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怨憎会苦 怨憎会苦というのは何のためにあるかと言うと、悟るためにある。分かるためではない、「自分の教化に当たれ」という意味である。いろいろな経典の中にいろいろな事が書かれているが、これはまず、自分の教化ということが 怨憎会苦の中に含まれている。教化そのものが悟り、智慧と変わっていくということ。この 怨憎会苦は考えるということ。自分の教化。人間そのものの教化、人間そのものの悟りに入らなければならないという意味がこの中に含まれている。どのようにして悟っていくか…。 人間の念・音・心というのは、霊性と別として人と共に行動が取れる。人間自身が行動を取れるという教化にも当たられる。例えば、ここへ話を聞きに来ている。今、私が話をしていることを全て読み取っているかと言えば、読み取っていないということ。今、話をしている中でも必ず霊性でなく人間として違う事を連想するということになる。今、法の話をしているが最初から最後まですみずみまで聞けるということはない。こうして話をしていても、例えば、子供に留守番を頼み「ストーブに気をつけなさい。火事になるから気をつけなさい」と言ってここへ法の話を聞きに来たとする。一生懸命この話を聞いていても、一時はこの話に没頭し聞き入ることが出来る。しかし人間として必ず違う観念を持つということ。霊性が行っているのではなく、人間自身の記憶をいうのは常にそこへ走っているということになる。 常にこの話から全く関係ないものに連想していくし、また、その法の話を聞いていてもそこから前に聞いた話、これから聞こうとする未来に向かっての観想、そういうものが人間の音と心と念になって常に移り変わろうとしているということ。 この怨憎会苦というのは憎しみ、苦しみ、愛とかも全部、含まれている。特にここで強調しなくてならないのは、「家庭の和」ということがこの中に含まれている。なぜ「家庭の和」というのを求めるか。また、なぜ怨憎会苦によって自分を教化するのか。自分を教化すれば必ず人も強化できる。 ここから怨憎会苦の理論が成り立っている。 もう少し分かり易く言うと… 怨憎会苦の説法をご拝聴することができます。 怨憎会苦 黄光龍説法 未来の大予言 仏教と心 怨憎会苦より▲先頭に戻る |
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