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智恵
智恵
宗教と仏教、仏の教え、その中の人間は、誰しも知識でなく生まれた時から備わっている「智恵」と「心」がある。智恵は単なる知識ではない。人間が生まれて来るという事は母親の菩提の中で一つの生命が誕生しよう、誕生して行こうという課題において、人間として「心」が備わる。
その心が何かというと、智恵、自然の智恵、誰しもこの世に出て来る時には、智恵を100%持って出て来る者は誰もいない。成長していく上に智恵が同時に成長していく。自然の物に自分が目をやり、自然の物に自分が接して行く事によって、人間として成長して行く上の智恵という事になる。
釈迦牟尼佛は何を教えて行ったかというと、「心」「智恵」を教えていった。唯、目先だけに囚われ、また、活字知識だけに人間が囚われていると人間の持っている智恵このものは零であるという事。小さい時から死ぬまでに対して、自分が他界するまでに対して、全く智恵が含まれ無いという事。開発されないという事になる。三十になっても四十になっても、五十になっても、いくら年をとっていても単なる知識だけに留まる。医学的に言うと、脳の中の細胞に言葉、文字としてしか残らない。「智恵」と言うのは一つの心であり「悟り」自分が反省した上の悟り、自分が学ぼうとする心の中に出来る智恵。それを本当の智恵という事。いくら年をとっていても、自然の中に於いて、智恵を開発しなかったならば人間はどの様になっていくか。一般の経典の中に六道(地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界)という言葉があり、六道とは、人間は知らず知らずに人間を行っていても、もう一人の自分、もう一人の自分が落ちて行くという事、生きていて。
勿論、人間の色が亡びてあの世へ行くのも行かれないという事になってくる。それは全く智恵が無いから、その人間として行うのは、人間の魂、もう一人の自分、霊性、これに心が通じた時に智恵があれば、どんどん光に向かって進む事ができるし、智恵を開発しない人は、六道に落ちて行く。
人間の智恵を持ってこそ、始めて人間としての行動、これが伴う。知識では何も伴わない。知識で「あれはしたら良い、これは駄目や」と言うのは単なる知識であって、自然界から生まれて来る自分の智恵によってその行動が抑えられ、人間として自分の方向性が決まって行くという事になる。
智恵の開発、これを釈迦牟尼佛は説いていったという事。智恵、即ち光、悟り、労わる気持ち、苦しみに苦しみを重ねてその苦しみの束の間の一瞬に、愛も楽しさもあれば、全てが苦しみの中に含まれている。
人間は智恵を開発するには、苦しみに苦しみを重ねてこそ、智恵が開発される。人間は誰しも苦しみから逃げようとする心を持っている。
それが、釈迦牟尼佛が説いていった経典の中には、心には悪魔と善という言葉で書かれているという事。誰しも楽をしようと思う、これが悪である。誰しも楽をしようと思う。これが悪である。誰も苦しみから苦しみを重ねようとするものがいないという事。苦しみに苦しみを重ねて行ってこそ、自然の人間が持っている脳細胞何千億とある智恵が開発され、一つ一つ自分のものになり、悟り、五道に落ちない自分の智恵がつくという…
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