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写経の心
写経の心
本当の写経の写し方 自分の一心の心
写経は般若心経を書いたりするのではない。
字を眺めて心を一心に、筆を持たなくても自分の心で写経する一枚の白い紙に「ウッ!」と念をこらえて入れるだけで“大生命の中の因縁”自分の持っているのがその紙切れの中に現われる。白紙でもよろしいということ。この三つの心を求めてその時間を費やし「何かある!」と思った時に、ハッとそこに息を吹きかける。またはその白紙をカッと目で眺める!こらえる!これで写経の持つ意味が一つできあがる。
これでもまだ何か求めたいというならば、一般にお経と言われている般若心経、阿弥陀経、観音経、何でも良い、一切経を写す。写すことは歴史的に見て広めるという意味が含まれているならば何でもよろしい。それを書きあらわす。または自分の頭の中に描いた自分の心(平安さ、何にも驚かない、動揺しないとゆう心を一心の心にしたならば)を一つにしたならば観世音菩薩の絵が自分の中に描かれた。または、点や丸があらわれた。または自分の最も好きな仏像の絵が浮かばれたかも知れない。必ず何か描かれるものがあるはずだ。それを手に持って一気にあらわしてゆく。
一行書いてはまた明日、一行書いてはまた明日、これでは何の写経の意味もない書かなくても良い。その日にあらわれたもの、般若心経を書いているならば、「摩訶般若波羅密多心経、観自在菩薩」で心が終わったならば、それで写経の紙は終わりであるとゆうこと、それをまた明日、「行深般若波羅密多時照」と続けて書くのは写経の本当の意味ではない。仏像があらわれたならば仏像の絵を一気に書きあらわす。嫌になったらそこで止める。胴体だけ書いて頭がなくともよろしい頭だけ書いて胴体がなくともよろしい。
それもできないならば、日本人であるならばどんな人でもあいうえお〜んまでのひらがなが書けるはずだ。また、カタカナでもよろしい、A、B、Cとアルファベットでもよろしい、これを写されるところまで一気にその日に写してゆくのが自分の“一心”の心である。

写経の正念 見ず・聞かず・語らず
つまり、写経の一心とは「見ず」「聞かず」「語らず」とゆう心がそこにあらわれてくるのである。またそれをあらわしてゆくものである。 これを仏教では縁起と呼んでいる。 写経の持つ縁起「見ず」「聞かず」「語らず」この三つの心をまず働かす。この一つでも欠けるならば写経に邪念というものが含まれてくる。 あくまでも写経は正念であらわしていくものである。

写経の邪念 自分に因縁としてはね返る
写経の持つ邪念とは何か。自分があらわそうとする邪念とは何か。
つまり写そうとする三つの心
一、悪口を思考し写経すること
一、声に出すこと
一、美しく飾ろうとする思い
この三つがあらわれているならばこれは「邪念」である。
一、悪口を思考し写経する。これは一心の心、平安さ、何にも驚かない、動揺しない心が働いていないということ。「見ず」「聞かず」「語らず」の心も働いていない。「Tさん私をいじめた」と、心の中で音を出しながら何枚書いていても邪念にしかすぎない。
一、声に出すこと。これは「あのバカたれ」とか、般若心経を「観自在菩薩行深…」と声を出しながら書くのも邪念である。何故ならば、自分の一心で言った心がその紙に伝わらないのである。
一、美しく飾ろうとする思い。字を書いていて、「あの人は上手に書くのに何故私は上手に書けないのだろう」と思っていても駄目であるということ。自分がそこにあらわせるもの、文字でもよろしい、絵でもよろしい、一心に念を入れてもよろしい、自分がいま書ける文字、漢字が書けなかったならひらがなでもよろしい。ただ単に写すのは写経ではない。
その心の「神髄」とゆうのは
邪念をもって写経しているならば己の心に悪罪をもらうのであるそこに邪念としてあらわれてくるその心が働くならば、逆にはね返ってくるものである。
つまり因縁をうけるものである。人の因縁も、自分が捨てようと思った因縁も、もう一辺自分がもらうのである。一、人の悪口を言う。一、声に出す。一、美しく飾ろうとする思い。この三つの心をその中にいれたならば何にもならない。

心の行 日常生活に写経の心を活用する
写経とゆうのは特定のことを話しているようだが今、この話を聞いてメモをとっているがこれが写経である。どの思いで書いているか、その時の心がここに入ってきてしまう。カセットを取っている人もいるこのテープは自分の鏡である。自分が聞いているその邪念を入れてテープを他に貸しても駄目であるとゆうこと。
一心とゆう心を働かさなくては何にもならない。単にメモを取って動かしているのではない。メモを取って動かしている中にも邪念か正念かが入ってくる。メモを書いているのは全部写経であるとゆうこと。書く時には本当にそのような心になって書きなさい。そうして、こうゆう心を写経によって訓練してゆく。そうすることによって一心の心が自分に合うことになる。邪念を捨てることになる。
この悪い三つを人々は繰り返そうとしている。これらが心に出なくなるまで続けるのである。一旦、この行に入ったならば自分が正念を持てるだけ繰り返し繰り返し続けるのである。そうすれば一般に言われている途中挫折の因縁もなくなってしまう。
こうゆう心が一日でも働けばよろしいとゆうこと。しかし、よろしいと言っても日常生活においてペンを持たないことはまずないと思う。自分の名前を書くことも、商売している人ならば伝票書くのも写経である。
そこから自分の心を見い出し訓練してゆくことができる。まず、特定のものではない。名前を書く時も、伝票きる時も、そこから一心の心に自分を持ってゆくように努力する。
商売している人にとっては伝票書く時間も人から与えられた時間である。自分で作った時間ではない。他人が待っていてくれて自分が書くのであるから、与えられた時間である。自分から「少し待っていて下さい」と言って、書く人はいないはずだ。待っている人がいるから伝票を書いて与える。規則として他人から与えられている。こうゆう時間が一日に何回かあるはずだ。日常生活において与えられている時間は一分、二分、三分、四分と短いかもしれないがそれを上手に活用する。それをもう一辺写経したいならば夜、みんなが寝しずまった人から与えられた時間に騒がしくせずに十分、二十分間、寝なくとも別に死にはしないんだから写経に費やすのが本当の心。
百日でもない千日でもない。そのような座行ではない。生まれた時から死ぬまでが写経である。

写経の功徳
それを繰り返す。これが功徳である。これが自分を正しく正念におきかえてゆく功徳である。己の心が一つ一つこの思いで続けてゆくならば、平安になり、一つ人の道、己の仏性を見つめることができるのである。
これが自分の心の心性とゆうものに深く入ってゆかれる。
単に百枚、千枚、一万枚と写すだけでは駄目である。
実践の写経とは、心のうちに見ず・聞かず・語らずの心にしてゆくものである。ここに自分の因縁をかけてゆく、邪念をかけてゆく。まず、最初は邪念しかかからない。本当にすみきった平安な心で写経しなければ正念はかかってゆかない。
写経を繰り返して因縁をそこにかけてゆくものである。紙一枚に因縁をかけてゆきなさい。
写経とは、己がそれによって醜い心からきれいな心へと自分が解脱してゆく。悪を捨て、本当に「善を求めよう光をもとめよう」とする心に自分が脱皮、つまり、解脱していこうとすることである。
それには、写経を大きな光を持っている者に写経の解脱をしてもらうのも一つの手である。自分の邪念を含めておいてそれをくるくると丸めて自分で燃やしているようでは、またそれが鏡であるから、またその因縁が自分に戻ってくる。
その写経で書いたものを神社仏閣へ持っていって、大きな光の持っている者に供養してもらう。光によってそれを解脱・持っている本来の心を消滅してもらう。
ただし、ほとんどの神社仏閣では、大きな光を持っている者はいない。

写経の本来の心 写経の本来の意味は、己の…

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