名誉勲章受章者-V-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
アレクサンダー・A・ヴァンデグリフト | 少将 |
1942 |
ガダルカナル |
アーチー・ヴァンウィンクル | 二等軍曹 |
1950 |
朝鮮 |
ジェイ・R・ヴァーガス | 大尉 | 1968 |
ベトナム |
ピンカートン・R・ヴォーン | 軍曹 |
1863 |
ハドソン湾 |
ジョセフ・ヴィットリ | 伍長 |
1951 |
朝鮮 |
受賞者U |
アレキサンダー・A・ヴァンデグリフト少将
1942年:ガダルカナル
第1海兵師団長
1887年3月13日 | バージニア州シャーロッツビルで生まれる |
1909年1月22日 | バージニア大学卒業後、海兵隊少尉 |
1941年11月 | 第1海兵師団長 |
1942年8月7日 | ガダルカナル上陸 |
1943年7月 | IMAC司令官 |
1944年1月1日 | 第18代海兵隊司令官 |
1945年4月4日 | 海兵隊初の大将に昇進 |
1947年12月31日 | 退役 |
1973年5月8日 | 死去 |
1973年5月10日 | アーリントン国立墓地に埋葬 |
感状:
1942年8月7日から12月9日にかけて、ソロモン諸島の敵日本軍部隊に対する作戦において第1海兵師団の司令官としての義務の要求を越えて、傑出し、そして英雄的な業績による。
天候、地形そして疫病と彼の任務を難しく冒険的な事業にする悪条件の中、彼の指揮する海、陸そして陸軍航空隊、海軍そして海兵隊を含むアメリカ軍部隊最初の上陸波と次の任務はヴァンデグリフト少将の指揮によって著しい成功を収めた。
彼の不屈、勇気そして機知に富んでいたことは、強く断固とし、そして経験豊富な敵に勝り、そして彼の部下を鼓舞する指揮の下にある部下の勇敢な闘争心により、彼らは空、陸そして海の攻撃に耐えることを可能にし、そして敵を混乱させ、破壊した。
この危険だが、極めて重要な作戦において、彼の生命の絶え間ない危険によって達成し、敵に対する我が方の部隊の更なる作戦とその首尾良い完了のために価値のある基地を確保することを可能とし、大きな名誉をヴァンデグリフト少将と彼のコマンドそして合衆国海軍職務にもたらした。
フランクリン・D・ルーズベルト
アーチー・ヴァンウィンクル二等軍曹
1950年:朝鮮
第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊B中隊
1925年3月17日 | アラスカ州ジューノーで生まれる |
1942年12月14日 | 海兵隊予備役 |
1945年10月22日 | 名誉除隊 |
1948年3月 | 再入隊 |
1950年11月2日 | 名誉勲章 |
1951年7月16日 | 予備役 |
1952年11月 | 現役復帰 |
1954年12月31日 | 大尉昇進 |
1961年6月 | 第1海兵旅団第4海兵連隊第3偵察大隊中隊長 |
1962年4月 | ベトナム軍事顧問団 |
1962年8月 | 少佐昇進 |
1967年8月 | 第1海兵師団第1海兵連隊第2大隊長 |
1968年7月6日 | ケ・サン基地近郊689高地の戦いでブロンズスター(V) |
1974年2月 | 大佐にて退役 |
1986年5月22日 | アラスカにて死去 |
感状:
1950年11月2日の朝鮮スドン周辺における敵侵略者に対する戦闘中に、第1海兵師団(増強)第7海兵連隊第1大隊B中隊の小隊軍曹として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
狂信的で数に優勢な敵軍が暗闇に紛れて前線中央に侵入し、自動火器そして手榴弾による死の壊滅的集中砲火で小隊が釘付けにされた後、彼の拠点で直ちに部下を再編成した。
左翼分隊が部隊の残りから孤立したことをはっきりと理解した彼は、肘の傷が彼の片腕を完全に使えなくしていたにもかかわらず、部隊を合流させるために激しい敵の砲火を潜り抜けて40ヤードを突進した。
重大で、ひどい傷をもたらした敵手榴弾の胸への直撃により再び重傷を負った彼は、頑固に搬出されることを拒否し、彼の激減し、打ちのめされた小隊に激励の言葉と命令を大声で続けた。
最終的に失血とショックから、意識を失った彼は拠点から運ばれたが、ヴァン・ウィンクル二等軍曹の敵攻撃を首尾良く撃退する英雄的奮闘を目の当たりにした全員を鼓舞させた。彼の素晴らしいリーダーシップ、雄々しい闘争心そして極めて不利な状況に直面しての義務に対する確固たる献身は、最高の名誉を自身と合衆国海軍職務にもたらした。
ハリー・S・トルーマン
ジェイ・R・ヴァーガス大尉
1968年:ベトナム
第9海兵水陸両用旅団第4海兵連隊第2大隊G中隊
1938年7月29日 | アリゾナ州ウィンズローにて生まれる |
1963年6月 | 海兵隊に入隊 |
1968年5月1日 | 名誉勲章 |
1992年7月 | 大佐にて退役 |
感状:
1968年4月30日から5月2日にかけてベトナム共和国の敵軍に対する戦闘中、第9海兵水陸両用旅団第4海兵連隊第2大隊G中隊指揮官として従事している際、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1968年5月1日、前の日、敵の激しい砲撃下、彼の部隊を再配置している間に彼が受けた傷による苦痛にもかかわらず、ヴァーガス少佐(当時大尉)は他の二つの中隊とともにG中隊と同時に、そしてダイ・ドーの防備を固めた村に対する攻撃において彼の部下を導いた。
熟練のリーダーシップを働かせ、彼は700メートルの開けた水田を横断して、彼の海兵隊員たちを移動させている間に激しい敵の迫撃砲、ロケットそして砲撃の下で、敵の周辺の二つの生け垣において足がかりをもたらしたが、彼の持つ中隊主力のみが激しい敵の攻撃によって釘付けにされた。
彼の行為された部下の援助のため、彼は予備小隊を先導し、ヴァーガス少佐は 敵バンカーの多数を破壊する間、彼らを容赦なく前進を再開するために彼の部下を鼓舞した。
再び手榴弾の破片で負傷した彼は村の縁で強固な防御施設周辺への彼の部隊の再編成を行い危険地帯側を彼は動き回って、彼は治療を拒絶した。その目的が達成されて間もなく、敵は一連の反撃を開始し、そしてそれは一晩中続いたが、しかし、G中隊の勇敢な防御者たちが堅固に確保した飛び地においてしっかりと立ち止まったため、不成功に終わったことを突き止めた。
翌朝、増強され、海兵隊は白兵戦の結果、激しい反撃とともに敵へ報復し、ディン・トーの村にダイ・ドーを通過して再び攻撃を加えた。ヴァーガス少佐は屋外に残り、彼が三日間の戦闘で三度目の打撃を受けたとき、彼の海兵隊員を激励し、支援した。
彼の大隊長が重傷を負うのを見て、彼は彼の苦痛をものともせず、掃射を受ける地域を横切り、そして彼の指揮官を遮蔽物のある地点まで運び、それから再び指揮を執ると大隊の周辺防御を組織化し、同時に彼の部下を励まし助けた。彼の勇敢な戦いは、合衆国海兵隊、そして合衆国海軍職務の崇高な伝統を支えた。
リチャード・M・ニクソン
ピンカートン・R・ヴォーン軍曹
1863年:ハドソン湾
USSミシシッピー海軍分遣隊第17号
1839年 | ペンシルバニア州ダウニングタウンで生まれる |
1860年10月31日 | 海兵隊入隊 |
1863年7月10日 | 名誉勲章 |
1864年11月7日 | 名誉除隊 |
1866年8月22日 | 死去 |
感状:
1863年3月14日、ハドソン湾砲台との戦いにおいてUSSミシシッピーに乗船中、彼女の放棄と点火に従事した。
座礁したミシシッピーの放棄の間、ヴォーン軍曹は全ての乗組員が陸に揚がり、そして、その船が敵の手中に落ちるのを妨げるために火をつけられるまで船に止まり、彼の指揮官に貴重な時間を与えることを支援した。最後まで粘り強く、そして激しい砲撃下で非常に冷静にヴォーン軍曹は、最終的に彼が相応しいことを理解したように自らを救うように命令された。
ジョセフ・ヴィットリ伍長
1951年:朝鮮
第1海兵師団第5海兵連隊第2大隊F中隊
1929年8月1日 | マサチューセッツ州ビバリーで生まれる |
1946年10月4日 | 海兵隊入隊 |
1947年4月 | USSポーツマス搭乗(-6月まで) |
1949年10月3日 | 退役 |
1950年9月26日 | 海兵隊予備役 |
1951年6月15日 | 伍長昇進 |
1951年9月15日 | 戦死 |
感状:
敵侵略部隊に対する戦闘において、F中隊のオートマチックライフルマンとして従事する間に義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
前方の小隊とともに多数の死傷者を生じ、彼の中隊が749高地上の堅固で強固な敵部隊を襲撃したとき、危険な敵の反撃の下で撤退することを強いられ、ヴィットリ伍長は彼の予備小隊からの二名の志願者と共に撤退する部隊から大胆に飛び出すと直接敵の真っ直中へと突っ込んだ。凄まじい白兵戦で、彼らを圧倒し、彼は遙かに差し迫った猛攻撃に対処するために彼の中隊がその拠点を強化することができるようにした。
夜間、部隊に敵が再び攻撃したとき、北側面と事実上部隊の残りから孤立した末端の地点に重機関銃を配置して守らせるまでライフルマンの要求に迅速に対応し、彼の物とした地点で壊滅的な集中砲火の下、単独の戦いを行い、一つの側面から別な場所まで飛ぶように動き、銃手が倒れたとき、機関銃に要員を配置するまで死傷者が続かないようにそらせ、それぞれのたこつぼを援護し続け、そして弾薬を最装填するまで激しい砲撃を走り抜け続けた。
極めて重大な状況に相応しく、増援部隊が猛烈な攻撃で釘付けにされ、そして100ヤードに渡ってたこつぼ左翼が事実上死亡と負傷によって空隙となると、ヴィットリ伍長は彼の勇敢な抵抗を続け、敵が彼の拠点内に踏み込むまで入り込んでも領域を与えることを拒み、前線における強さを装い、敵に領域の事実上占領させることを拒絶した。
翌朝、約200名の敵戦死者が発見され、地区の彼の壮大な防衛の粘り強さを示す間に敵の機関銃とライフルの銃弾によって致命傷を負ったヴィットリ伍長は、彼の不屈の精神、大胆な度胸と偉大な個人的勇気により、恐ろしい見込みにもかかわらず、地点陣地を損なうことなく保ち、明らかに全ての大隊陣地の崩壊を阻止していた。夜通し続いた激しい戦闘を通じての彼の並外れた英雄的行為は彼自身と合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
受賞者U |