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末法においての大慈悲
末法においての大慈悲
この末法に入るまでには、釈迦牟尼怖が説いていかれた経典が、沢山の大蔵経としてこの世の中に広がっていった。
それをいろいろな角度で五つに分けてある五時教判、その時期と共にそれにはどういう音がついてきたかと言えば「釈迦牟尼沸か亡くなられてから何年間は正法である。そして、像法が訪れ、末法に帰る」と、宗教家、仏教家、又、経典の中に書き表わしてある。
しかし、この「末法の大慈悲」は、今までは「悪も善も救わな願わん」。悪を戒め、善に進み、そして、大きい光を持たし、この世の極楽浄土を、何回か繰り返す輪廻によって、「大慈悲」を与えられていた。
しかし、今は末法の時代に入り、「末法の大慈悲」とはどういうものかと言うと、時代の性を見ると今日までに宗教につき「仏教」という思想も多くの人々に深く入り、知識を導くものとなってきた。
今までに、与えられている、生かされているという立場において、自然の宗教、人間としての宗教、その中の「心」、仏教という思想が多く人々によって語られ、そして、一人一人の心の中に深くその思想、仏、仏性という心の目ができてきた。
これは大自然によって、人々の心に深く入り導いてきたことにも取られる。
ただ、人間の心は、今この像法が過ぎ末法に入った時に、先に述べたように沢山の経典が流れ、何が正法か、何が正しいのか、何が悪いのか、というようなことが、本当に多い経典の中から選び出そうとする心が働くにつれて、本当に何をつかまえたら良いのか、何を基本としたら良いのか、ということが、なかなかつかみきれない、分かっていないということ。
今は、この中から「正法」、正しい教えをどのように求めるかと言えば、もちろん、人間宗教、自然宗教の中の、この世間、世の移り変わり、世の姿を良く見れば、己自身の心で「末法か、正法か」を良く自分で見つめ、分かる。
これは、自然の道理として、人間として今まで生き続けてきたならば、己自身の心に、自然から与えられた智識、智慧、人間加求めた知識、知恵、この偉大なる間が持っているすべての「意」によって行われる。
身の意、心、念、音、色、すべて、「神のふる里へ帰る」その心を大きく持ち続けなければならない。
これが、宇宙から与えられ、自然から与えられている大生命、大宇宙の霊性である。
すべて、一つにまとまった大きい霊性である。
正法を見つめてゆく上で、今の末法の大慈悲において、これを善と悪に分けるならば、この正しい正法を己がつかまえてゆかなければならないこの慈悲にかかっている。
与えられているのが慈悲である。
自然そのものが慈悲である。
これをつかまえていってこそ、己が持っている生命体すべてが、自分でも計り知れない真理、理法が自分で求められる。
今、世の中には沢山の宗教団体があり、心をどこに求めたら良いのか分からない人が多くいる。
だからどこでも自分が求めようとして求め得ないその心、すでに悪法である。
つまり、悪法とは、すでに正義感が欠けることである。正義感とは、あれもしたくない、これも厭だ、これはいらない。何かにつけてすべてを投げやりな気持、自分か求めようとしていっても求められない。その正義感が欠けるということである。
逆らい、迷い、つまり己自身の心が変化してゆく姿、道理を見つめない心、これが悪法である。
つまり、末法に入ったこの世においては、己が己の心に打ち克つことによって、悪法を捨て、迷う心を捨て正法へと自分自身の進む道が自ずとこの世において、自然から与えられた法によって導かれるものである。
自分が真理を求めよう、一生懸命、心の行をしようとするならば、与えられている智識、智慧によって、自ずと自然に導かれるものである。
この大慈悲とは、衆生すべてに仏性を入れ、呼び起すことに、この大慈悲という自然が与えた慈悲が働くのである。
それを照らすのである。
この類に、大きい光が神より振り降ろされようとしている。
この世において正法を学ぶ人々(衆生)は、新しい心として自分の心を結成し、形を変えてゆき、人間としても、考え方としても、思想としても変え、永遠の生命へと導かれるものである。
大慈悲とは、善のみに慈悲を持ち、今の世において、すべての物体に、永遠なる形を残すものであるのが、今の大慈悲である。
つまり、人間として大きい光を持ち、病気一つない人間としてこの世の生存、死ぬことも何もないこの形を、今の末法の大慈悲、大きい光によって、形を永遠に残そうとしているものである。
つまり、これが道場で唱えている
南無平等大慧一乗空妙法蓮華経
創造神を法身仏と頂き、その真理を信ずる者だけが、永遠に救われようとしているのである。
この自然の道理、そして自分の奥底にしまっているこの道徳、感情、観念を、自分が自分で呼び起していってこそ、本当の法身仏の真理を信じるという。永遠に救われようとしているのである。
これはこの道場で説いている「白諸法」。
今までの正法、理法でなく、本当に黄金で光る法、生きた法、亡びない法、これを白諸法と名づけている。
この理法、白諸法は、人々の中に入り、極楽浄土ではない、「白心浄土」が、学び取ることによって達成、出来あがるのである。
そうすれば、滅することもなく、大自然の大生命の霊となり、大きい光を持ち続けることができる。
つまり最後には、道徳、掟、規律という大きい慈悲の心が働き、自分がそれを求めることによって、大きい光を持ち続けていくものである。
つまり、悟りも生まれてくるものである。
この「白諸法」に逆らい、迷いが多くの衆生に見られるならば、全てが一瞬にして、人類はおろか、地球の世界まで滅するものである。
つまり、末法において、悪法がはびこるようなことがあれば、すべて我々が肉眼として生かされているこの地球上において、人類はおろか、すべて地球、衆生までが一瞬の内に破壊されるものである。 これは、いつ、やって来るか…
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