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煩悩 ノウマク サーマンダ バザラダン センダ マカロシヤダ ソワタヤ ウンタラタ カンマンという陀羅尼がある。これを1つ簡単に分かり易く解読すると、まず火に体を入れていく、すべてを吐き出す。燃やすということ。この陀羅尼は一般に不動真言と言われている。その意味をよく噛みしめて考えてみると、まず、この浄教宗でいつも説いているように人間の体には「地、水、火、風、動、砂、木」という七原則(心の輪廻と転生参照)がある。その中の煩悩ということ。あくまでも熱と光というふうに変わってくる。 熱と光は水である。また水は熱と光である。それに付随していく因というものが七つにも八つにも…二十までにもつながってくるということ。この意味を説明すると、まず煩悩の一線を下げなさい、大煩悩を起こしなさんな(宗教と心参照)ということ。普通当たり前に皆が欲求するものがある。これは普通の煩悩であって大煩悩とは言わない。そのように人間の思う心というか、思う念というものがどのように展開していくか…。分かり易くいうと簡単なことである。一瞬わすれ去ることが煩悩の線を下げたことになるということ。煩悩ということは、瞬下げるというこれだけのものである。 それに付け加えるといろんなことがある。服を着ているのも煩悩であり、自分の経済力に合わせてそれ以上を要求すれば大煩悩であり、煩悩の一線を超えたことになるということが書かれている。すべて瞬時に忘れ去って次のページに向かうことが煩悩の線を下げたことであり、その瞬時忘れて次の線にいく時には、ページをめくるときにはすでに必要以上の欲望もある。すべてのものが含まれている。しかし、めくり終わって瞬時に忘れた時には、もう煩悩の一線は下がり降りているということになる。 先に言った、呼吸をすること。自分が知らず知らずのうちに呼吸をやっている。これは当然、人間が寿命を保っていくためには呼吸をしなければ何にもならない。この呼吸は大煩悩か、煩悩か…。この呼吸は煩悩でも大煩悩でもない。これはすでに与えられて生命を保存していくためのものであって、意識を持って、今息を吸っていますよ、吐いていますよ、酸素を吸っていますよ、炭酸ガスを吐き出していますよ、汚水物を排き出していますよ、という思いに囚われない心、それが一線をさげたものである。つまり、これは煩悩とはいえないということ。あくまでも、ここで説いている煩悩というものはそのようなものではない。 例えば、今寒いから復を一枚着て自分の体温を保つということは、もう煩悩ではない。与えられた知識、智恵の中より生み出されるものであるということ。”与えられている”、与えられたその知識、知恵の中から自分の寿命を保つための一手段である。考えずしてその行動が出来るもの、これは煩悩ではないということ。まず考えて、あれが欲しい、これが欲しいとか、あれをやってみたい、これもやらなくては駄目だという、「無」から離れた「有」の意識というものが、自分の脳裏をかすめた場合には煩悩である。しかし、この煩悩をどこで止めるかという問題になってくる… 煩悩の説法をご拝聴することができます。 煩悩 黄光龍説法 心をひらく 第二章 煩悩より▲先頭に戻る |
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