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玄関
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玄関というのは仏教用語の一つである。皆は玄関というのを簡単に漠然と入口・出口、というような考えを持っているけれど、これを歴史的に見ると、家に例えるならば以前は玄関というものがなかった。この玄関というのは江戸時代の末期に初めて現れたということ。この玄関という意味を今、家に例えて話をしていくと、書院、住宅の形式に書院造というのがある。茶室とか、書院とか、これを本来は玄関といった。江戸時代の末期以前はテレビの時代劇を見ていても農家、町屋というところに玄関はない。戸を開ければすぐ部屋がある。禅宗、そういう宗教、仏教を学んでいる人、その人が寺院とかそういうものに対して書院造を作りあげ、その書院を本当は玄関と言った。今、現在に見ると玄関はポーチとかいろいろなことを言っているが出入口は出入口である。 玄関というのはその家の一番のポイントである。一番良い造り、一番の心の和むところ、書院とかそういうものを玄関と言った。それが江戸時代の末期から入口を玄関と呼ぶようになったということ。本来、仏教用語として玄関という言葉が 入ってきたのは、それから歴史はもっと下がって鎌倉幕府、このあたりからこういうものが造られていったということ。 さて、この玄関という意味は真理を求める人。つまり、自分の知慧、悟っていく人ということになる。仏教用語の玄関というのは真理を求めて自分が大道に向かっていく、向かっていく人というのが本来の本当の意味である。皆は玄関という意味を間違ってただ出入口として使っている。 さて、この家の玄関から心に入っていくならば、玄関はいつまでも汚れていくもの、真理を求めるという、悟っていくということになる。これはなぜ汚れるのか。今、現代風の玄関を頭の中に想像してみると、人間の心には善と悪がある。常に善と悪が心の中で戦っているということ。入っていく、汚れる、出る、自分がその悟りの段階において玄関が成り立つということ。真理を求める人、知慧を開発する人だから。事実は、人間として真理を求め、悟りを得るならば、外識(自我)と内識(自己)、これであるということ。それが人間として心の浄化を計るものである。だから玄関を人間に例えるならば、五蘊五官、それから脳と、こういうふうに崩していくのが玄関である。真理を求めていくということは、顔ではない、口でもない、目でもない、身体。首から下の五蘊五官という外識に触れている。だから、玄関を一歩入る時にはすでに自分の真理、一つでも自分が、善悪をわきまえる、自分をいたわる、精進ということ。 常に、家から出たり入ったり、また人の家の玄関を出たり入ったりする。玄関というのは真理を求めるということだから、玄関に入る時には自分の外でやってきた善悪の行い、それを我が家に一歩足を踏み入れるならば、真理を求める人だからその場で外やってきたことは反省をし、玄関を一歩またぐ時には反省をし、自分の心を家に入るまでに浄化し、玄関の中に入った時にはすでに真理を求めている人、知慧を開発する人・悟る人というその順序を踏みなさいということ。だから、これから玄関を出る時には家で家庭の和、和があるならば光があり家の中に心が入っているということになる。その心を持って外に出なさい。これが玄関の出入口である。 玄関というのは、ここでこの法を学んでいるならば意識を持った玄関にしなさい。結局・・・ 。

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