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無心の縁 「無心の縁とは、時間、空間を越える真実在である。通常の認識の形式によってこれを知ることはできない」 これだけ聞いたところで何も分からない。まず、これを自己、自身というものに分けてもらうということ。この中にも、まず明るさ、暗さというものがある。皆さんもよくご存知のように地球上には夜がある、昼がある。これは何のためにあるのかというと、通常、人間の心というものからされを眺めていくならば、人間は常に罪を犯しているということに変わってくる。「私は生涯、罪を犯さずして一生を遂げます」という人はいないはずである。また、いるのではおかしいということ。まず、知らず知らずのうちに罪を犯しているものであるということ。 さて、ここで意識を持って罪というものを眺めてみると、今言った昼と夜という心に分けられるということ。昼と夜とは、まず心の中には善と悪というものが二つ含まれている。悪とは行為を持ってそれを行う場合と、無意識にそれを行う場合と二つがある。今、ここで話しをするのは無意識に行なう悪い行為ということになる。 さて、皆さんは懺悔をする、反省をするという言葉をよく使っている。この言葉は世の中、どこへ行っても通用する言葉である。まず、反省をする、懺悔するとういことは、どこで反省であり、どこで懺悔であるかというと何も分からない。無意識のうちに罪を犯し、そして夜になると知らず知らずのうちに一日あった事、行動、思考した事を思い出すと思う。思い出した時に、今までよく行ってきた罪、善い事、悪い事というものが浮きぼりに思い出せるはずである。そして悪い事であれば「よし、明日は悪いことはしない、行わない」という思いに到達するはずである。しかし、朝になり太陽が昇ってくる。その時に起きて一日の行動を取ろうとする。そうすれば、夜行った反省、それをすっかり忘れてしまって、光の中で行おうとする行動に対して無意識のうちに“無為“になってしまうことである。 反省、懺悔は明るさの中で反省、懺悔を行わなければならないということ。まず、それには日常生活、太陽が昇ってきて太陽が沈むまでに、意識を持ってその場その場、一秒、一秒を自分が思考すること。行動に取っていることを自分のものにし、悪ければこの中で反省しなければならない。それが太陽に変わる人の心である。まず、心に光を入れなければ懺悔も反省もありはしない。心の中を太陽が沈んで夜睡眠を取る時と同じような心にしておくのでは単なる繰り返すものにしかすぎないということ。まず、昼の間にそういう行為を行ったならば明るい間に反省をする。 心の中に光を多く入れてこそ、繰り返すようだが初めて、反省、懺悔というものが出来上がる。そして、自分の悪い行為に対しては、行動を取らないということが強く自分の念として残っていくものである。単なる何も思わなくして行為を取っている時、そして、強く思って行動を取る時にはどうなるか‥今までは無意識のうちの行動に対しては後から行為というものが分かってきたのかもしれない。しかし、今は意識を持って広く眺めていく。そして一秒でも早く、昼と夜のこの昼の間に太陽と同じような光の中で反省することである。暗闇の中でいくら反省、懺悔をしたところで何にもならない。 明るい所で反省と懺悔をすることによって、これが日常生活の無心の縁。 黄光龍説法 心をひらく 第二章 無心の縁より▲先頭に戻る |
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