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聖八支道 聖八正道 「聖八支道」これは仏教で言うと心の行をするのに一番大事な事である。 十二支縁起と言うその中に、愛とか、取とか、苦しみとか、すべてが含まれている。その中の1つである。四諦と言うのと聖八支道と言うのを少しまとめてみた。これを読んでみるね。 「無明は心の迷い無知、真実の道理を悟らない事を言う。この迷いによって作業が行われる。行は即ち心の方向性である。四諦、八正道この心は無明を掘り当てた、苦を亡ぼす為には根元の無明を滅して菩提、絶対の知恵、証しなければならない、これが仏教の理想である。 いわゆる四諦、八正道と言うのは、正道に進もうとするのは、第一に人生の苦を明確に自覚する事が必要である。直接的には渇愛、即ち、激しい生の欲望である。生は生きる事、それを亡ぼす事、割愛は必ず、それを亡ぼされる事である。 八正道と言うことは、どういう事かと言うと、一つの言葉に直すと、正見、正しく見る、正しい思い、正しく語る、正しい業(行う事)、正しい命、正しい精進、正しい念、正しい自分に対しての掟、自分の頭の中に入る新しい瞑想、妄想、想念と言う事。(正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定) これを八正道の実行によって渇愛を亡ぼす事によって、無明を亡ぼされればそこに無上の性格が厳正される。」 心の中で一番大事な聖八支道という事は、先ず正しく見る。先ず一つあげると、何を正しく見るのかと言う事になる。唯、眺めているだけでは何にもならない。人間の目で見えるすべては自分の煩悩から見えるものである。煩悩を取ってしまえば、即ち、何も見る事ができない。人間はどうしても創られたものであるから、煩悩を沢山持っている。だからすべてのものが自分の視覚に入ると言う事これが正見。 正しく思うと言う事は、これは正念にもつながっていくもの。自分の心の中で殺生、不殺生と言う事が、無意識に行われると言う事それによって正念にもなってゆき邪念にもなってゆく。 今日の朝、福井のテレビを見ていたら、無理心中と言うのを取り上げて放送していた。そこで司会者は忘れたけど、丸を書いて説明している。どういう丸を書いていたかと言うと、○を書いてその中にもう一つ○書いて、大きい○の外にもう一つ○を書いて、司会者が心理学者と一緒に自分の思いと言うのを説明していた。 それはどういう事かと言うと、大きい○が世間であると言う事は、仏教の言葉になおすと、それは煩悩と言う事になる。その中に自分の心が大きい○の中にどこかのすみに自分の心、魂と言うのが置かれている。 それから心中、自分で無理に命を断つと言う事は、仏教でいうと肉体が世間から離れて心だけが煩悩の中に入っていると言う事、司会者の説明をもう一辺思い出して見ると、自分が自分で肉体を捨てる。しかし肉体が亡んでも聖八至道の苦を明確に自覚しなければ、この煩悩、(大きい輪の中の煩悩と言う事)心をその煩悩の中にいつまでもおいていて色が肉体が亡くなってもその煩悩をもって離れる事ができない。だから死んでもいなければならない。そお言う事を、テレビで○を書いて説明していたわね。 それはすべて心、四諦と言う、四つの諦めに対して、そして又聖八支道と言うものに対しての自分が無知であったと言う事になる。無明と言うのも又無知と同じようなものである。何もしらなくて自分が照っているもの、煩悩に対して照っているものである。これを消滅させるのにはすべて四諦、八正道と言う心の行によってこれを滅する事が出来る。 言葉も又同じや、正語と言う事。正しく話をする言葉の中には、標準語や又色々な地方によっていろんな方言と言うのが話されている。しかしこの中の方言も正語である。唯、今、日本の標準語に合わせて標準語を話しするだけが正語ではない。今言った正見、そして正思、正しく思う事が正念にもつながるものだから殺生、不殺生と言う邪念にもなると言う事もあり、今話したように正語、正しく語ると言う事は、邪念でもって標準語で正しく語られていてもそれは正語ではなく又そうしたものは心の行にもならない、まだ方言を正念でもって馬鹿や阿呆と言っている方がもっと心が正しい。 何故か。自分の思いの中でこの人を一辺叩いてやろう傷をつけてやろう、又言葉によってその人をいくらでも傷つける事が出来るのや。それは正しい言葉では無い。 自分が心の行、正語と言うのをしっかりと頭の中へ叩き込むと又これを取得する事によって話している言葉そのものが正語である。しかし、邪念で「馬鹿や、阿呆や。」と言えば前に言った様に殺生、不殺生に変り自分がこの人を傷つけてやろうと思ったらすでに不殺生になり、自分が実行する行によって、人間としてそれを実行する事によってそれが殺生に変わる。 だから言葉と言うのは、建前と本音が含まれている。人の前では、にこにこ笑ってあなたの為ならと言っていても自分の腹の中で「この馬鹿たれ」と思ってその人に接しているのではすでに殺生、不殺生を行っていると言う事や。言葉は実際に自分が手をもって下さなくても、建前だけで動いていれば本音以外のもの、馬鹿や阿呆や思い乍ら人の前では「あなたは利口な人やね」と。これも殺生、不殺生に変ってしまう。だから正業、正しい業。人間はすべて煩悩を捨て切る事が出来ない。煩悩を捨て切ってしまえばもう無である。 この世へ出て来て何の行を皆に与えられているかと言うと、「無」になる行を出て来て与えられていると言う事や。無になれば大きい光に向かって進む事も出来るし、永遠の生命、永遠の光が皆にかけて当たる。 業、煩悩の中で自分が生かされているのを正業。業と言うのは、やる事、作す事、見る事、すべて自分が殺生、不殺生につなげよう。又、心の行をするために正しいものにつなげようとしていく、これがすべて正業、わざである。人間はわざを無くしては絶対生活も出来ない、心の行もできない。タバコを飲むのも何をするのも自分のわざである。そのわざの中から心の行、善と悪と言うのを判断をして行く。 正しい命、正命。 先ず一番先に挙げられるのは、自分で自分の命を断つのは正しい命ではない。殺生、不殺生、人に対して行うのも自分の体を労わらず、勿論… 聖八支道の説法をご拝聴することができます。 聖八支道 黄光龍説法 末法の時代・篩の時 宗教と心(霊界1)聖八支道より   ▲先頭に戻る |
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