名誉勲章受章者-W-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
エドワード・A・ウォーカー |
軍曹 |
1900 |
中国(北京) |
ケネス・A・ウォルシュ |
中尉 |
1943 |
ソロモン |
ウィリアム・G・ウォルシュ |
一等軍曹 |
1945 |
硫黄島 |
ルイス・G・ワトキンス | 二等軍曹 |
1952 |
朝鮮 |
ウィルソン・D・ワトソン |
二等兵 |
1945 |
硫黄島 |
レスター・W・ウェーバー |
上等兵 |
1969 |
ベトナム |
ウォルター・S・ウェスト |
兵 |
1898 |
キューバ |
ロイ・M・ウィート |
上等兵 |
1967 |
ベトナム |
ドゥウェイン・F・ウィリアムス | 一等兵 |
1968 |
ベトナム |
アーネスト・C・ウィリアムズ |
中尉 |
1916 |
ドミニカ |
受賞者V |
エドワード・A・ウォーカー軍曹
1900年:中国(北京)
海軍分遣隊55号
1864年10月2日 | スコットランド ハントレーで生まれる |
感状:
1900年6月20日から7月16日まで中国北京の戦闘中、敵の面前において。
この期間を通じ、ウォーカーは賞賛に値する行為によって彼自身を際立たせた。
ケネス・A・ウォルシュ中尉
1943年:ソロモン
第124海兵戦闘航空隊
1916年11月24日 | ニューヨーク州ブルックリンで生まれる |
1933年12月15日 | 海兵隊入隊 |
1936年3月 | パイロット訓練 |
1942年10月 | 少尉任官 |
1943年8月 | 21機撃墜 |
1944年2月 | 大尉(暫定:1948年11月13日正式) |
1945年4月 | フィリピン及び沖縄 |
1950年7月 | 朝鮮に派遣(-1951/7) |
1955年4月 | 少佐昇進 |
1958年10月 | 中佐昇進 |
1962年1月 | 退役 |
1998年7月30日 | 死去 |
感状:
ソロモン諸島地域の敵日本軍部隊に対する空中戦において第124海兵戦闘航空隊パイロットとして義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1943年8月15日、ヴェララヴェラで連合軍地上部隊と船舶を爆撃に向かう敵の試みを決然と阻止するためにウォルシュ中尉は6対1で彼自身の編成より数で勝る敵の編隊の中へ彼の航空機を繰り返し急降下させ、そして彼の航空機は多数の命中弾を受けたにもかかわらず、二機の日本軍急降下爆撃機と一機の戦闘機を撃墜した。
極めて重要な護衛任務の間の8月30日にはエンジントラブルを起こした後、ウォルシュ中尉はムンダに彼の機械的に損傷した航空機を着陸させ、迅速にそれを別な機体と取り替え、そしてカヒリ上空へ彼の飛行中隊と再会するために向かった。
彼の護衛集団から離れていたとき、彼は約50機の日本軍ゼロ戦に遭遇し、彼は強力な部隊に対するただ一人だけの戦いにおいて情け容赦のない激しさとともに動揺することなく迫って攻撃した。
大砲の砲弾が、彼に彼が後に拾い上げられるヴェラ・ラヴェラに不時着を強いる操縦桿の破壊をもたらす前に彼は四機の敵戦闘機を破壊した。
彼の勇敢なリーダーシップと 彼の飛行士としての大胆な技術は彼の戦友のパイロットたちを鼓舞し、そして信頼させる源となり、そして合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
フランクリン・D・ルーズベルト
ウィリアム・G・ウォルシュ一等軍曹
1945年:硫黄島
第5海兵師団第27海兵連隊第3海兵連隊G中隊
1922年4月7日 | マサチューセッツ州ロックスバリーで生まれる |
1942年4月 | 海兵隊入隊 |
1942年 | 第2強襲大隊 |
1942年11月 | ガダルカナル |
1943年1月 | ラッセル島上陸 |
1943年11月 | ブーゲンビル上陸 |
1943年11月 | タラワ環礁ベティオ島上陸 |
1945年2月19日 | 硫黄島上陸 |
1945年2月27日 | 戦死 |
感状:
1945年2月27日、火山列島硫黄島で敵日本軍部隊に対する戦闘において第5海兵師団第27海兵連隊第3大隊G中隊とともに突撃小隊の指揮官として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
前進拠点からの激しい機関銃火によって混乱させられた362高地へ向けての彼の中隊の前進でこの鍵となる敵の要塞への接近を防御されてウォルシュ一等軍曹は彼の大胆な突撃を粉砕するため狂信的な死に物狂いとともに使用した敵自動火器と手榴弾の容赦のない猛威も全く気に止めず、彼を丘の上の日本軍塹壕に対する彼の小隊の戦闘に立ち恐れることなく突進させた。
敵の猛烈な抵抗によって押し戻され、彼はその一帯を満たした銃弾の壊滅しようとする流れへ大胆に挑戦し、険しい岩だらけの斜面を登っての一見不可能な攻撃において彼の部下をもう一度導き、そして彼自身の損失にもかかわらず、そして数において優勢で優位な地点にいる日本兵によって圧倒的な有利さで確保された逆勾配上にある最後の自殺的な集結した日本軍残党による手榴弾を投げ付ける激しい弾幕の原因である丘の頂上を獲得した。
小さな塹壕の中に共に寄り集まっていた彼の生存者たちの中に一個の手榴弾が落下したとき、ウォルシュ一等軍曹は完全なる自己犠牲の最後の勇敢な行為で、即座に致命的な爆弾の上に彼自身を投げ出し、爆発の全てと恐ろしい力を彼自身の身体で吸収した。
彼の驚くべき自発性とほぼ確実な死に直面しての鼓舞する勇気を通じ、彼は負傷と生命の損失の可能性から彼の戦友たちを守り、そして、この肝要な敵の拠点を奪取し、そして確保することを彼の中隊に可能にさせた。
彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
ルイス・G・ワトキンス二等軍曹
1952年:朝鮮
第1海兵師団第7海兵連隊第3大隊I中隊
1925年6月6日 | サウスカロライナ州セネカで生まれる |
1950年9月12日 | 海兵隊入隊 |
1952年10月7日 | 戦死 |
感状:
1952年10月7日の払暁、朝鮮の敵侵略部隊に対する戦闘において第1海兵師団(増強)第7海兵連隊第3大隊I中隊のライフル小隊の指導者として従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
既にその夜早くに敵によって突破されていた前哨点を奪還する任務に選ばれた彼の小隊とともにワトキンス二等軍曹は指定された丘を登っての突撃で彼の部隊を巧みに導いた。
激しい小火器と手榴弾の銃撃で小隊と交戦する丘の頂に巧みな塹壕に潜む敵部隊に、その時、痛烈な怪我を負わされたにもかかわらず、彼は彼の部下を勇敢に導き続けた。
負傷者の一人から自動小銃を手に入れ、彼は突撃を妨害する敵機関銃を釘付けにするのを支援した。
丘の頂上の塹壕を通って前へと彼らが進む間にワトキンス二等軍曹と数人の他の海兵隊員の中に敵の手榴弾が落下したとき、彼は即座に彼の仲間を脇へ押しやり、彼らの盾になるような場所に彼自身を置き、そして塹壕の外側へ致命的なミサイルを投げようと試みてそれを拾い上げた。
彼の手の中で手榴弾は爆発して、致命傷を負ったワトキンス二等軍曹はほぼ確実な死に直面しての彼の偉大な個人的勇気により、彼の戦友たち多数の生命を救い、そして任務の成功へ実質的な要因となった。
彼の並外れた英雄的行為、鼓舞するリーダーシップ、そして無私の断固たる決意は彼自身に最高の名誉をもたらし、そして合衆国海軍職務の崇高な伝統を支えた。
彼は、彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
ドワイト・D・アイゼンハワー
ウィルソン・D・ワトソン二等兵
1945年:硫黄島
第3海兵師団第9海兵連隊第2大隊
1921年2月16日 | アーカンソー州アールで生まれる |
1942年8月6日 | 海兵隊入隊 |
1943年 | ブーゲンビル |
1944年 | グアム |
1945年2月 | 名誉勲章 |
退役 | |
1946年9月30日 | アメリカ陸軍入隊 |
5級特技兵にて退役 | |
1994年12月19日 | 死去 |
感状:
1945年2月26日と27日、火山列島硫黄島の敵日本軍部隊に対する戦闘中、第3海兵師団第9海兵連隊第2大隊所属の自動小銃兵として従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
前進の線を見下ろす高い岩山と絶壁の敵要塞からの激しい銃撃によって突如として停止させられた彼の分隊とともにワトソン二等兵は大胆に掩蔽壕の一つに突進すると彼の武器で銃眼の中へ撃ち込み、彼が手榴弾を投げられる位置まで独力で敵を釘付けにし続け、そして彼の小隊がその目標の確保を可能にするために、それから撤退する日本兵の壊滅に銃座の後方へと走った。
再び小さな丘で釘付けにされ、彼は凄まじい迫撃砲と機関銃の弾幕下、ぎざぎざの勾配をよじ登り、そして彼の自動小銃兵補佐とともに腰だめで発砲し、丘の頂上へ突進した。
逆勾配から手榴弾と膝撃ち迫撃砲とともに攻撃する日本軍兵士に対し、猛然と戦い彼は敵軍の砲座に向けるために彼のむき出しの場所で大胆に仁王立ちとなり、そして15分間、猛烈な銃撃の下、丘を確保し、彼の弾薬が消耗する前に60名の日本兵を殺害し、そして彼の小隊は彼と合流することができた。
彼の勇ましい自発性と破壊的な勝算に対する勇敢な闘争心は彼の小隊の前進を続けさせるための直接的な要因となり、そして彼の鼓舞するリーダーシップを通じ、この痛烈に戦った行為は、ワトソン二等兵と合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
ハリー・S・トルーマン
レスター・W・ウェーバー上等兵
1969年:ベトナム
第1海兵師団第7海兵連隊第3大隊M中隊
1948年7月30日 | イリノイ州オーロラで生まれる |
1966年9月30日 | 海兵隊予備役 |
1967年1月23日 | 海兵隊入隊 |
1969年2月23日 | 戦死 |
感状:
ベトナム共和国の敵に対する戦闘において第1海兵師団第7海兵連隊第3大隊M中隊所属の機関銃分隊長として従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1969年2月23日、M中隊の第2小隊は巧みに塹壕に隠れた敵大隊と既に激しい交戦となっていた他の小隊からの分隊を支援するためにクアン・ナム省ヒエウダク地区のボー・バン地域に派遣された。
丈の高い草に覆われた稲田を通って移動中にウェーバー上等兵の小隊は偽装した敵軍兵士から激しい攻撃を受けた。
他の11名の接触を断つことを強制し、そして成功裏に一人の敵を攻撃して丈の高い草の中へ飛び込むことによって、彼は逆襲した。
二人目の北ベトナム陸軍兵士に遭遇するや彼は凄まじい白兵戦で彼を制圧した。
二人の他の兵士が土手の背後から彼の戦友たちを銃撃していることに気づき、ウェーバー上等兵は敵の荒れ狂う銃撃を無視して危険地帯を横切って走り、それらの拠点の中へと飛び込んだ。
彼は二人の兵士の手から武器をもぎ取り、そしてそれらを圧倒することによって拠点を無力化した。
今度は敵軍のライフルマンからの銃撃が集中して目標になったにもかかわらず、ウェーバー上等兵は彼の戦友たちを励ますために激励の言葉を叫ぶため、危険なほどにむき出しの場所に留まった。
彼が5人目の敵兵士を攻撃するために前方へ移動したとき、彼は致命傷を負った。
ウェーバー上等兵の不屈の勇気、積極的な闘争心と義務への揺らぐことのない忠誠は海兵隊と合衆国海軍職務の崇高な伝統を支えた。
彼は、彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
ウォルター・S・ウェスト兵
1898年:キューバ
USSマーブルヘッド海軍分遣隊521号
1872年3月13日 | ニューハンプシャー州ブラッドフォードで生まれる |
1897年5月11日 | 海兵隊入隊 |
1899年1月14日 | 不名誉除隊 |
1899年7月7日 | 名誉勲章 |
1932年6月30日 | 名誉除隊に記録変更 |
1943年9月14日 | 死去 |
感状:
1898年5月11日、キューバ、シエンフエゴスから引かれたケーブルを切断する任務中、USSマーブルヘッドに乗船していた。
敵の激しい銃撃に直面してウェストはこの戦いを通じて驚くべき勇気と冷静さを示した。
ロイ・M・ウィート上等兵
1967年:ベトナム
第1海兵師団第7海兵連隊第3大隊K中隊
1947年7月24日 | ミシシッピー州マウザーで生まれる |
1966年9月 | 海兵隊入隊 |
1967年8月11日 | 戦死 |
感状:
ベトナム共和国において、第1海兵師団第7海兵連隊第3大隊K中隊第1小隊所属の射撃班長として従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1967年8月11日、ウィート伍長と海兵隊員他二人はクアン・ナム省ディエン・バン地区付近において解放道路に沿って作業中の海軍建設大隊のクレーンと作業員のための安全を提供する任務に選ばれていた。
海兵隊員が作業場に隣接した木の木立内に防御陣地を設置した後、ウィート伍長はゲリラが出現する可能性のため、彼らの場所の後方へ、その一帯を調査した。
彼は味方陣地の10フィート以内までそれから戻り、そしてここで巧みに隠された跳躍式対人地雷を意図することなく作動させた。
即座にシューという音を聞いてヒューズの燃える時間のそれと三人の海兵隊員が近くにいることを認めた。
彼の戦友へ警告を叫ぶとウィート伍長は地雷の上に彼自身を投げ出す英雄的な断固とした行動において彼自身の体で爆発の恐ろしい衝撃を吸収した。
感激させる個人的英雄行為と彼の無私の行為による驚くべき勇気は確実な負傷と死の可能性から彼の仲間の海兵隊員を守り、彼自身に偉大な名誉をもたらし、そして海兵隊と合衆国海軍職務の崇高な伝統を支えた。
彼は、彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
リンドン・B・ジョンソン
ドゥウェイン・F・ウィリアムス一等兵
1968年:ベトナム
第1海兵師団第1海兵連隊第2大隊H中隊
1949年9月18日 | ミシガン州ブラウンシティで生まれる |
1967年12月18日 | 海兵隊予備役 |
1968年1月2日 | 海兵隊入隊 |
1969年9月18日 | 戦死 |
感状:
ベトナム共和国クアン・ナム省における共産主義反乱軍部隊に対する戦闘において第1海兵師団第1海兵連隊第2大隊H中隊第1小隊所属のライフルマンとして従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
ウィリアムズ一等兵は地域において活動する敵狙撃兵チームの迎撃と撲滅することを許された任務の中隊の地域において創設された陣地の任務と共に小隊から派遣された戦闘パトロール部隊の一員だった。
1968年9月18日の夜、パトロール部隊は、その夜明けの地点から事前に選んだ夜間地点まで移動する準備をしていたとき、それは小火器と手榴弾を使用する敵の分隊によって待ち伏せ攻撃を受けた。
近距離の激しい銃撃によって背中にひどい怪我を負ったにもかかわらず、ウィリアムズ一等兵はパトロール部隊の危険を認識して、即座に適した銃撃地変へ向かって前方へ匍匐を始めた。
彼が継続する激しい銃撃の下で移動する間に、彼は彼らの場所に落下した敵手榴弾を警告する声をパトロール部隊員の一人から聞いた。
警告に即座に反応し、彼は近くに落下した手榴弾が横たわるのを見て、英雄的な勇敢な行為において躊躇うこともなく、彼は彼自身の身体で爆発の完全なそして恐ろしい衝撃を吸収するために手榴弾の上に転がった。
彼の並外れた自発性と確実な死に直面しての鼓舞する勇気を通じて、彼は深刻な怪我と生命の損失の可能性から彼のパトロール部隊の他の隊員たちを守り、そして攻撃者を撃退し、援軍が到着するまで彼らの拠点を確保することを可能にさせた。
彼の偉大な英雄的行為と義務への忠誠は海兵隊と合衆国海軍職務の崇高な伝統を支えた。
彼は、彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
アーネスト・C・ウィリアムズ中尉
1916年:ドミニカ
海軍分遣隊289号
1887年8月2日 | イリノイ州ブロードウェルで生まれる |
1907年1月5日 | 海兵隊入隊 |
1909年1月30日 | 少尉任官 |
1917年4月27日 | 名誉勲章 |
1921年3月22日 | 退役(最終階級中佐) |
1940年7月31日 | 死去 |
感状:
1916年11月29日、ドミニカ共和国サンフランシスコ・デ・マコリスの敵軍部隊に対する戦闘において。
利用できる僅か12人の部下と共にウィリアムズ中尉は要塞の門へ突進した。
防御者のライフルの銃撃によって彼の隊の8人が負傷すると共に彼は残った4人と共に押し寄せて、ドミニカ人によって閉じられようとするのと同時にドアに対して彼自身を飛び込み、そして部隊を突入させた。
ライフルマンの手で死から辛うじて逃れたにもかかわらず、彼と彼の部下は見張りの配置をし、そして数分以内に要塞とそこにこもった100名の捕虜の統制を得ていた。
受賞者V |