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人間意識の瞑想 瞑想
人間意識の瞑想
瞑想の危険性
瞑想の利点については、今、各本屋に出廻っている瞑想の本、ヨーガによる瞑想、又、仏教的な瞑想という知識人によって沢山の流れの本が書店に多く並んでいる。それには、瞑想についての利点は述べられていても、それの危険性というものが一つも含まれていない。
何故危険性が含まれていないのかというと、瞑想はあくまでも理想であり、一つの物事にこだわった瞑想にしかすぎないから危険性というのが全く本の中に謳われていない。
それに、実際に自分の瞑想というのに対して、そこまで自分を追い込んだ瞑想をした人はいないということ。だから、危険性が全く分からない。
瞑想の危険性
瞑想というのはあくまでも意識による瞑想であって、意識を無くして瞑想は絶対にできない。いろいろ瞑想について無常無我になれるのが瞑想である。又、力をつける為の瞑想であるというように言われているが、なかなかそれはできない。
人間の心というのは、瞑想に対しての話をしてもいろいろな本が出ているから利点については、すべて本を読んでいれば分かると思う。
この瞑想の基本というのは、意識というのから本当の自分を見つめてゆく瞑想、心を豊かにしていく瞑想というものが含まれている。だから、先に言っておきたい事は、瞑想は本当に熟練した指導者のもとで、瞑想を行わなかったならば、ともかく自分は危険がいつも伴っているということになる。この危険というのは、最初に打出すとまず、意識の瞑想であるから
一、精神的な荒れ、つまり、精神病院へ行かなければならないという状態にかかってくる。
一、やりすぎるということになると、植物人間になってしまう。
一、他界する。
この三つが瞑想の中に含まれている。
瞑想と人間の外識、内識
何故、他界するのか、人間の意識というのは、自己意識と自我意識という二つのものに分かれている。今、医学的には、人間の身体の中には、脳に上る中枢までに神経が二つあるとされている。
その神経の二つというのは、自我と、自己であるという問題につながってくる。
瞑想の基本としては、自己にとらわれず、自我にとらわれずということ。
これを仏教的に置き換えると内識、外識になる。
自我を外識
自己を内識
このように理解する。
つまり、外識にとらわれても瞑想は進まない。
内識にとらわれても、瞑想は進まない。
瞑想というのは、皆さんがこの道場で座って行をしたり、寝て行をしているという、型にはまった瞑想ではなく、日常生活においても、自ずと瞑想をやっているということになる。人間の意識というのは、脳の中枢に入るまでには、外識があってこそ内識が伴うものである。それから、内識から又、外識の方へ意識が移って行ってこそ、本当の人間の姿であるというふうに変わってくる。
外識なくしては人間はあり得ない。
なぜあり得ないかというと、自然に対応する身体になっている。自然に対応する身体というのは、母親の体内の中から赤ん坊として出てきた時には、まだ、外識にもとらわれず、内識にもとらわれずという空っぽの状態で出て来るから死を免れる。
一人前の人間として大人へと成長してゆくうえで、意識というのが強く身体の中に入って来る。そうなれば、人間の身体、大人になって成長した身体というのは、その意識というのが伴うから、自然に対応しにくい身体にでき上がってくる。
それが仏教でいう「生苦老死」。
成長してゆく上に生苦老死という言葉がかかってくるということ。
赤ん坊の間は第三者的な立場、外識によって害を加えたならば生苦老死はあっても、それを加えない限りは赤ん坊に対する生苦老死は無いということ。
なぜならば、まだ外識にも、内識にもとらわれない心というのが、赤ん坊の状態である。だから、赤ん坊は母親の胎内から出てきて、その自然に対応するだけの細胞であり、血液であるということになってくる。今、説いたように成長する上に「意識」外識と内識の意識を持つことによって成長してゆく。成長していってもその中に生苦老死が待っているということになってくる。
だから植物人間になったならば生苦老死は無いということになる。瞑想のやり過ぎ、危険性というのを前に説いたが植物人間にもなってゆく、これは生苦老死が無いということ。外からの衝撃を与えないことには今、医学的にも死ぬことはない。ただ、身体に栄養源だけを薬によって投入しているだけならば、百年でも、二百年でも生きられる。
これは何故かというと、赤ん坊の時と同じような状態が自分の身体の中で働くという。全く外識と内識の人間が持つ意識というのが含まれないから、そのような状態が起きてくる。
瞑想と自内症、自閉症
瞑想は勝手にやると危険なものである。自閉症とか自内症はここから起きてくる。
自我と自己によるもので自内症は起きてくる。自内症というのは、自分の自己にとらわれていてそれだけしか考えない自閉症の一歩手前の症状をいう。
自閉症になるならば身体で今度は現象が出てくる。目でものを見ていても外のことは見えない、そのものだけが大きくなったり、小さくなったりゆく。又、道を歩いていても足が出なくなったり、自分勝手に自分でそういうものにとらわれてゆく病気というのが、自閉症である。
自内症というのは、自分の自我を求めようとしない、ただ自己的なものに自分自身が閉じこもってゆく。自分の殻に閉じこもってゆくという問題が絡んでくる。
何故人間は、なかなか自内症、自閉症になりにくいのかというと、外からいろいろな感じるもの、目で見るの、聞くもの、すべてに自我が働いているからそのような症状にかかりにくい。自内症、自閉症にかかった人などは、自我というのを全く自分自身が拒否していることになる。だから、自我を拒否しては絶対に、人間は智慧をもってゆくということができないし、善悪をわきまえるという知恵すらも欠けてくるし、自分であって自分でないような感覚に襲われてゆく。
だから、あくまでも自我から自己に移って、自己を又、自我として吐き出してゆくことが基本である。だから、仏教においてはまず、吐くことから始まって、吸うことに終わる。だから、今、息をしていることを大切にしなさい。まず吐く、吸う。まず吐いてゆくもの、自我として出してゆくものから、自我から自己へ落としてゆく。自我を自己に全部移したならば、それは本当の悟りである。しかし、なかなか移しにくい。それが自然の対応、自然の対応という仕方というのを自分の身体で求めてゆくというと「黄光龍説法 宗教と心(霊界T)」の本の九四頁「瞑想」の項を読んでも、よく理解できると思う。自内症、自閉症が進行してゆくと植物人間になる。植物人間になるということは、つまり自己から追い込まれてゆくのであるが、自己がそこでずたずたになって無くなってしまう。もう植物人間になれば、人間の本来の姿、魂、心というのを磨くこともできない。もうあの世へ行っている。
赤ん坊と同じように、ただ自分の首から下だけが自然に対応しているだけだから、いくらでも生きてゆかれる。植物人間になったら、もう助けようがない。その一歩手前が自閉症、自内症である。
それがエスカレートすると、植物人間に一辺になってしまう。自己が働かない、脳が全く働かない状態になってくる。それだけであれば良いが、今度は自分の身体が硬直した時には死が訪れる。瞑想していて頭が空っぽになれば、気をつけなければ植物人間に近くなってきたということ。座っていてサアット身体が急に冷えこんできて、冷や汗が出て、身体がいらいら、何故座っているのか、わけの分からない状態になってきた時には、これは自己だけにとらわれているということ。その時に一番恐れることは死である。瞑想というのは危険である。

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