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他力と自力 「他力(すべて与えられているもの)」と「自力(意識を持って行動に移すこと)」ということ。これは何回も話をしている。しかし、もう一度自分に復習するつもりで聞いてほしい。さて「他力」という言葉をいうと何を想像するか…。この想像の仕方、思いは一人一人が違うはずである。しかし、決まっているものがある。それは何か…。 “与えられている”すべてに! 我々が今、この寿命(有としての姿をもった命=繊維体)を持つ、生命を持ってここで話を聞き座られる、また、外へ出れば歩いて行けるということ。これはもう、当たり前に決まっているということ。それに与えられたものの中には人間としてこの世に寿命を保つためには、いろんなエネルギーというものを自分の身体の中にいれていかなければならないということ。その点を頭の中に入れて、いろんな思いというものを描いてみなさい。おまんまを食べることも与えられている。自分の生命を保つためには口に物を入れなければ、生命を保つこともできない。寒ければ火を焚くことも与えられている。この世を照らす太陽、この光がなければ我々の細胞(超自然、宇宙学の中の人はミニ化である。また、皮膚、細胞の組み合わせ1つを見ると人のミニ化である)は活発に成長はしない。風がなければ…、雨もふる。雪も降る。何においても、”生かされている”という自覚、生かさせてもらっているという思いに到達するはずである。 しかし、それはすべて何かというと、「他力」である。そのいろんなものを考慮にいれ、頭の中に入れて何事も1つずつ見ていく、見ていくのも「他力」であるというふうに思って見るならば、何に対してもすべてが「他力」であるということである。そうするならば、今言った「自分の行」はしなくても良いのではないかと、そのように思いがちである。もう一度、物を食べる、そうすると口の中で甘味も感じる、何事にも食べ物に感しては、この舌で感じていくことができる。しかし、この感じるのも「他力」である。そうするならば、すべて”与えられている”ということになる。 しかし、自分が甘味も苦味も感じる。全く自分と同じように、他人も感じるのかということ。自分が美味しいと食べ物を食べている。他では不味いなと食べる人もいる。それも”与えられている”ものである。しかしここで「実践の行」というのは、人が美味しく食べられるのに自分は美味しく食べられない。同じように味というものは与えられている。それなのに人とは違う。そこで自分の思いというものが、どの方向に進んでいるかということを自分で掴まえていくのが「実践」であると言ったところで分からないだろう。 しかしどのような物を出されても人の心は、出すからには美味しく感じる人と、美味しく感じない人がある、また出す人がいるという、3つが伴うことになってくる。そうすれば、美味しく感じない人は美味しく感じるように努力していくのが「実践」である。それは何か…。例えば、美味しく感じない人を悪とする。美味しく感じる人はすべてに愛が入り、頂いた人の出してもらった人の心を読み取り、知らず知らずのうちに脳とこの味覚とを、この身体で相手が出してくれた心を感じ取り、そして、その味を味わうから美味しく感じるのである。美味しく感じない人は出してもらった人の心を感じられない。 それともう1つ、「自分をいたわる」ということを忘れている。「いたわる」ということは、なぜ、片方は美味しく感じるのに自分は感じないのか…。自分が不健康であるならば感じ取ることができない、出してもらった人の心を読み取れなかったら美味しくは感じられない。それも全部”与えられている”ものである。しかし、この裏を返せば、”与えられている”中にも人が美味しく感じるならば自分も美味しく感じさせる。これも実践の道であるということ。 だからもう少し分かり易くいうと、1人の人間がものすごく出世をしている。また、一人の人間が貧乏のどん底に落ち込んでいるという。それも、2人とも与えられているものである。それで片付けるのは本当の「他力」、「他力」で与えられているものと感じるかも知れない。そうするならば、自分の努力という、善いように向かっていくことも与えられている。だから、どん底に落ちているならば、善いところまで上がっていく自分の心が「実践の行」であるということ。皆さんはこれをなかなか感じ取れない。考えれば考えるほど、善い事も悪い事も、すべて神から与えられているものだと、知らず知らずのうちにここに置いていくということ。しかしそれには言っている行動と努力というものも与えられているならば、前の例えのように美味しく感じる、人に追い着くようにその人のレベルまで自分が持っていくというものも与えられているのだから、努力していく必要があるということ。すべて万遍なく与えられているという、これは「他力」である。それを万遍なく自分が使いこなしていく努力、行動というものが「実践」である。だから、ここでは実践のために「心の三原則」というのを説いている。 一、善悪をわきまえる 一、いたわる 一、精進・努力 これをしっかりと自分の思いというものにぶつけてみる。そして、今の与えられているということが「他力」ならば、努力することが「実践」である。この「心の三原則」と、そして、この2つを自分の言葉として大いに自分に語りかけていくようにしなければならない。人間にはそういう力を持っている。これも与えられているものである。 黄光龍説法 心をひらく 第二章 他力と自力より▲先頭に戻る |
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