名誉勲章受章者-S-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
カール・L・シッター |
大尉 |
1950 |
朝鮮 |
ルーサー・スカッグス Jr. |
一等兵 |
1944 |
グアム |
シャーロッド・E・スキナー Jr. |
少尉 |
1952 |
朝鮮 |
ラリー・E・スメドリー | 伍長 |
1967 |
ベトナム |
アルバート・J・スミス |
兵 |
1921 |
フロリダ |
ジョン・L・スミス |
少佐 |
1942 |
ソロモン諸島 |
ウィラード・M・スミス |
伍長 |
1864 |
モビール湾 |
リチャード・K・ソレンソン |
二等兵 |
1944 |
ナムール島 |
トニー・スタイン | 伍長 |
1945 |
硫黄島 |
ジェームズ・A・スチュワード |
伍長 |
1872 |
フランス |
受賞者S |
カール・L・シッター大尉
1950年:朝鮮
第1海兵師団第1海兵連隊第3大隊G中隊長
1922年12月2日 | ミズーリ州シラキュースで生まれる |
1940年6月22日 | 海兵隊入隊 |
1942年12月12日 | 野戦任官に少尉(伍長から) |
1944年2月20日 | エニウェトク島にて負傷 |
1944年7月 | グアムにてシルバースター |
1950年9月 | 仁川上陸 |
1950年11月 | 名誉勲章 |
1951年5月 | 少佐昇進 |
1970年6月30日 | 大佐にて退役 |
2000年4月4日 | 死去 |
感状:
1950年11月29日及び30日、朝鮮、ハガルリの敵侵略部隊に対する戦闘において第1海兵師団(増強)第1海兵連隊第3大隊G中隊長として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
11月29日早朝、彼の大隊は援軍として敵のはびこる領内を突破するように命じられ、シッター大尉は、敵の銃撃へ彼自身を絶えずさらし続け、彼は彼の中隊の前進を導き、そして激しい戦いにおいて25パーセントの死傷者を生じたにもかかわらず、完全に目標へ突破することに成功した。
町の南西の谷全てを見下ろす雪に覆われた丘の深く塹壕に隠れた連隊規模の敵軍部隊により占拠された戦略的に重要な地域を奪取し、そして占領する試みの任務を引き受け、南へ撤退する友軍兵士の進軍の前線だけでなく、彼は翌朝、彼の激減した部隊を再編成し、そして丘の頂上へ彼らを駆り立て続け、前方の小隊を指揮し、そして死傷者が生じると彼の兵士たちを激励し、そして再配置し、痛烈な銃撃下、険しく凍り付いた丘の中腹を登り、彼らを大胆に導いた。
夜の間、非常に数に勝る敵が突然冷酷な反撃を開始したとき、迫撃砲、機関銃、そして自動火器の銃撃で丘を燃え上がらせ、そして兵士たちに激しい損害を強いたとき、シッター大尉はそれぞれのたこつぼと機関銃陣地を訪れ、同等の戦闘チームに歩兵戦術に通じていない役務要員からなる部隊を統合して増強し、そして全ての部下にどんな犠牲を払っても彼の陣地を確保する意志と決意を浸透させた。
敵が繰り返す反撃においてお彼の前線を突破したとき、しばしば繰り返された白兵戦、そして一度など手榴弾とともに彼の司令部まで進入するという状況で彼はそれぞれの交戦において狂信的な攻撃者を撃退し、殺すことにおいて彼の部下とともに勇敢に戦った。
手榴弾の爆発によって顔、腕、そして胸に痛々しい傷を負った彼は頑強に避難することを拒絶し、そして敵が死亡、負傷、そして捕まることで50パーセント以上の損失を出したことが確実となり、地域の防衛が成功するまで戦い続けた。
彼の勇敢なリーダーシップ、優れた戦術、そして36時間の辛い戦いを通じての偉大な個人的勇気はシッター大尉と合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
ハリー・S・トルーマン
ルーサー・スカッグス Jr.一等兵
1944年:グアム
第3海兵師団第3海兵連隊第3海兵連隊ライフル中隊
1923年3月3日 | ケンタッキー州ヘンダーソンで生まれる |
1942年10月6日 | 海兵隊入隊 |
1944年7月 | 名誉勲章 |
1946年4月4日 | 伍長にて退役 |
1976年4月6日 | 死去 |
感状:
1944年7月21日-22日、マーシャル諸島グアム、エイサン-エイデルップ海岸の敵日本軍部隊に対する戦闘の間、第3海兵師団第3海兵連隊第3大隊所属のライフル中隊の迫撃砲班に分隊長として従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
上陸直後に激しい迫撃砲の弾幕下で班長が死傷者になったとき、スカッグス一等兵は即座に指揮を引き受け、そしてそこから戦略上の崖に対する突撃の効果的な掩護を届けられる陣地へ200ヤードの道程へ激しい銃撃を通じて班を導いた。
夜を通じて強固な敵の反撃に対し、この肝要な陣地を勇敢に守り、スカッグス一等兵は彼のたこつぼに日本軍の手榴弾が投げ込まれたとき、爆発で片足の下部を粉々にされ、重傷を負った。
迅速に行動し、彼は即席の止血隊を使い、そして彼のたこつぼにもたれかけながら、勇敢に8時間に渡って彼のライフルと手榴弾で敵の銃撃に反撃し、日本軍が壊滅されるまで戦い続けた後に後方へと助けを借りることなく這っていった。
この重要な期間を通じて辛抱強く、そして冷静なスカッグス一等兵は他の負傷した者たちへ勇気と不屈の精神の英雄的な手本を示し、そして彼の勇敢なリーダーシップと義務への鼓舞する忠誠により、合衆国海軍職務の崇高な伝統を支えた。
フランクリン・D・ルーズベルト
シャーロッド・E・スキナー Jr.少尉
1952年:朝鮮
第1海兵師団第11海兵連隊第2大隊F砲兵中隊
1929年10月29日 | コネチカット州ハートフォードで生まれる |
1951年10月9日 | 海兵隊予備役少尉 |
1952年10月26日 | 戦死 |
感状:
1952年10月26日の夜、朝鮮の敵侵略部隊に対する戦闘において第1海兵師団(増強)第11海兵連隊第2大隊F砲兵中隊の前線砲撃観測員として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
彼の観測所が、味方砲列と接続する通信線を完全に切断した砲撃と迫撃砲火の壊滅的な弾幕によって支援された敵軍部隊による突然のそして狂信的な攻撃を受けたとき、抵抗の主力線の極めて重要な区域と極端に危険にスキナー少尉は彼の陣地を確保する決然とした努力において、通信機のみを用い、この装備が修復できないほどに破損するまで敵の上に砲撃を命じ続け、前哨点の防衛において生存者をただちに組織化し、そして指揮した。
激しい敵軍の弾幕と急速に接近する攻撃者にも怯まずに彼は正確な機関銃掃射を指揮し、そして使い果たした弾薬と手榴弾の備蓄を再び満たすために二度彼は掩蔽壕の保護を離れた。
それぞれの時に痛々しい傷を負ったにもかかわらず、彼は部下の残りが手当を受けるまで断固として医療処置を断った。
地上攻撃がその頂点に達し、彼は勇敢に弾薬の乏しい備蓄が使い尽くされ、そして陣地が突破されるまで最終的な防衛を指揮した。
敵によって前哨点が占拠された三時間の間に、幾つかの手榴弾がスキナー少尉と彼の残った戦友たちのために保護を提供していた掩蔽壕の中に投げ込まれた。
受動的な抵抗以上に他の可能性がないことを理解し、彼は敵の兵士が掩蔽壕に入り、彼らの身体を探るにせよ死を装うように彼の部下に指示した。
後に敵の手榴弾が彼と他の生存者二人の間に投げられたとき、彼は彼の生命を彼の戦友たちのために犠牲にし、そして爆発の全ての力を吸収し、他の者を守る努力で直ちに彼自身を致命的なミサイルの上へ投げ出した。
彼の不屈の闘争心、優れたリーダーシップと圧倒的な勝算に直面しての偉大な個人的勇気により、スキナー少尉は敵に対する彼らの英雄的な抵抗において彼の同僚の海兵隊員たちを鼓舞するのに役立ち、そして合衆国海軍職務の崇高な伝統を支えた。
彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
ドワイト・D・アイゼンハワー
ラリー・E・スメドリー伍長
1967年:ベトナム
第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊D中隊
1949年3月4日 | バージニア州フロントロイヤルで生まれる |
1966年3月18日 | 海兵隊入隊 |
1967年12月21日 | 戦死 |
感状:
ベトナム共和国の敵に対する作戦に関連し、第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊D中隊所属の分隊長として従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1967年12月20日-21日の晩、スメドリー伍長はクアン・ナム省においてフォウ・ニン近郊のハッピー谷の入り口で待ち伏せ陣地で彼の分隊6名を率いていた。
その夜遅く、推定で100名のベトコン及び北ベトナム陸軍正規兵が122mmロケットランチャーと迫撃砲を運び、41高地に接近しているのに気付いた。
これが肝要なダナン統合ビルへの攻撃を始める敵の重要な移動だと悟り、スメドリー伍長はすぐに敵の驚異を止めるために徹底的そして勇敢な行動を取った。
彼が反応部隊に無線で連絡を取った後、彼はより有利な陣地へ巧みに彼の部下を動かし、そして数において優勢な敵部隊への攻撃を導いた。
分隊の左翼に位置した敵機関銃からの激しい量の銃撃がスメドリー伍長の部隊に数名の死傷者を生じさせた。
同時に敵のライフル擲弾が近くで爆発して彼の右足を負傷させ、そして彼を地面に打ち倒した。
スメドリー伍長は、この大怪我を無視し、そして勇敢に彼の部下へ激励の言葉を叫び、やっとのことで立ち上がった。
彼は再び敵の銃撃を受けて地面に倒れるまで彼のライフルを撃ち、そして手榴弾を投げ、恐れずに敵機関銃陣地に対する突進を導いた。
深刻な怪我を負い、そして失血から衰弱した彼は起き上がると敵陣地に対する一騎駆けを開始した。
彼の攻撃的、そして独力の攻撃が機関銃の破壊をもたらしたけれども、彼は胸に敵の銃撃を受け、そして致命傷を負って倒れた。
スメドリー伍長の感激させ、そして勇ましい行動、大胆な自発性、そしてほぼ確実な死に直面しての義務への無私の忠誠は海兵隊と合衆国海軍職務の崇高な伝統を維持した。
彼は彼の祖国に彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
アルバート・J・スミス兵
1921年:フロリダ
海軍分遣隊72号
1898年1月31日 | ミシガン州カルメットで生まれる |
1921年2月11日 | 海兵隊入隊 |
感状:
1921年2月11日の朝7時30分頃、スミス兵が歩哨に付いていたとき、フロリダ州ペンサコラ海軍航空基地海兵隊バラック第1ゲートの彼の持ち場近くに墜落した燃え上がる水上飛行機から死亡した合衆国海軍2級機械兵曹長の友人プレン・M・フェルプスを救出した。
重大なガソリンタンクの爆発にもかかわらず、彼個人の安全を完全に無視し、彼はフェルプスに届く場所まで彼自身を押し込み、燃えている残骸の下に押し付けて頭、首そして両手に受けた痛烈な火傷に耐えながらの遂行で燃え上がる飛行機から彼を救出した。
ジョン・L・スミス少佐
1942年:ソロモン諸島
第223海兵戦闘航空隊長
1914年12月26日 | オクラホマ州レキシントンで生まれる |
1936年5月 | 陸軍少尉 |
1936年7月 | 海兵隊少尉 |
1939年 | パイロット資格取得 |
1942年 | ソロモン諸島の功績により名誉勲章 |
1944年11月 | フィリピン |
1972年6月10日 | 死去(最終階級大佐) |
感状:
1942年8月-9月、ソロモン諸島地域、敵日本軍部隊対する作戦中、第223海兵戦闘航空隊の司令官として義務の要求を遙かに超えて空中戦における際立った勇気と英雄的功績による。
積極性と勇気ある攻撃において彼の生命を繰り返し危険にさらし、スミス少佐は1942年8月21日と9月15日の間、彼自身で16機の日本軍航空機を撃墜し、数において極めて優勢な決然とした部隊に対し、彼の航空隊を率いた。
この航空隊のパイロットの多くが僅かな戦闘経験だったにもかかわらず、彼らは主にスミス少佐の徹底的な訓練を通し、そして彼の大胆、そして鼓舞するリーダーシップに帰因するこの期間に敵航空機合計83機を破壊する顕著な記録を達成した。
彼の大胆な戦術と不屈の闘争心、そして勇敢さ、そして彼の指揮する部下の熱心な不屈の精神は彼らに敵の攻撃を効果がなく、そして高価にしただけでなく、我々の前進基地の安全に貢献した。
彼の忠実なそして義務への勇敢な献身は合衆国海軍職務の崇高な伝統を支え、そして高めた。
フランクリン・D・ルーズベルト
ウィラード・M・スミス伍長
1864年:モビール湾
海軍分遣隊45号
1840年 | ニューヨーク州オルゲニーで生まれる |
1862年8月19日 | 海兵隊入隊 |
1864年12月31日 | 名誉勲章 |
年不明 | 退役 |
1918年3月26日 | 死去 |
感状:
1864年8月5日、モビール湾において衝角艦テネシーとともに砲艦、そして反乱軍要塞に対する戦闘中、USSブルックリンに乗船していた。
落下し続ける敵の砲撃で乗船する多数の人の損失と彼の船への甚大な損害にもかかわらず、スミス伍長は反乱軍衝角艦テネシーを奪取する結果を生じる激しい2時間の戦闘を通じ、技術と勇気とともに彼の砲で戦った。
リチャード・K・ソレンソン二等兵
1944年:ナムール島
第4海兵師団第24海兵連隊第3大隊M中隊
1924年8月28日 | ミネソタ州アノカで生まれる |
1942年12月13日 | 海兵隊入隊 |
1944年2月 | 名誉勲章 |
1946年2月23日 | 軍曹にて退役 |
1946年 | 復員軍人支援局 |
1947年7月10日 | 海兵隊予備役 |
1950年11月13日 | 現役復帰 |
1954年4月 | 少尉昇進 |
1954年9月 | 中尉昇進 |
1955年11月18日 | 曹長に戻ることで退役 |
感状:
1944年2月1日-2日、マーシャル諸島クウェジェリン環礁ナムール島の戦いの間、第4海兵師団付属の突撃大隊とともに従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
侵攻作戦中、敵による特に猛烈な反撃に対する勇敢な防衛を行うソレンソン二等兵と他の海兵隊員5名の占有する砲弾痕の彼らの真ん中へ日本軍の手榴弾が投げ込まれたことによって危険にさらされた。
躊躇うことなく、そして彼自身の安全を完全に無視し、ソレンソン二等兵は勇敢に爆発の全ての衝撃を受けるため、致命的な武器の上に彼自身を投げ出した。
彼の勇敢な行動の結果として、彼は銃傷を負ったが、彼の戦友たちの生命は救われた。
彼の偉大な個人的勇気とほぼ確実な死に直面しての自己犠牲の優れた精神は合衆国海軍職務の崇高な伝統を維持した。
フランクリン・D・ルーズベルト
デビット・スプロウィル当直軍曹
1864年:モビール湾
海軍分遣隊45号
1864年8月5日、モビール湾において衝角艦テネシーとともに砲艦、そして反乱軍要塞に対する戦闘中、USSリッチモンドに乗船していた。
敵の砲撃が彼女の甲板をかき回し、彼の船への莫大な損害と船内の多数の人の損失を与えたにもかかわらず、スプロウィル当直軍曹は海兵守備隊の者を鼓舞し、そしてモーガン砦の砲台に損害と破壊もたらし、反乱軍衝角艦テネシーの降伏をもたらす激しい戦いを通じて巨大な砲の部門を指揮した。
トニー・スタイン伍長
1945年:硫黄島
第5海兵師団第28海兵連隊第1大隊A中隊
1921年9月30日 | オハイオ州デイトンで生まれる |
1942年9月22日 | 海兵隊入隊 |
1945年2月19日 | 名誉勲章 |
1945年3月1日 | 戦死 |
感状:
1945年2月19日、火山列島内硫黄島の敵日本軍部隊に対する戦闘において第5海兵師団第28海兵連隊第1大隊A中隊とともに従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
最初の突撃において海岸を攻撃した後に持ち場にいる彼の部隊の最初の人物、ステイン伍長は個人的に即席で作った航空機搭載火器で武装し、彼の小隊の残りが所定の位置に移動しようとの試みに迅速な援護射撃を提供し、そして彼の戦友たちが激しい機関銃と迫撃砲の弾幕によって止められたとき、勇敢に仁王立ちとなり、彼自身を敵の視界にさらけだし、それによって敵軍の銃撃を彼自身の身体へ引き付け、そして猛烈な一斉砲火を行う敵軍の砲の配置を彼に確認することを可能にさせた。
戦略的に配置された武器を無力化する決意で、彼は大胆に一人で敵掩蔽壕へ突進し、そして猛烈な単独の突撃の間に敵20名を殺害することに成功した。
全ての側で爆発する砲弾と弾丸の無慈悲な歓迎の下にで冷静に、そして勇ましく彼は彼の弾薬を急速に消耗する速度の凄まじい割合で彼の即製武器の銃撃を巧みに送り続けた。
大胆に彼は追加の弾薬のために海岸へ駆け戻るで彼の行動を促進するために彼のヘルメットと靴を脱ぎ捨て、激しい銃撃の下、合計8回に渡る旅を行い、そして戻るたびに負傷者を運ぶか、或いは手助けした。
戦いのたゆまない残忍さと混乱にもかかわらず、彼は部隊が陣地にいるときは常に、彼の小隊への迅速な支援を与え、彼が日本軍の要塞の最終的な破壊をもたらすまでハーフトラックの砲撃を頑強な掩蔽壕へ導き、その日遅く、彼の手から彼の武器が二回撃たれたにもかかわらず、彼は中隊陣地まで彼の小隊の撤退を彼自身で掩護した。
勇敢、そして不屈のスタイン伍長は、彼の積極的な自発性、堅実な判断と恐ろしい勝算に直面しての義務への不動の忠誠により、彼の任務の達成へ大いに寄与し、そして紛争の苦しい時間を通じての彼の並外れた勇気は合衆国海軍職務の崇高な伝統を支え、そして高めた。
ハリー・S・トルーマン
ジェームズ・A・スチュワード伍長
1872年:フランス
海軍分遣隊180号
1839年 | ペンシルバニア州フィラデルフィアで生まれる |
感状:
USSプリマスに乗船中、スチュワードは1872年2月1日、フランス、ヴィルフランシェの港において船外に飛び込み、そして海軍士官候補生オスターハウスを溺死から救った。
受賞者S |