|
|
|
|
|
仏事にとらわれると死んだ人の供養ができない 霊界というところを知るならば、生きているうちに心の浄化することによって、三途の川を渡ることができる。三途の川を渡ってしまったら神がえがいている霊界の中に、法と言うのが上にのしかかっている。法を過ぎれば”善の国”である。そこに入るように自分が修行界において一生懸命、行をしてゆく。 それには、下界にいる人が足をひっぱるのでは何もならない。折角、三途の川を渡ろうとしている先祖の霊の足を引っ張って「戻って来てください、戻って来てください」と叫ぶのと同じである。そうすると、折角、三途の川の手前まで行ったのに、十三仏事のような訳の分からない先祖供養を下界の人がすれば、先祖は「下界にいる子孫は大丈夫かな」と思い、下界に愛着、執着を残そうとする。 三途の川を一旦渡ると教育を受ける。教育を受ければいつでも命令いかんによっては子孫に対して子孫を光らし守護できる。 それをむやみに子孫である生きている人が足を引っ張る。 例えば、一家の主人が亡くなったとする。お仏壇の前に一家が座り、「お父さん何で死んだ。残された者はどうやって生活してったら良い」とゆうような思い、そのような心を生きている下界の人が離してあげなければ、本当の先祖供養はできない。 この世を去った、なくなった人すべて死んだ人のことを一日一日忘れて行ってあげるのが本当の先祖供養である。一日一日忘れて行かなかったならば、一日一日死んだ人の足を引っ張っていることになる。三途の川に足を一本かけたような状態を引っ張ろうとしてゆく。また足をかけるがまた引っ張る。そのような子孫達によっては先祖は全く修行ができず成仏はできない。 神社仏閣に供養を頼むな! −本当の供養はそこではできない− そのようにして死んだ人が下界においての愛着、執着を捨てても、今度は逆に生きている人が強い愛着、執着を死んだ人にもたらすことになる。 だから、百年も二百年も三百年も永遠に先祖は迷っていなければならないとゆうことになる。暗くなれば今“末法の時代”消滅されてしまう。 子孫が十三仏事を当てはめて、先祖供養をしてあげるということは、その度に亡き人を思い「うちの父さんは良かった」「うちの母さんは良かった」「うちの子供は良かった」と、足を引っ張ることになる。 光を持たすためには忘れてあげるのが一番の供養になる。 僧侶や祈祷師に来てもらって、法事、法事に読経する本人にもわけのわからないお経をあげてもらっていても何の意味もない。 光のある人がそのお経をあげるならば、先祖に一段と光をかけてあげることができるので、先祖が三途の川の手前にいるならば光を送ってあげれば先祖は三途の川を渡ることができる。そして次の法事の時に、また光のある人がお経をあげれば、次は菩薩の位、阿弥陀、光と、だんだん位のあがってゆく先祖供養ができる。 しかし、ほとんどの神社仏閣では光を知らない。また光のない暗い僧侶がほとんどである。 そのような僧侶にお経をあげてもらったり加持祈祷をしてもらっても何の意味もなく、逆に死んだ霊に対して愛着、執着を重ねてゆくのにしかすぎない。 これで「先祖供養は僧侶に頼っているだけでは駄目だ」ということが良く分かったと思う。 本来の神社仏閣の役目、僧侶の仕事とは! −神社仏閣の金儲けにのるな− 僧侶は何のためにいるのか。僧侶は先祖供養したり水子供養したり加持祈祷をしたりするのが仕事ではない。今は十三仏事のように儀式化されそのような仕事になっているが違う。 本来の仏教の教えでは、僧侶は"菩提心を導く師"である。 この世に生きている人々に法の話、教えをし、その人達に「一つづつ、菩提心を起して下さい」と説いて歩くのが僧侶である。儀式のみにとらわれているのは僧侶ではない。くそぼうず・銭もうけぼうずである。 神社仏閣は本来、心の道場で供養する所ではない。現世利益を求める所でもない「水子供養、先祖供養」というのは、生きている人(水子であれば親、先祖の供養であれば子孫)がするのが本来の本当の供養の姿である。 「神社仏閣の僧侶に頼んでするものではない」 中風にかかったり、また動けないような状態で死んでいった先祖(健康でない)の「不成仏霊」を神社仏閣で供養してもらうとゆうことは、その先祖の霊は動けないから神社仏閣に捨ててくるのと同じである。 ――「成仏」とは、一人前の仏の姿(手、足、身体、頭)現在の人間の姿となることを言う。そして、三途の川を渡り光の国へと向う心ができた時を「正成仏」と言う。一般に言う水子もこれらができていない―― 自分の親や子供の霊を神社仏閣に捨てることになる。 不成仏霊によるたたり(霊障) 先祖が醜い心で死んでいったならば、不成仏霊として家にいるか、また生きている人の身体についたり、木にすがり木の汁をすったり、お墓にすがったり畜生にまですがるようになり、だんだん心が醜くなり畜生霊におち(人間の進化の逆を辿る)最後には「病原体」となり、生きている人の身体の中に入りこみ身体を病気にさせ、喰い荒らすようになる。 このような神社仏閣の僧侶に頼ったり、仏事の儀式のみの先祖供養をしていると、たくさんの不成仏霊の先祖を持つことになり、最後には生きている子孫の身体に入りこむ。そうなれば、生きている子孫は病気にかかって当然である。 お墓は死んだ人に必要ない。 不成仏霊はお墓へいって、お墓のまわりを食べ物を捜してうろうろしている。その食べ物がなくなるとどうするか。人間の身体にさわる。人間が光っている光っていないに関係なく、極端な例であるが、ここにAさんがいる。この人間が何も食べない断食の行をしているとして不成仏霊がポンとついた場合、Aさんは今、不浄仏霊に食べ物を食べさせられない。 そうするとどうなるか。 不成仏霊は、人間の皮膚を食べにかかるか、人間の身体に入ってきて細胞を喰い荒らす。そうすると、肌が荒れたり、患部が脹れたり、医者にいっても分からない病気にかかる。子孫だけでなく他人にも障っていく。 わけの分からない病気がこの「不成仏霊」によってかかってくる。 三途の川を渡っていくとは 残っている子孫が心を磨いてゆくことにより、たて前でない本音の大きい光があたる。そうすれば、醜い先祖でもそれを見ていて「家の子孫は光にかかった、このような心にならなければ駄目やな」とその様子を見て、自分が心の行をして、三途の川を渡ってゆく。三途の川は二人、三人では渡れない。 一人でしか渡れない。何故か。 生まれる時は、1人で生まれてくる。 死ぬ時も、1人で死んでゆく。 三途の川も、1人でしか渡れないようになっている。 手をつないでもらって渡られはしない。必ず1人で渡る。その人の心によって、太平洋のような大きさにもなり、大きな川にもなり、一本の線にもなる。その人の心の浄化によって、いつでも三途の川を渡ってゆくことができる。 あくまでも残されている子孫が供養をしてあげる。僧侶にまかすのではない。僧侶はこの世界にいる人を導く役目。それが経典にあらわれている。 先祖供養、水子供養はこのようにしてあげなければ本当の供養ではない。供養と称して仏事をして、生きている人が死んだ人の足を引っ張り、三途の川を渡ろうとしている先祖を三途の川から引きずり下しているにしかすぎない。 自分の心の行によって先祖供養ができる・・・ 先祖の供養の説法をご拝聴することができます。 先祖供養の仕方 黄光龍説法 心の未来(T) 第一章 先祖の供養より   ▲先頭に戻る |
遠光山 浄教宗 本山 天神寺 無断で複写・複製・転載することを禁じます。 このホームページの文章・写真等の著作権は天神寺にあります。 © Copyright 2006-2008 Tenjinji. All Rights Reserved. |