に30分に渡る砲撃を開始。弾幕砲火は中間地帯200メートルから、5分ごとに100メートルずつ奥へと進め、これに続き、攻撃機が超低空で15分に渡る爆撃とロケット攻撃を行ったことで、日本軍陣地からの攻撃がようやく弱めることに成功しました。

 けれども、新たな攻撃を開始するには遅すぎ、その日、夜間に負傷者の収容と夜襲に備えた防衛陣地の構築がやっとでした。

 第4海兵師団は、装甲ブルドーザーで道を切り開きながらの、この日、僅かな距離―100メートルの前進で500名の損失を受けていました。

 夜間になって日本兵30名が強襲し、翌朝、20名の遺体が発見されます。海兵隊側は死傷者なしでした。

 この一連の要塞地帯は、誰が名付けたかは不明でも、 "肉挽き器(Meat Grinder)"と呼ばれることとなった理由は誰もが理解させられる場所でした。

第5海兵師団

 第5海兵師団だけは―相変わらず四方八方から撃ちまくられ、迫撃砲と砲弾で163名の損害を出していましたが、楽な戦いをしていました。何しろ、第3師団が前進するのを待っているだけでしたから。

  しかし、この日、第5師団は、硫黄島では唯一の出来事に遭遇します。

 1530に日本軍が真っ昼間に守備隊砲兵を移動させているのを観測機が発見。連絡を受けた第13連隊(砲兵)が、観測機の指示に基づき約600発の砲弾を浴びせて兵士100名、野砲三門、牽引車そして弾薬を炎上させる戦火をあげます。禁止されていた昼間の移動を行った理由は不明ですが、結局、日本軍の砲兵部隊が昼間に姿を見せたのは、これが最後の出来事でした。

 そして、摺鉢山に星条旗を掲揚した第28海兵連隊が、摺鉢山周辺の掃討を終え、第5海兵師団に合流しました。

D+6

 日本軍は、未だに硫黄島の半分以上を確保し、抵抗も以前と頑強でしたが、既に島にいる兵力では海兵隊が日本軍を上回っていました。

 海岸も、既に初期の混乱は姿を消し、海兵隊の工兵と建設大隊は破壊された船舶や車両を片付け、「Beans、Bullet、Bandage(豆、弾丸、そして包帯。海兵隊が戦うべく定められた三つの物)」を含めた何千トン物物資を揚陸し、ブルドーザーが千鳥飛行場を日本軍の砲撃にたびたび中断させながらも整備を行い、夜間までに軽飛行機ならば着陸できる状態にまでこぎ着けました。

 マリアナからは郵便物が届くようになり、約1,500名の負傷者を乗せた9隻の輸送船がグアムへと出航しています。

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