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デタッチメント作戦(硫黄島攻略)1945年2月16日-3月26日

D+9 2月28日

3/27
僅かな遮蔽物を利用して日本軍の攻撃を避ける3/27の機関銃チーム

 三カ所に設けられた第4及び第5師団の野戦病院は満員でした。既に負傷者を病院船へ運ぶ必要が無いだけの十分な医療器具やベッドが硫黄島に置かれており、4隻の病院船は負傷者を乗せてサイパンへ出発していました。

 また、海軍や陸軍航空隊の輸送機が医療品などの重要な補給物資を投下してもいます。

 そして、ルーズベルト大統領がヤルタ会談へ出発した日。硫黄島では変わることのない激戦が再び幕を開けました。

第3海兵師団

 第3師団に対し、シュミット少将から、師団正面に残った高地の確保と北部海岸線への前進が命じられます。

 ピーターとオーボエ両高地の占領のため、二日間の死闘を繰り広げた第9連隊に代わり、ハートノール・J・ウィザーズ大佐の第21連隊が夜明けに前進を開始し、第9連隊と交替。この間、散発的な日本軍の狙撃を受けながら、0815までに突撃準備を完了。

 これまで同様、事前砲撃が行われ、30分後に前進が開始。

 直後に潜んでいた西中佐指揮下の戦車第二六連隊所属の戦車も現れ、制圧にかかりますが、I中隊のステファン大尉は、即座に対戦車戦闘の覚悟を決め、火炎放射器とバズーカによって三輌を擱座。そして、更に二輌が航空機によって撃破されました。

  しかし、砲爆撃で混乱した日本軍守備部隊も次第に落ち着き始めると反撃を開始し、400メートルを前進した0930に第21連隊は全く進めなくなりました。。

 前進が停止した後、1300過ぎに再び艦砲射撃と爆撃が行われるまで戦線は膠着していましたが、この砲爆撃によって突破口が開かれたことに前進は再開。

 同時にデュプランス中佐の第3大隊も突撃し、かつて栗林中将が着任したときに歓待を受けた元山地区を突破。そのまま北飛行場(未完成)を見下ろす高台まで白兵戦を繰り広げながら進み、これを確保することに成功しました。

 ただ、これにより、第21連隊の第3大隊は他の部隊よりも600メートル突出した形となり、アースカイン将軍は第9連隊の第1大隊と第2大隊に守備部隊側面を攻撃させる一方で、第21連隊の残りで間隙を埋める処置を執ることとなり、午後一杯の激しい戦闘によって辛うじて夜間までに戦線をつなげることに成功しました。

 これで、取り敢えず第3師団は硫黄島守備部隊の防衛戦の中央を突破したことになります。

 夜間、元山地区の外れで休息を取った第21連隊長ウィザーズ大佐は、アースカイン将軍に更に進撃を続けるかの指示を請いました。

「進むんだ! 君たちが歩いて戻る必要がないように北海岸にヒギンズボートを送っておく」

 アースカイン少将の回答も空しく、北海岸へ到達するのは更に数日を要することとなります。

第4海兵師団

 第4師団は肉挽き器こと382高地二段岩へと、5個大隊約6,000名が0815に、これまで同様の艦砲射撃と空爆の後に突撃を開始し、そしてこれまで同様に日本軍の反撃で突撃を食い止められ、これまで同様に、また一メートル刻みの前進になりました。

 28日は、更に円形劇場や南地区からの攻撃も加わり、損害を与えましたが、日本軍もこれまでの攻防で被害を受けており、第4師団は戦車の支援を受けながら浸透していき、0215に第23連隊第1大隊A中隊が二段岩の背後へ到達。

 更に第1臨時ロケット第1分遣隊が4.5インチロケット弾を撃ち込み、A中隊の攻撃を支援しますが、日本軍の抵抗を一時的に阻害することはできても、排除することはできませんでした。

 同様に前進していたラニガン大佐の第25連隊も、玉名山と円形劇場を攻めますが、日本軍の複雑に入り組んだ陣地からの迫撃砲と手榴弾によって危機的状況に陥りました。頼みの綱の戦車は地雷原に踏み込んで一台が擱座したものの二輌がターキーノブ山頂の監視通信所に直接砲撃を浴びせ、また地形のために戦車が投入できない第2大隊にいたっては、頭に来て75mm榴弾砲を分解し、DUKWに積み込んで日本軍陣地の前面まで運ぶとそこで組み立てて零距離射撃で85発を撃ち込み、大いに士気を高めました。成果はともかく。

九八式特殊臼砲

海兵隊を恐怖させた九八式特殊臼砲

 他の部隊と違って、第3大隊だけが楽に前進できましたが、結局、間隙を作っただけに終わり、ケーツ少将は1645に後退を命令。

 一部の部隊は更に二時間かけて戦線離脱しなければなりませんでした。

 こうして終わった戦いの戦果は零。

 10日間で、第4師団の受けた死傷者は4,000名以上に達していました。第4海兵師団第24海兵連隊の情報将校アーサー・B・ハンソン少佐ニューズウィーク誌の記者へ自ら、日本軍の"空飛ぶゴミ缶"九八式特殊臼砲の驚異を語りました。

 それでも師団の情報将校エドウィン・A・ポロック大佐は、それでも、日本軍が決定的な打撃を被り、弾薬、飲料水、医薬品が不足し、更にそれらの補給もままならない情報を捕虜から得ていましたし、同時に日本軍の通信網が既に破壊されていることから、総反撃は不可能と報告しました。

 一方で大佐は、日本軍の夜襲を警告することも忘れませんでした。この警告は正しく、2100過ぎと0200過ぎの二度、日本軍部隊がチェンバース中佐が負傷した後に第3大隊を引き継いだジム・ヘッドレイ大尉の正面に肉薄してきましたが、照明弾で照らされた日本軍へ掃射を浴びせて200名を倒しています。

第5海兵師団

 第5師団第27連隊のジョン・バトラー中佐の第1大隊とドン・ロバートソン中佐の第3大隊は0815に362A高地へと攻撃を開始。

 先頭には第3大隊が戦車6台の支援を受けて進みますが、即座に弾幕射撃によって前進を阻止されました。

 ライフルグレネードを装備した擲弾手がシャーマン戦車に乗って突進し、塹壕とバンカーへ擲弾を叩き込み、戦車砲の支援を受けながら火炎放射器班と爆破班が前進して止めを刺す方法でどうにか日本軍の中戦車三台を撃破し、正午近くに麓へ到達。

 砲弾を撃ち尽くしたシャーマン一台が突撃してきた日本軍の手榴弾をよけようとして窪地にはまってキャタピラが外れて擱座。

 他の三台が前進して進路を切り開いたところに大隊は再び前進を開始。

 そこで彼らは斜面の上、両側面、迂回してきた後方の要塞からも攻撃を受けました。

 二個中隊が、この十字砲火の中、1630まで悪戦苦闘して耐え、20名が何とか南西斜面から頂上へ到達しますが、優勢な日本軍の攻撃を阻止する力は無く、伝令が走って斜面や麓の部隊へ100メートルの後退を伝えていきました。

 しかし、一部には指令が届かず、また届いても動けない部隊もいました。その孤立した部隊にいた海軍衛生官ジョン・H・ウィリス一等兵曹は第3大隊の負傷兵の間を跳び回っていましたが2時過ぎに榴弾の破片で負傷。後退させられます。しかし、彼は大隊救護所で手当を受けると、前線へ舞い戻り、30分後には再び最前線で治療を始めていました。

 頂上半ばで負傷した海兵隊員を見つけたウィリス一等兵曹は着剣したライフルを地面に突き刺し、血漿瓶を引っかけて重傷の海兵隊員に針を突き刺したところで日本軍の手榴弾が間近に落下。すぐに投げ返すこと7回。そこで命運は尽き、9個目を手にした彼が、血漿が負傷した海兵隊員に上手く流れ込んでいるのかを調べている間に手の中で爆発し、後に大隊付軍医チャールス・J・ヘリー中尉が、

「私が出会った中で、最も勇敢な若者であり、最高に素晴らしい衛生官だった」

 と回想する23歳の若者は戦死し、そして、これらの行動により名誉勲章が授けられました。

 西海岸線沿いに進むバトラー中佐の第1大隊は、強い反撃に遭遇しましたが、地形に助けられ、そこを迂回することに成功し、薄暮れ時までに300メートルの前進に成功していました。

 しかし、幸運もそこまでで362A高地の攻撃では、更に200名の死傷者を受けています。

 グラハム大佐の第26連隊は予備部隊として、次の攻撃準備に備え、そして摺鉢山の掃討を終えたリヴァセッジ大佐の第28連隊も本隊と合流するために摺鉢山を後にしました。

D+9

 この日の戦果は全戦線に渡って無きに等しいものでした。

 それでも、ポロック大佐が報告したように、各地で日本軍守備隊の方も疲弊し、第4師団の前進は僅かにもかかわらず、382高地とターキーノブの前面の防衛線の粉砕に成功していました。

 次の攻勢を続けるために、各師団は準備を整え、そして摺鉢山の掃討を行っていたリヴァセッジ大佐の第28連隊も、この日、初めて北部へと移動しています。

 一方で、アースカイン将軍はシュミット将軍へ、第3海兵連隊の投入許可を求めていました。シュミット将軍は、既に約8,000名の損失を受けていたことから、許可するのですが、これもスミス中将によって却下され、硫黄島にまつわる論争が、また一つ幕を開きました。

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