名誉勲章受章者-S-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
デビット・J・スキャンネル | 兵 |
1900 |
中国(北京) |
クリスチアン・F・シルト | 中尉 |
1928 |
ニカラグア |
アルバート・E・シュワブ | 一等兵 |
1945 |
沖縄 |
ジョセフ・F・スコット | 兵 |
1898 |
キューバ |
ジョン・シヴァーズ | 兵 |
1865 |
フィッシャー砦 |
デビット・M・シャウプ | 大佐 |
1943 |
タラワ |
ウィリアム・E・シャック Jr. | 二等軍曹 |
1952 |
朝鮮 |
フランクリン・E・シグラー | 二等兵 |
1945 |
硫黄島 |
ロバート・E・シマネック | 一等兵 |
1952 |
朝鮮 |
ウォルター・K・シングルトン | 軍曹 |
1967 |
ベトナム |
受賞者R |
デビット・J・スキャンネル兵
1900年:中国(北京)
海軍分遣隊55号
1875年3月30日 | マサチューセッツ州ボストンで生まれる |
感状:
1900年7月21日から8月17日、中国、北京の戦闘中、敵の面前において。
この期間を通じ、スキャンネルは立派な行為により彼自身を際立たせた。
クリスチアン・F・シルト中尉
1928年:ニカラグア
観測航空隊7-M
1895年3月19日 | イリノイ州リッチモンド郡で生まれる |
1917年6月23日 | 海兵隊入隊 |
1919年6月5日 | パイロット資格取得 |
1919年6月10日 | 少尉任官 |
1928年1月 | 名誉勲章 |
1942年9月 | 第1海兵航空団主任参謀 |
1945年10月 | 第2海兵航空団司令官 |
1951年7月 | 第1海兵航空団司令官 |
1952年4月 | エルトロ海兵隊航空基地司令官代理 |
1953年2月 | 太平洋艦隊海兵軍航空司令官 |
1955年8月1日 | 海兵隊司令部航空局長(中将) |
1957年4月1日 | 大将にて退役 |
1987年1月8日 | 死去 |
感状:
1928年1月6日、7日、そして8日、ニカラグア、クイラリでの反乱の進展中、シルト中尉は、そのとき、殺害もしくは負傷により激しい損失を被っていた海兵遠征隊のメンバーに、ほぼ不可能な条件下で航空機により負傷者を避難させ、そして非常に深刻な状況の責任を引き受けるための指揮官の輸送を志願した。
シルト中尉は、この危険で、そして重要な任務に勇敢に着手し、そしてそれぞれの時に銃撃の中で合計10回の離陸により、彼の任務を達成させ、それによって実際に三人の生命を救い、そして深刻な要求において他の者へ補給と支援を提供することに成功した。
アルバート・E・シュワブ一等兵
1945年:沖縄
第1海兵師団第5海兵連隊第1海兵連隊司令部中隊
1920年7月17日 | ワシントンDCで生まれる |
1944年5月12日 | 海兵隊入隊 |
1945年4月1日 | 沖縄上陸 |
1945年5月7日 | 戦死 |
1959年10月3日 | 沖縄キャンプ・シュワブ創設 |
感状:
1945年5月7日、琉球島における沖縄島の敵日本軍部隊に対する戦闘において第1海兵師団第5海兵連隊第1大隊司令部中隊所属の火炎放射器手として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
前線の高い丘から発する機関銃に包まれるような銃撃を受けた結果、多数の死傷者の被害を生じ、そして、谷で彼の中隊が釘付けになったとき、迅速に処置を講じ、シュワブ一等兵は両側とも険しい崖のために敵銃座の側面には向かうことができず、激しい弾幕の大胆な挑戦において丘の正面の上へ進み、そして彼の火炎放射器の炎を巧みに向け、迅速に敵中陣地を破壊して、それにより、彼の中隊に丘の占領を可能にさせた。
突如として、二つ目の日本軍の機関銃が銃撃を開始し、その最初の発砲で数人の海兵隊員を殺害もしくは負傷させた。
彼の戦友たちと一瞬の決断で判断した戦術的な困難に立ち向かいシュワブ一等兵は彼の火炎放射器の燃料の残りが少なくなったにもかかわらず彼の一騎駆けを続けることを選んだ。
冷静な、そして不屈の彼は敵軍の銃撃が直接集中をものともせずに前進し、容赦なく敵陣地へ接近すると攻撃した。
敵の武器からの最後の激しい発砲によって重傷を負ったにもかかわらず、シュワブ一等兵は作戦の重要な局面の間、二つの戦略上極めて重要な日本軍銃陣地の破壊に成功し、そして彼の勇敢な単独の努力によって彼の中隊の前進を大いに進めた。
彼の積極的な自発性、顕著な勇気と苦しい戦いを通じての専門的技能は合衆国海軍職務の崇高な伝統を高め、そして支えた。
彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
ジョセフ・F・スコット兵
1898年:キューバ
USSナッシュビル海軍分遣隊521号
1864年6月4日 | マサチューセッツ州ボストンで生まれる |
1888年8月11日 | 海兵隊入隊 |
1899年7月7日 | 名誉勲章 |
1901年5月7日 | 名誉除隊 |
1941年2月28日 | 死去 |
感状:
1898年5月11日、キューバ、シエンフエゴスから引かれたケーブルを切断する任務中、USSナッシュビルに乗船していた。
敵の激しい銃撃に直面し、スコットはこの戦いを通じて驚くべき勇気と冷静さを示した。
ジョン・シヴァーズ兵
1865年:フィッシャー砦
USSミネソタ海軍分遣隊59号
1830年 | カナダで生まれる |
1864年9月17日 | 海兵隊入隊 |
1865年6月22日 | 名誉勲章 |
1865年10月27日 | 逃亡 |
感状:
1865年2月15日、フィッシャー砦への襲撃においてUSSミネソタに乗船していた。
彼の船からの襲撃班とともに海岸へ上陸したシヴァーズ兵は敵の銃撃で多数の将校と人が死亡或いは負傷したにもかかわらず、砂丘の頂上と断崖の突破口の一部を突破して前進した。
三分の二以上の兵員がパニックに捕らわれ、そして走って撤退したとき、彼はその負傷者、その武器、そしてその軍旗をもたらし、離れて安全がきたとき、暗くなるまで部隊とともに止まった。
デビット・M・シャウプ大佐
1943年:タラワ ベティオ島
第2海兵師団第2海兵連隊長
1904年12月30日 | インディアナ州バトルグランドで生まれる |
1926年7月20日 | 海兵隊少尉 |
1927年 | 第6海兵連隊 |
1929年6月 | USSメリーランド(-1931/9) |
1934年11月 | 第4海兵連隊 |
1941年5月 | アイスランド上陸 |
1942年7月 | 第2海兵連隊作戦参謀補佐 |
1942年10月 | ガダルカナル |
1943年11月9日 | 第2海兵連隊長 |
1943年11月20日 | タラワ ベティオ島上陸 |
1943年12月 | 第2海兵師団参謀長 |
1944年6月 | サイパン |
1949年6月 | 第1海兵師団参謀長 |
1957年6月 | 第1海兵師団長 |
1958年3月 | 第3海兵師団長 |
1959年3月 | パリスアイランド司令官 |
1960年1月1日 | 第22代海兵隊司令官(大将) |
1963年12月31日 | 退役 |
1983年1月13日 | 死去 |
感状:
1943年11月20日から22日、ギルバート諸島タラワ環礁ベティオ島の敵日本軍部隊に対する戦闘において全ての海兵隊兵士の指揮官として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
桟橋に上陸した直後に敵砲弾の爆発によって激しい衝撃を受けたにもかかわらず、そして既に影響を受けていた深刻でひどい足の怪我に苦しみながら、シャウプ大佐は、敵海岸掩蔽壕からの物凄く情け容赦の無い砲撃、機関銃、そしてライフルの銃撃に恐れることなく彼自身をさらけ出し、そして、彼自らの鼓舞する英雄的資質によって彼の躊躇いがちの兵士たちを再結集し、勇敢に激しく圧力を受ける我々が疎らに確保した前線を強化し、そして強固に要塞化された島への突撃へ取り巻く岩礁を横切って彼らを勇敢に導いた。
海岸に到着すると彼は全ての上陸兵士たちの指揮を引き受け、そして不変の下、次の二日の間に辛辣な敵の銃撃に休むことなく歩き続け、無数の傷害と厳しい死傷者にもかかわらず、驚くべき強固で熱狂的な日本軍棒閲陣地に対する猛烈な攻撃を行った。
彼の素晴らしいリーダーシップ、大胆な戦術と義務への無私の忠誠により、シャウプ大佐は敵を最終的に打ち負かす、決定的に大きな責任を果たし、そして彼の闘争心は合衆国海軍色に偉大な名誉をもたらした。
フランクリン・D・ルーズベルト
ウィリアム・E・シャック Jr.二等軍曹
1952年:朝鮮
第1海兵師団第7海兵連隊第3大隊G中隊
1926年8月16日 | メリーランド州カンバーランドで生まれる |
1947年11月14日 | 海兵隊入隊 |
1952年7月3日 | 戦死 |
感状:
1952年7月3日、朝鮮、敵侵略部隊に対する戦闘において第1海兵師団(増強)第7海兵連隊第3大隊G中隊の分隊長として従事中に義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
彼の小隊が抵抗の主力線まで上手く前進し、強固に要塞化された丘陣地に対しての突撃の間、敵の小火器、手榴弾、野砲、そして迫撃砲火の壊滅的な弾幕を受けたとき、シャック二等軍曹は痛烈な怪我を負ったにもかかわらず、医療行為を拒絶し、そして攻撃に彼の機関銃分隊を導き続けた。
躊躇うことなく分隊長が死傷したライフル分隊の指揮を引き受け、彼は攻撃部隊に二個分隊を巧みに組織化し、そして二つを一層大胆な突撃で敵軍陣地へ導いた。
二度目の傷を負った彼は避難を断固として拒絶して全ての死者と負傷者の搬出が確実になるまで激しい銃撃下で最も重要な陣地に留まった。
最後の死傷者の移動を自発的に手伝った際、敵狙撃手の弾丸によって致命傷を負ったシャック二等軍曹は圧倒的な勝算に直面しての彼の不屈の精神と偉大な個人的勇気によって彼を見た者全てを鼓舞するのに役立った。
彼の不屈の勇気を通じて彼自身と合衆国海軍職務に最高の名誉がもたらされた。
彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
ドワイト・D・アイゼンハワー
フランクリン・E・シグラー二等兵
1945年:硫黄島
第5海兵師団第26海兵連隊第2大隊F中隊
1924年11月6日 | ニュージャージー州モントクレアで生まれる |
1943年3月23日 | 海兵隊入隊 |
1945年2月19日 | 硫黄島上陸 |
1945年3月14日 | 名誉勲章 |
1946年6月 | 一等兵にて退役 |
1995年1月20日 | 死去 |
感状:
1945年3月14日、火山諸島硫黄島の占領の間に敵日本軍部隊に対する戦闘において第5海兵師団第26海兵連隊第2大隊とともに従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
分隊長が死傷したとき、彼のライフル分隊の指揮を自発的に執り、シグラー二等兵は恐れることなく、数日間、彼の中隊の前進を食い止めていた敵の銃座に対し、大胆な突撃を導き、そして他の者より先に陣地へ到達し、手榴弾で砲座を襲撃し、そして自分自身で全ての要員を全滅させた。
増加した日本軍兵士が偽装したトンネルと洞窟を越えて発砲を始めたとき、彼は迅速に攻撃している銃まで先導して岩を登り、激しい一騎駆けで敵を奇襲し、そして交戦でひどい傷を負ったにもかかわらず、彼はゆっくりと彼の分隊拠点まで這い戻ると彼は避難を断固として拒絶し、日本軍の洞窟出入り口上へ激しい機関銃とロケットの弾幕を粘り強く指揮し続けた。
激しくなる戦闘中敵軍の容赦ない銃撃の雨にも怯まずに、彼は医療処置のために退くよう命じられるまで再開する決意とともに戦いを続けるために戻り、そして前線の背後へ無事に三人の負傷した分隊員を運び、死傷者を助けるために彼自身の痛む傷を無視した。
勇敢な、そして極度の危険に直面しての不屈のシグラー二等兵は彼の用心深い自発性、躊躇うことのないリーダーシップ、そして重要な局面における大胆な戦術によって敵の銃撃から彼の包囲された中隊の解放をもたらし、そして獰猛に戦う敵に対し、極めて重要なそれ以上の前進を与えた。
彼の素晴らしい勇気、断固たる不屈の精神、そして自己犠牲の英雄的精神を通じ、シグラー二等兵と合衆国海軍職務に最高の名誉がもたらされた。
ハリー・S・トルーマン
フランス・シルヴァ兵
1900年:中国(北京)
海軍分遣隊55号
1876年5月8日 | カリフォルニア州ヘイワーズで生まれる |
感状:
1900年6月28日から、8月17日、中国北京での戦闘中、敵の面前において。
この期間を通じ、シルヴァは顕著な行為により彼自身を際立たせた。
ロバート・E・シマネック一等兵
1952年:朝鮮
第1海兵師団第5海兵連隊第2大隊F中隊
1930年4月26日 | ミシガン州デトロイトで生まれる |
1952年8月13日 | 海兵隊入隊 |
1952年8月17日 | 名誉勲章 |
1953年3月1日 | 退役 |
感状:
1952年8月17日、朝鮮の敵侵略部隊に対する戦闘において第1海兵師団(増強)第5海兵連隊第2大隊F中隊とともに従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
味方前線の前方の戦闘前哨点を占拠するための道筋のパトロールに同行中、シマネック一等兵は彼の同僚の海兵隊員たちの生命を守るために高度な勇気と自己犠牲の断固たる精神を示した。
敵の迫撃砲、そして小火器の銃砲撃の激しい集中によって彼の部隊が待ち伏せされ、そして多数の死傷者を被り、彼は塹壕線近郊においてパトロールの残ったメンバーとともに掩護物を探すことを強いられた。
彼らの真ん中に敵の手榴弾が投げ込まれたとき、決然と彼の戦友たちを守るため、彼は躊躇うことなく致命的なミサイルに彼自身を投げ、彼自身の身体で爆発の衝撃の粉々にする暴力を吸収し、そして大怪我或いは死から彼の同僚の海兵隊員たちを保護した。
シマネック一等兵は彼の英雄的行動の結果、深刻な影を負ったが、彼の大胆な自発性とほぼ確実な死に直面しての偉大な個人的勇気によって、合衆国海軍職務崇高な伝統を支え、そして、彼を見たもの全てを鼓舞するのに役立った。
ウォルター・K・シングルトン軍曹
1967年:ベトナム
第3海兵師団第9海兵連隊第1大隊A中隊
1944年12月7日 | テネシー州メンフィスで生まれる |
1963年8月1日 | 海兵隊入隊 |
1967年3月24日 | 戦死 |
感状:
1967年3月24日、第3海兵師団第9海兵連隊第1大隊A中隊の補給軍曹として従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
シングルトン軍曹の中隊は、巧みに塹壕に隠れた敵部隊からの小火器、自動火器、ロケット、そして迫撃砲の激しい銃砲撃を斥候小隊が受けたとき、ベトナム共和国クアン・トリ省ジオ・リン地区において戦闘任務に就いていた。
中隊が、その行く手を前方で戦ったとき、極めて激しい敵の銃撃に多数の味方に死傷者が生じた。
負傷者の早期の治療が必要だと判断し、シングルトン軍曹は後方の彼の比較的安全な位置から前進して最も重要な地点へ迅速に動き、そして危険地帯の外へ負傷者を動かすために敵の殺戮地域を通って何度も往復した。
敵の銃撃の大半が生け垣から来ることに気づき、彼は機関銃をつかみ、そして彼は前進して破壊的な銃撃を送り込み、鍵となる敵の居場所へ突進した。
彼は彼の力を生け垣を通じて敵の強固な地点に撃ち込んだ。
彼は致命傷を負ったにもかかわらず、彼の大胆な攻撃は敵の8人を殺し、そして生け垣から残りを追い出した。
シングルトン軍曹の大胆な行為は、敵の防衛を完全に混乱させ、そして彼の戦友たちの多数の命を救った。
彼の勇気ある自発性、義務への無私の忠誠、そして不屈の闘争心は彼自身と海兵隊に偉大な名誉をもたらし、そして彼の振る舞いは合衆国海軍職務の崇高な伝統を支えた。
リンドン・B・ジョンソン
受賞者R |