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心の行 人間の心の行と言うのは、心とは何か、心、心、心、心と思って考えようとしてもなかなか心というものは考えられない。 これを、言葉に直すと、音に直すと、自分の知識でもよい、自分の頭の中に入れてある中でもよい、すべて自分の知恵やと思ってそこから善悪をわきまえる知恵、これをしたらよいかな、これをしたら悪いかな先ず自分の判断力これをまずつける。判断力をつける努力をしなさい。 それからもう一つは、体を労わる。体を労わるとは自分が四諦を理解すると生苦老死を理解すると、必ず誰を見ても、子供はいつまでも子供の姿ではいられない。必ず大人になって行く、そして老人になって、通常にいって死んで行く。「まず体を労わる」これをよく、自分の頭に叩き込む。良い事、悪い事、皆叩き込んで、悪い事をしないで良い事をしようと言う心と自分が衰えて行くという事だけ頭の中へ入れる。 そうすると、自分を労わろうと言う事が解ってくる。無理をしてはならない。人から「あなたは体が悪いから医者に行きなさい。」と言われ、自分が若くして、今、現在の気持でいるから、自分がもう四年、五年、六年と衰えて行く自分の姿を自分で想像して見ると、よくわかる。病気を持っていると皆に迷惑をかける。そうなれば、素直に聞いて医者行って見て貰うという素直な心になって行く。それが又善悪をわきまえる善の心になって、善の知恵になって行く。そして言った人に感謝の気持が出てくる。そういう心でいれば教えて貰った人に、「悪かったな。」という感謝の気持が出てくるはずや。そうすると、言ってくれた人にまで労わる事になると言う事、逆に言うと。その人が自分の体は自分がよく知っている。あなた何を言っても医者へ行く必要はない。」とその時言っていれば「私はあんな事言わねばよかった、あの人に無茶な事言ったのではないか、本当にあの人は入院しなければ良いがな、医者へ行ってくれればいいがなあ。」と人に心配までかけて、自分を労わらずして人を労わる事ができない。それがもう善と悪の知恵に分れてしまって、もうすでに悪に入っている。正しいと思う事は素直に自分が受けとって行くという考え。 それから、自分の強い精神力、精進、努力、と言うのが、全部この中に含まれている。「よし、悪ければどんな事をしても、治してやろう。」病気の苦しみに耐えて行こうとする。又、この病気を克服して、病気によって何んで自分が苦しんで行くのか、「よし、この病気を治そう。」と言うその瞬間、自分が病気に対して「お友達や。」と言う心が湧いて来るはずや。 「自分に何かがあって、自分が悟らなきゃいかん為に病気に罹ったんや、こういう病の苦しみに罹ったんやなぁ」と自分で自分を見つける事が出来る。それは人間はこせこせと目先の事ばかりに見とれて追いかけようとするから、それすら自分が反省する事ができない。もう一辺こせこせした気持を忘れて、もう一辺自分が自分の姿を、もう一度見て見る。過去に振り返って若い時代、子供の時代を見てもよい。もう一辺自分を見る事は、自分が生苦老死を頭の中へ活字として叩き込めば、実践するのは、何を実践するかと言うと幼年時代、若い時代を思い出しても良い。自分が七十、八十、九十と生きられて行くのだったら、その時の姿を、自分の頭の中で想念をもって見なさい。 我に振り返って我を見つける、その姿を見て見なさい。必ず衰えて行く。その時の現状を、その時の事を思う事によって自分が目覚める事が出来ると言う事や。だからこの三つの原則、心の三原則と言うのは 一、善悪をわきまえる知恵。 一、自分の体を労わる。 一、精進、努力 と言うものを、自分がよく理解して行く。その理解が出来ると、本当の聖八支道がすべてに自分につながって来ているという事がわかる、そう言う事になって行く、実践に入って行く上の基本である。 人に引っ張られて心の行は出来ない、切っ掛けは自分で作るものである。一日一日大きく反省出来れば、大きい大きい悟りにつながる。 悟りとは大きい大きい光である。その光を自分が求める。この光は霊界に直結している。色の世界、透明の世界、皆自分の心の行によって大きな光を、創造神から頂くのである。自分たちの心の行によって菩薩の位も決まって行く。 ここに人間としての命がある。それは衰え、色は亡びてゆく、投げやりたい。人に救われたい。自分の生命は生きようとする、けれど自分の心すら、無くして行くのも心の因縁(自分の醜さから出る、これが100%含まれる)に負けて、自分の精神に負けてはならない。 自分の生命は自分で伸ばそう、投げやりを捨てる事。愛は人からかけて貰うものではない、「あなた体を大事にしなさい。」と言われても、それは建前の愛にすぎなく、自分で自分の心にいつまでも永遠に生かす。これが本音の愛である。自分に厳しく自分を見つめる。一秒一瞬の反省が悟りにつながるのである。又、判断力が甘いということは苦労から逃げる事である。自分の喜びを人に与え、人の喜びも共に喜ぶ。自分さえよければ良いという心を捨てて善の心で接する。 話をする―何を感じるか―ふれ合う所から―方便でなくなり―法に変るのである。心と肉体が一つになって行動し、心の三原則を忘れると、心を病むからそれが塊となり、因縁として醜い心が残る事によって、それが他人に障り、心の因縁となる。親の胎内で初めて、生を授かった時には因縁が無いのや、育って来た環境によって、親の持っている醜さから因縁を作る。自分の言葉で自分が頼る(自分の心に信仰する)。自分の心に素直に生きる。それは言葉の念にも変わる、自分を見つめる知恵を持った行をしなさい。 三原則を自分の頭に叩きこんで始めて心が成り立つ。自分で愛を作り、打ち克つ精神も出、反省、無意識の積み重ねが悟りとなり、自分で自分が大いに活躍出来る事になる。感じて見る事が出来る。自ずと自分で活躍する場所が出来る。自分が自然に動く、それは心の結晶である。口先だけの活字を並べて説教しても、人からの愛は建前の愛で、それは直ぐ消えてしまう、慰めにすぎない。自分の心から出るもの、本当の心の愛は木の根の様なものである。すべての因縁を消し新しい因縁を作る事にもなる。人間としての知恵、自分のもう一人の自分、霊性としての知恵、心に成立つまとまった知恵、心の目で見る、心の行をする為に人間として出てきたものである。 我に返り、我に生きる 役に立つ、人間になる 黄光龍説法 末法の時代・篩の時 宗教と心(霊界1)心の行より   ▲先頭に戻る |
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