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仏法と瞑想
仏法と瞑想
般若心経のブラジユニャーと行、十二支縁起を交えて、行、行為、行動についてお話する。人間が取っていくすべての行動、これを思考力、なになにの心、意識、智慧、これを一つにまとめると、人間が取る上のエネルギーに変わってくる。このエネルギーは、その他のもの、不純なもの、清浄なきれいなもの、これらをすべて含めたものをすなわち行動というふうに説いている。また思っている。しかし、これは違う。これは自分のおごりの心である。一般論の捉え方からみて行動とは思考力を持つこと、意識を持つこと、エネルギーを発散させること、欲望を捨てること、これらは全部違う。取る行為、行動というものからずれる。
なぜ、ずれるのかというと、皆さんは仏教、仏法、瞑想を学んでいる。この中で何が大切かというと瞑想である。瞑想、座禅が大切である。これをしない人がいくら仏教の理論を頭の中に全部暗記して説いていたところで、本当の仏法というものが分からない。自分が座って、大宇宙観というところへ自分が一瞬でも突入する。そうしてこそ初めて、理論というものを聞き、仏教というものを学んでいって、悟り、本当の喜びを得ることができる。座らない人は絶対に体験できない。座禅や瞑想のしない人には仏法は絶対に分かったりしない。
仏法は座って初めて分かるものである。一般的なことが分かったところで、自分自身の目一杯の悟りというのが自分で分からない。真実がかたれない、本当の真実は瞑想しなければ分からないということである。瞑想してその次に勉強すればよいことである。自分の分かった範囲で勉強すればよい。私もそうしてやってきた。今までただ座ることに専念してきた。皆様がくるようになったから仏教を学んでお話するようになった。それまでは座って仏法を学んでいた。仏法というものを瞑想しながら学んでいた。ともかく仏法というものは一日座れば座っただけの効果が現われる。二日座れば、仏教をやっている人と違ってより一層、仏法というものが分かってくる。座らなければ絶対に分かることができない。眼を開けていれば全部分かるとおもうと大間違いである。眼を瞑って分かることが仏法である。眼を開けていて分かることは全部知識にしかすぎない、仏教にしかすぎない。眼を瞑っていて分かること、例えば眼を瞑ってりんごが一つ分かればりんごが仏法である。眼を瞑ってマイクが分かればマイクが仏法である。本当の仏法はそこから分かる。それが分からなければ心身脱落という自分の悟りは絶対にできない。宇宙観の中にすべてが突入していくということが全く見られないということである。

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