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家庭の和 人間がまず共存共栄、同じような思考力というものを働かして生活していくには個人個人に例えると、まず家族構成がある。これがばらばらでは何の意味もないということ。まず、家族構成の中に共存共栄という大きい主旨のもとに今、生活しているならば和が必要になってくる。 この和とは、まず最初に同じ家族が同じような思いに囚われること。もちろん、善悪という判断のもとに囚われる。そして、この中において共通の課題、共通の遊びというものを設けなければ和は保つことができないということになる。まず共通の遊び、これを思考しようと思うならば前(建前)を作り難しいかも知れない。しかし、一つのポイントが分かれば家庭の和を、“共通の遊び”というものを設けるのは非常に簡単である。 一つの家庭を覗いてみると家庭の主婦がいる、主人がいる。主人は他所に仕事をしに行っているとする。奥さんは、家庭の中で寿命を保つための穀物、食物を仕入れ、一つの活力、努力というものを生み出すその栄養源を貯えようとしていくのが家庭の主婦である。それに専念していくのが家庭の主婦である。 まず、主人が会社へ仕事をしに行く。そうすれば会社の中でいろいろな事がある。嫌な思いをする時も楽しい思いをする時も、その場で苦しさを持って家へ帰ってくるということが多くあると思う。 一日一日、人の心というものは、移り変わっていくものであるから、いろんな思いで家に帰ってくると思う。しかし、その時にその気持ちというものを汲み取って上げなければなんにもならないということである。ただ汲み取る中にも、帰ってきた、そしてその一つの流れ作業として、ごはんを出してあげる、おかずを出してあげるというふうにただ流れていくのでは何もおもしろくない。そこで、栄養源というこのもとを作っている家庭の主婦は、それをどのように迎え入れたら良いかということに変わってくる。まず、旦那さんが帰ってくる。嫌な思いをして帰ってきたかもしれない。しかし、主婦は一日家の中にこもっているのではそういう心を?まえてあげることができない。その時に、どのような思いで接すれば良いかということになってくる。 それは、疲れて帰宅したなら自分も疲れた思いになりなさいということである。大体、長いこと同じ家庭の中で生活しているならばその時の感情、行動というものがわかるはずである。分かるのが夫婦である。そして、この容態が分かるのが親である、親の行為、行動が分かるのが子である。これが家庭の血縁であるということ。そこより、疲れて帰ってきたならば、今、自分は同じ仕事をすることができない。隣近所を走ってきたつもり、このつもりが必要である。その時に初めて、走ってきた思いに自分が到達する。できないならば、実際に走ってきなさい。そうすれば、相手の疲れていることがよくわかる。その時の言葉は必要以上の会話はできない。同じように「辛い」、「疲れた」とその中に、本当に同じ心になった時に初めて本当の会話が設けられるのである。その中より、いろいろと会話の遊び、そして行動に取れる遊びというなが自然に生み出せるものである。それを日常生活の中に常に繰り返し、その思いに自分を持っていくようにするのが家庭の和である。 家庭和楽の説法をご拝聴することができます。 家庭和楽 黄光龍説法 心をひらく 第二章 家庭の和より▲先頭に戻る |
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