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水子の霊 今、世間において「水子、水子」と良く騒がれている。女性であるならば、平均すれば、誰しもが一人から五人の水子を持っている。 水子の霊を持っているたくさんの人を見て眺めてきたが、水子と言うのは本当に純粋である。親の胎内に入ってまだこの下界の醜い事、世間で言うところの酔いも甘いもまだ知らない。つまり、純粋な心とゆうのを水子の霊は持っている。これを親の”エゴ”によって、この下界へ出すのではなく、闇へと捨てて行った。親である夫婦が、愛情を持って密着すれば子供を呼びこんでしまう。子供は親が「来なさい、来なさい」と言うから親の胎内に入った。または、もう一人の自分・霊性(自分と同じ考えを持ち、同じ肉体を持ち、人間を守りながら行動している。この霊性が三途の川を渡り死後の世界へ行く事ができるのです)が子供を連れて来て入れる。これを親の”エゴ”で水子として始末してしまう。 子供が宿るとは 子供が宿るということは、親が下界にだしてあげるから「いらっしゃい、いらっしゃい」と言う。夫婦の愛情が一体になった時、その親の愛を子供が見て「ああこんなお父さんお母さんだったら」と思ってパッと入ることになる。すでに子供を呼びこんでしまう。全然愛情のない肉体関係はない。たとえば、商売にしていても必ずどちらかが愛を入れる。あとで人間が「子供をつくる気がなかった」と言っても、その時には無意識であっても夫婦が愛情を持って密着すれば「おいで」と子供を呼びこんでつくってしまう。この「いらっしゃい」と言う事は、親が「不成仏霊」であってもできる。人間の持っている声・張りはその世界まで通ずることができる。 水子とゆうのは親が光を持っていなければほとんどの水子はこの世で霊性ができあがり、そして新しい人間ができあがってくる。 しかし、親が光を持っていれば、その人は三途の川を渡っているのだから(即身成仏)本来の霊性としての親子関係の子供が上の世界(霊界)にいる。その子供を連れて来て自分に入れる。それを堕すことは捨てることになる。新しく霊性を”再生”される人もいる。親が暗くて三途の川を渡っていないと”再生”されてゆく。再生されるということは、自分が入れることにもなる。「おいで、おいで」と言うことにも変わる。そしてまた捨ててゆくことになる。だから、水子の霊のほとんどは”光”を知らないということがそこにある。親のエゴによって、下界で水子がつくられてゆくのだから。子供から「出してほしい」と言うのは、三途の川を渡っている親に限られ「お父さん出して、お母さん出して」と子供から言う。そして、親が「来なさい」と言って、それを堕して捨てる親もいる。堕ろすとゆうことは絶対に親の“エゴ”である。 水子の霊的現象 水子というのは、たくさんの霊的現象を起す何故ならば、水子は自分で勝手にどこでも行けない。死んだ人ならば、仏の世界へ成仏してゆかなくても(不成仏霊と言う)食事を探しにあっちこっちへ行くことができるが、水子はそれができない。 親のもとから離れない。 だから、親に対しての現象が、かかってくる。 水子は、堕した親の乳を吸う。人間として親の乳を吸えば親の身体は悪くならないが、水子の霊がおっぱいにすがり乳を吸えば、必ず親の細胞に悪い影響を及ぼす。 何になるか? 癌病・身体が腐ってゆくらい病にかかってゆく。本当の水子の供養を正式にやらなかったならば、親そのものも病気に罹ってゆく。特別に霊現象とゆうのが水子の霊によりかかってくる。 子供を「おいで、おいで」と呼んだのに、それを親のエゴによって堕して捨て更にもう一辺、子供を捨てている。何故捨てたことになるか。 神社仏閣での水子供養は子供を捨てることになる あとから「これは一つの生命を無駄にした」と気付いて、神社仏閣へ行って水子供養してもらおうとゆう気持ちになる。 神社仏閣へ行って水子供養してもらうとゆうことは、これは水子供養ではない。 神社仏閣へもう一辺すてにゆくことになる。親が子供を堕して捨てて、また水子をお寺に持って行って、二十万円、三十万円とゆう仏像を買い、そして子供のために冥福を祈ろうとして、その神社仏閣で水子供養してもらうのではなく、また、もう一つの誤ちを犯そうとする。その神社仏閣へ行って子供を捨てて来てしまう。 子供を堕して捨てて、神社仏閣へ行ってもう一辺捨てて帰ってくる。それで何で親の心が安らいだり、子供が一人前の仏となれるか、なれるはずがない。 本当の水子の供養の仕方とゆうのは、そのように神社仏閣に任せてするものではない。 ここに”心”とゆうのがかかってくる。この下界において子供を堕すとゆうことは、一つの生命を絶ち、抹殺したことになる。一人前になった者を殺せば殺人であると同様に、胎児を堕せば殺人である。親が子供を堕した罪に気付くならば・・・・・・。 水子の供養はどのようにするか 水子の供養の説法をご拝聴することができます。 水子の供養 成仏した子供の育て方 子供はだいたい百ヶ日ぐらいで乳ばなれしてゆく。しかし百ヶ月前は自分に罪の意識があるならば、子供の喜ぶようなキャラメルとか牛乳などを自分が飲んだり食べたりしてあげる。飾るだけでは駄目である。生まれたばかりの小さい子供に食べなさいと言っても食べられないのと同じで、自分が飲んだり食べたりしてあげれば子供が身体の中に入ってきてその牛乳、キャラメルを食べることができる。飾っておくだけでは何の供養にもならない。 しかし百日を経った水子には子供が喜ぶようにただ飾っておけばよろしい。親が光っていれば親が箸や茶碗を光らせて親が箸を持ち御飯を食べれば水子も一緒になって箸を持って御飯を食べることができる。布団までも敷いてあげることができる。三時になれば三時のおやつも与えてゆくことができる。 下界にいるならば、今の世界と同じような一年の進歩性で進んでゆく。 この水子供養を忘れると「霊障・さわり」というとんでもないことが起きてくる。人間に対しての霊障は、みんな自分から出たものであるから「どうしましょう」と言っていても駄目である。
黄光龍説法 心の未来(T) 第一章 水子の供養より   ▲先頭に戻る |
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