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思想と愚痴
思想と愚痴
思想には必ず愚痴が付きものである。思想と言う言葉を解釈すると、人間が未来に向かってものを考え、そしてその道理に合わせた行動を自分が自分なりに取っていく。また、人をその道に、大道に進めていくと言う。この思想なくして歴史は何も無いという事。この思想の中には同じく愚痴という他人から見れば自分呼ばわりな言葉がある。人から見ると、何を馬鹿なこと言っているのか、そのものを理想とし思想とし、今の世の中には全然適用しないのではないかというこういうものから愚痴というものが生まれてくる…
自分の意識の調整、心理的には外のものを主我と呼んでいる。また、心理学者は外から与えられたものを自我と呼ぶということ。本当に自我から自己に物事の道理は置かれていくということになる。自己からしては絶対に悟ることはできないということ。自我においてそれを取り入れることによって自我が自己になり1つの意識として自分が悟ることができる。だから、悟る道は意識として自然を見ながら1つ悟っていくということである。脳によって悟ることができる。もう1つは自分の見解、見る目によって実践を行い悟っていく道と2つあるということ。自我と自己を見つめるならば…
例えば、内識、自己だけに自分が囚われているならば死を招くことになり、また精神が乱れ精神病院へ入らなければならない状態にも追い込まれるということ。外識があってこそ外識に知らず知らずのうちに意識を持っていくことによって人間の精神が安定し悟ることができるということ。あまりにも内識に囚われたならばその人間は精神病院にも行き、また体が硬直し自分が破壊する羽目にも追われることになる。あくまでも、自然は外識であってこそ何を見ても自然であるということ。人間は2人いて必ず相棒がいるならばその相棒は自然である。宇宙がどうの、山、川がどうのと以前の作った歴史の自然ではなく、そこへ対応していくそのもの自身が自然である。それが外識、それから自分の自己として落していってこそ本当の悟りを得ることができる。
それに、愚痴というのはこの思想の中から現れるということは今の理解の仕方、考え方という自我的なもの自己的なものに対してのポイントのまとめ方によってどちらかが外れれば自分に言い聞かすことになり、また自然に言い聞かすことによって成るということ。そこで初めて愚痴というのに囚われるということ。だから、人間として愚痴を自分の心に意識として入れるならば、人間の愚かさと美しさを2つ示していることになる。外識、内識ということになれば、人間の愚かさと美しさと2つ自分が示していることになる。だから愚痴というのは自己反省ということ。自我から得られた自己反省によって愚痴も無くすことが出来るということになる…

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