|
|
|
|
|
無常無我 無常とは、何が善か、何が悪か原始仏教の中に、また阿含経典の中に人間の人間としての心には、善と悪が含まれていると書かれている。それが無常である。 無常というのは、万物は全て移り変わって行くものである。また滅して行くものである。その様に釈迦牟尼佛は説いて行かれた。この中には十二支縁起の中の四諦、八正道が 全て含まれている。無常とは無我である。その無常と無我という事は規律正しく述べれば因縁、因があって結果があるという事にも含まれている。 絶えず人間は何が善か悪か、これからは善のみに進みなさい。意識を持って進みなさいと言っていたところで善も悪に転じようとするものである。しかし、仏教を学ぶものは 悪と善を善のみに意識をして、悪は捨て去りなさいという事になっている。これは悪と善、即ち、どこで判断をするのかと言うと、この判断は自分が苦悩、苦しみ これによって自分が判断して行くものである。自分が善と悪を判断するものである。即ち今、問題を起こしたとする。悪の問題を起こしたとしても、次に善に入れば、 悪と今反省した善とが滅して行くものである。 常に二つの苦しみが掛かってくる。これが無常である。自分が善の行動を起こしていても人から見れば、悪だったかもしれない。また、悪の行動を起こしていても 人から見れば善かもしれない。しかし仏教の中の万物という無常、移り変わるという事は善も悪も滅していくものである。消え去っていくものである。それによって四つの 苦しみ(四諦)と八正道が生きようとする。何に生きようとするか、人間としての持っている心、この中に無常が生きようとする。無常とは振り返って見ると過去である。 常に三世、過去、現在、未来と移り変わって行くものである。 それは何によるか。無我、自分の持っているアートマン、常にそこから生まれようとしている。原始仏教の中に悪と善を持っている、人間には善と悪がある。悪を滅するのには と言うと、悪を滅する事は即ち、自分の自我における善も同時に滅していくものである。常に新しいものを見ようとする事は、過去、現在、未来に対して滅していくものである。 これが仏教の道理である。今までずっと、私の心を聞いて来て全てこの心が今、説法の中に生きていたという事、心そのものが生きていた。即ち、皆にこれを話して聞いて貰った。 そして沢山の人が今、法の話をした。それは何によるか。 それは念である。念とはどういう事かと言うと「音と心」である。正しい正念、正しい念は「音と心」になってくる。だから生き延びようとする。 また、心の行をしようとする者は、因縁即ち、自分の因縁、持って生まれた親から貰った色々な悪の因縁、病気の因縁、全ては正念、正念の中の念に掛かっている。 念は「音と心」である。これが正常に働く事によって、心の3原則が同時に作用しようとしている。 無常である。自分自身に於いては無我であっても全ては無常である。これが諸法である。自分が学びとって行こうとする、心の中ではこだわらず、自分が善のみに進んで 行っても、それは無常である。万物は無常である。常に万物は新しいものを新しいものと求めている。 即ちこの末法の時代に入っても常に人間の心、霊性、又、この世に見える全ての物質、物体、これは常に新しく新しく移り変わろうとして行く。 即ち、自分の心を反省して新しいものに向かえば、これが無常である。常に自分が悪心を持とうとする心は無意識の中に無常にならなくて、常に起ころうとしているのである。 だから色々な病気の因縁、全ての因縁が結果として現れてくる。 それは悪を求めようとしている。 無意識の中に求めようとしているのは、どこで悪を求めようとしているのかと言うと、いつまでも心の中に止めて置くから無常になれなく、それが常に残っていくから 残った分だけが悪である。捨て去る事ができない。無常無我というのはここから出ている。常に音として自分が求めたならば、すぐに何かにつれて忘れようとしている この心が必要である。 常に念を音と心にするならば、忘れていく。いつまでも心の中に置いておけば、それは即ち悪である。何故、悪かというと、それは何時まで置いておくと、 人に色々な事を言われ自分が色々な行動を取った場合に、甦ってくる。あの時はこうやった、今度はこうしよう、これは常に悪であるという事。この間、こうしたから これは失敗したから、よし分かったとそしてまた行った時、成功した。その成功が今の万物万有に対して常に新しいものは移り変わっていっているものだから、古いものは捨てな駄目である。 だから、その時点には悪い事を行ったかも知れない。もう一辺、自分の心に置いておき、それをもう一度した時には、その時点に対しては良かったかもしれない、善だったかも しれない。しかし今、移り変わってゆく万物、無常の中ではそれはもう通用しない。常に新しく新しくものは移り変わっていく。だから自分が悪心を行おうとしなかったならば 自分の音と心、つまり念からすべてを忘れ、捨て去っていくと言うのが心の基本になっていくという事。それによって色々な因があって結果がある。三律という因果、それは 全て消え去ってゆく。もともと法はあってないものである。 即ち、念は音であり心であり、即ちこれも消えさっていくものである、と言う事だけ頭の中に入れておいて、常に忘れていくのが善である。新しいものが必ず出て来るから、 古いものを利用するのではこれは必ずしも善とは言えない。 それを見分けていくのが仏教で言う、釈迦牟尼佛の教えで言う知恵。忘れていくのが、これからは身口意においての実践行である。そうする事によって大きい光が常に 前進のみの光だけが自分にかけられてくる。いつまでも過去を振り返って、この時点でこれが悪であったから、今やれば善になるという事はもう古い。無常である。 万物は移り変わっていくものである。即ちそれは悪にしかならない。 常に前進。 忘れていく。 正しい念だけを出す。この念は… 無常無我の説法をご拝聴することができます。 無常無我 黄光龍説法 末法の時代・篩の時 宗教と心(霊界1)無常無我より   ▲先頭に戻る |
遠光山 浄教宗 本山 天神寺 無断で複写・複製・転載することを禁じます。 このホームページの文章・写真等の著作権は天神寺にあります。 © Copyright 2006-2008 Tenjinji. All Rights Reserved. |