名誉勲章受章者-D-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
ジョン・O・ドゥグレン |
伍長 |
1900 |
中国(北京) |
ダニエル"ダン"・J・ダリー |
兵 |
1900 |
中国(北京) |
ダニエル"ダン"・J・ダリー |
一等軍曹 |
1915 |
ハイチ |
アンソニー・P・ダマト |
伍長 |
1944 |
エンゲビ島 |
ジャック・A・ダベンポート |
伍長 |
1951 |
朝鮮 |
レイモンド・G・デービス |
中佐 |
1950 |
朝鮮 |
ロドニー・M・デービス |
軍曹 |
1967 |
ベトナム |
ジェームズ・L・デイ |
少将 |
1998 |
沖縄 |
エミリオ・A・デ・ラ・ガーザJr. |
上等兵 |
1969 |
ベトナム |
ジェファーソン・J・デ・ブランク |
中尉 |
1943 |
ソロモン |
J・ヘンリー・デニグ |
軍曹 |
1864 |
モーガン砦 |
デュアン・E・デウェイ | 伍長 |
1952 |
朝鮮 |
ラルフ・E・ディアス | 一等兵 |
1969 |
ベトナム |
ダグラス・ユージン・ディッキー | 一等兵 |
1967 |
ベトナム |
ジェームズ・ドーハーティ | 兵 |
1872 |
朝鮮 |
ジェイソン・L・ダナム | 伍長 |
2004 |
イラク |
ロバート・H・ダンラップ | 大尉 |
1945 |
硫黄島 |
ジェシー・F・ダイアー | 大尉 |
1914 |
ベラ・クルス |
アクリラ・J・ディース | 中佐 |
1944 |
ナムール諸島 |
受賞者C |
ジョン・O・ドゥグレン伍長
1900年:中国(北京)
海軍分遣隊55号
1872年9月14日 | スウェーデン で生まれる |
感状:
1900年6月20日から7月16日までの中国北京の戦いのさなか、敵を目前にして、ドゥグレンは価値ある行為によって際立っていた。
ダニエル"ダン"・J・ダリー
1900年:中国(北京)
1915年:ハイチ
中国:海軍分遣隊55号「兵」
ハイチ:第15中隊「一等軍曹」
1873年11月11日 | ニューヨーク州ロングアイランドで生まれる |
1899年1月10日 | 海兵隊入隊 |
1900年8月14日 | 中国北京の戦いにより、名誉勲章 |
1902年 | フィリピン暴動鎮圧 |
1914年 | メキシコの戦い従軍 |
1915年10月22日 | ベラ・クルスの戦いにより、名誉勲章 |
1917年11月4日 | 第1次世界大戦従軍(1919年4月21日まで) |
1918年6月5日 | ベローウッドの戦いにおいて、"Come on, you sons of bitches, do you want to live forever?"「くそったれどもついて来い! お前らは伝説になりたくないのか?」が伝説となる。 |
1918年6月10日 | ドイツ軍機関銃陣地単独撃破 |
1929年2月6日 | 一等軍曹にて退役 |
1937年4月28日 | 死去 |
感状:中国(北京)
1900年8月14日、中国北京の戦いのさなか、敵を目前にしてダリーは価値ある行為によって目立った。
感状:ハイチ
1915年10月22日、海兵隊の第15中隊員として、ダリー一等軍曹は六日間の偵察のためにハイチのリバート要塞を出発した中隊の一人だった。
10月24日の夜、暗くなってから、深い峡谷内の川を渡っていた時、要塞から約100ヤードの灌木に隠れ潜んだ約400名のカコにより、三方向から分遣隊は突然銃撃を受けた。
海兵隊分遣隊は、カコたちからの連続した射撃に制圧されていたにもかかわらず、夜の間続く、その良好な地点まで向かう道で戦った。
夜明けに海兵隊は、三つの分隊により、三つの別々の方向に進ませて、四方のカコを驚かせ、散乱させた。
ダリー一等軍曹は、この戦いの最中、かなり不利な状況に対し並外れた勇敢さによって戦った。
アンソニー・P・ダマト伍長
1944年:マーシャル諸島エニウェトク環礁エンゲビ島
第5水陸両用軍団第22海兵連隊第2大隊突撃中隊
1922年3月28日 | ペンシルヴァニア州シェナンドアで生まれる |
1942年1月8日 | 海兵隊入隊 |
1942年5月 | 北アイルランド ロードアイランド派遣 |
1942年11月8日 | 北アフリカ アルジェリア上陸 |
1943年3月 | アメリカへ帰国。6月に太平洋方面へ転属 |
1944年2月20日 | 戦死 |
感状:
1944年2月19-20日の夜、マーシャル諸島エニウェトク環礁の敵日本軍部隊に対する戦闘において、第5水陸両用軍団第22回兵連隊第2大隊の突撃中隊に従事している際、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
地域を掃討するための効率的で、決然とした我々の部隊の努力にもかかわらず、逃走中の日本軍の僅かな狂信的集団による奇襲に非常に攻撃されやすく、危険なほど薄くされた彼の中隊の防衛戦の大きな塹壕内にダマト伍長は二人の戦友と共にいた。
敵の一人が気付かれず塹壕へ接近し、そして手榴弾を投げ込まれると、暗闇の中でダマト伍長は必死に手探りで探した。三人全員に差し迫った危険を認識し、そして自らの行動の結果に十分気付きながら、彼は躊躇うことなく手榴弾に突進し、そして彼の身体が爆発を吸収したため即死したが、彼の二人の仲間の生命は救った。
ダマト伍長の立派な自発性、恐れ知らずの行為、そして勇敢な犠牲的行為は自らと合衆国海軍職務をとても良く反映させた。
彼は彼の生命を勇敢に彼の戦友たちに捧げた。
フランクリン・D・ルーズベルト
ジャック・A・ダベンポート伍長
1951年:朝鮮
第1海兵師団第5海兵連隊第3大隊G中隊
1931年9月7日 | ミズーリ州カンザスシティで生まれる |
1950年7月25日 | 海兵隊入隊 |
1951年9月21日 | 戦死 |
感状:
1951年9月21日早朝、朝鮮ソングナエドンのヴィシンティにおける敵侵略部隊に対する戦闘において第1海兵師団(増強)第5海兵連隊第3大隊G中隊の分隊長として従事している際、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
巧妙に地域に潜入しようと試みる敵軍による徹底的な攻撃中に彼の拠点の防衛をうまく指揮している際、敵の手榴弾が彼が別の海兵隊員と共に占有していた塹壕に落下し、ダベンポート伍長は迅速に行動し、闇の中で巧みに致命的投射物を探り当て、そして自分自身の危険に屈することなく、それによる重傷や確実な死から彼の仲間を救うため、着火したミサイルの上に自らの身体を勇敢に投げた。
彼の冷静で、機知に富んだリーダーシップ、敵の攻撃の首尾良く撃退する要因を与え、そして彼の素晴らしい勇気とほぼ確実な死に直面した際の自己犠牲の立派な精神が、合衆国海軍職務の最高の伝統を支えた。
ダベンポート伍長は、彼の生命を彼の祖国に勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
レイモンド・G・デービス中佐
1950年:朝鮮
第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊長
1915年1月13日 | ジョージア州フィッツジェラルドで生まれる |
1938年6月27日 | 海兵隊少尉 |
1942年8月 | ガダルカナル上陸 |
1943年2月28日 | 少佐昇進 |
1943年10月 | 第1海兵師団第1海兵連隊第1大隊長 |
1944年4月 | グロースター岬上陸 |
1944年9月 | ペリリュー上陸 |
1944年10月 | 中佐昇進 |
1950年8月 | 第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊長(12月まで) |
1950年12月 | 第1海兵師団第7海兵連隊副連隊長(1951/6まで) |
1953年10月 | 大佐昇進 |
1963年7月1日 | 准将昇進 |
1963年10月 | 第3海兵師団副師団長(1964/11まで) |
1966年11月 | 少将昇進 |
1968年5月22日 | 第3海兵師団長(1969/4/14まで) |
1970年7月1日 | 中将昇進 |
1971年3月12日 | 海兵隊副司令官(大将昇進) |
1972年3月31日 | 退役 |
2003年9月3日 | 死去 |
感状:
1950年12月1日から4日までの朝鮮における敵侵略部隊に対する戦闘において、第1海兵師団(増強)第7海兵連隊第1大隊の大隊長として、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
野蛮で決然とした敵による全ての回廊を得るための戦いに対し、苦しい寒さの中、未開の凍り付いた道に沿って8マイルを前進し、そして包囲する敵を突破する作戦を鋭く意識し、デイビス中佐は、包囲され、動けなくなったライフル中隊を救援する勇気ある試みにおける戦いで彼の大隊を導き、フンナンの港への彼らの移動中、数の上で優勢な敵部隊によって分断される危険性のある二つの海兵連隊が唯一利用できるルートを支配できる重要な山道を保持し防衛した。
その大隊が、堅固な敵軍から即座に強い抵抗に遭遇したとき、高地を抜けて前進する命令をし、彼は即座に彼の部隊の先鋒に立ち、壊滅的な銃撃に直面しながら、氷に覆われた急な斜面の上方へ向けての激しい攻撃を行い、そして白兵戦による交戦の中、突撃集団を自分自身で率い、彼らの拠点から敵軍を追い出し、彼の部下を解放し、そして任務を続けるための最良のルートを決定するために敵の砲撃の下、地域を偵察した。
常に戦いの最も激しい場所で、デービス中佐は、敵に対する攻撃を継続しながら、深雪の中で三つの連続した丘へと彼の大隊を先導し、そして、夜間、ずっと彼の部下を絶えず鼓舞し、励ますことで、夜明けまで包囲されたライフル中隊の1500ヤードの地点まで彼の部隊を到達させた。砲弾の破片が彼のヘルメットに当たり、更に二つの弾丸が彼の衣類を貫いて地面に打ち倒したが、彼は立ち上がり、そして彼が孤立した海兵隊員たちにたどり着くまで部下の先頭で彼は道を前進し戦った。
翌朝、彼は、彼の歩行可能な患者と、22名の搬送患者を含め、全ての彼の負傷者を搬送しながら、強固で数において優勢な敵軍部隊から、極めて重要な山道を防衛する際、彼の大隊を勇敢に導いた。
敵による繰り返された獰猛で、激しい攻撃にもかかわらず、師団の二個連隊が重要な地域を通り抜けて配置につくまで堅固に防衛を続け、そして、12月4日の朝、彼の大隊が完全なままハガルリに入るまで導いた。
彼の素晴らしいリーダーシップ、傑出した勇気と光り輝く戦術的才能によってデービス中佐は、包囲されたライフル中隊の全滅から救うことに直接役立ち、そして二個海兵連隊の確実な壊滅を逃れることを可能にした。義務への彼の勇敢な献身とほとんど克服できない可能性に直面しても屈しなかった闘争心は、合衆国海軍職務の最高の伝統を支え、維持した。
ハリー・S・トルーマン
ロドニー・M・デービス軍曹
1967年:ベトナム
第1海兵師団第5海兵連隊第1大隊B中隊
1942年4月7日 | ジョージア州メイコンで生まれる |
1961年8月31日 | 海兵隊入隊 |
1967年9月6日 | 戦死 |
感状:
1967年9月6日、ベトナム共和国クアンナム省における敵軍に対する戦闘で第1海兵師団第5海兵連隊第1大隊B中隊第2小隊の右翼偵察員としての義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
第2小隊の小隊員は、数の上で優勢な北ベトナム軍正規兵の部隊によって釘付けにされた。小隊の残存者は、敵の攻撃の撃退を試みるため、デービス軍曹は彼の部下の銃撃を直接塹壕線に向けさせた。敵手榴弾と激しい小火器と迫撃砲の攻撃を無視し、デービス軍曹は突撃する敵の投げる手榴弾、そして銃撃を受けている中、激励の言葉を部下各々に叫びながら動き続けた。
敵の手榴弾が彼の部下のいる塹壕の中へ落下したとき、デービス軍曹は、状況の重大さを理解し、完全な自己犠牲の最後の勇敢な行動により、自分自身を手榴弾の上に即座に投げ、爆発の恐ろしい衝撃を彼自身の身体によって吸収した。
ほぼ確実な死に直面した際の彼の並外れた自発性と人を鼓舞する勇気によってデービス軍曹は、彼の戦友を生命の損失と負傷から救い、彼の小隊が極めて重要な地点へ付くことを可能にし、そして合衆国海兵隊と合衆国海軍職務の最高の伝統を支えた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
ジェームズ・L・デイ少将
1998年(1945年の活躍による):沖縄
第6海兵師団第22海兵連隊第2大隊
1925年10月5日 | イリノイ州イーストセントルイスで生まれる |
1943年 | 海兵隊入隊 |
1943年 | グアム上陸 |
1945年4月 | 沖縄上陸(伍長) |
1952年9月 | 少尉任官。第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊 |
1954年12月 | 大尉昇進 |
1957年9月 | 沖縄4.2迫撃砲中隊中隊長 |
1962年8月 | 少佐昇進 |
1966年4月 | 第3海兵師団第9海兵連隊第1大隊長としてベトナム |
1967年9月 | 第5海兵師団第28海兵連隊第1大隊長(中佐) |
1968年1月 | 第2歩兵訓練連隊大隊長 |
1972年6月 | IIIMAF第9海兵両用旅団作戦将校 |
1973年11月 | 大佐昇進 |
1976年4月 | 准将昇進 |
1984年7月 | 沖縄キャンプ・バトラー司令(少将) |
1986年12月1日 | 退役 |
1998年1月20日 | 1945年5月14日-17日の功績により、名誉勲章 |
1998年10月28日 | 死去 |
感状:
1945年5月14日から17日にかけて、琉球諸島沖縄の日本軍部隊に対する継続的戦闘作戦において第6海兵師団第22海兵連隊第2大隊所属の分隊長として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
初日にデイ伍長は、彼の分隊と別の部隊の残余を集結し、シュガーローフヒルの最前線の臨界地点前まで彼らを導いた。
その後すぐに、彼らは約40人の日本軍兵士の狂信的な地上戦により、迅速に進められた激しい迫撃砲と砲の集中砲火を浴びせられた。彼の部下の半数の損失にもかかわらず、デイ伍長は、最前線に止まり、激励を叫び、手榴弾を投げ付け、そして、それによって断固とした敵を撃退する致命的な銃撃を指揮した。
6人の増援部隊を受け、彼は三度の激しい夜襲へ分隊を導いたが、更に5人の海兵隊員が殺され、一人が負傷した者を彼は安全な場所まで支援した。すぐ近くの衛生兵の支援の呼び掛けを聞くと、デイ伍長は4人の重傷を負った海兵隊員たちを安全な場所へ一人ずつ安全な場所まで護送するために敵の激しい銃撃に立ち向かった。
デイ伍長は、それから、負傷した海兵隊によって支援された軽機関銃に要員を配置し、そして別の荒れ狂う夜襲を退けた。この激しい戦闘において彼の機関銃は破壊され、そして彼は白燐と破片による多様な負傷を負った。
たった一人の部下から部分的に効果のある支援を受けて、彼は破壊的な小火器の銃撃と共に五回の敵の攻撃を退けることを行える防衛陣地を再編成した。三つに分かれて日本軍兵士は彼の塹壕の数フィート以内に達したが、しかし、デイ伍長によって殺された。
二日目の間、敵は彼の露出した拠点に対する多数の不成功に終わる集団攻撃を行った。すぐに彼らの攻撃が沈静化したとき、少なくとも70名の敵が死んでいるのが、彼の拠点周辺で数えられた。
三日、負傷し、疲れ切ったデイ伍長は敵の私語の攻撃を撃退し、そして約12名の敵を殺害した。
その地点を保持し続け、そして100を越える敵を彼の拠点周辺で殺害したデイ伍長は、彼の戦友の海兵隊員の生命を守り、そして沖縄キャンペーン成功への最初の貢献を作った。彼の並外れた英雄的行為、勇気を繰り返した行動と戦場におけるリーダーシップの神髄によってデイ伍長は遙かに大きな敵軍を破るために彼の数少ない海兵隊員の努力を呼び起こしたことにより、合衆国海兵隊と合衆国海軍職務の最高の伝統を支えた。
ビル・クリントン
エミリオ・A・デ・ラ・ガーザ Jr.上等兵
1967年:ベトナム
第1海兵師団第5海兵連隊第1大隊B中隊
感状:
1949年6月23日 | インディアナ州イーストシカゴで生まれる |
1969年2月4日 | 海兵隊入隊 |
1969年7月1日 | 第3海兵師団第3海兵連隊第2大隊H中隊 |
1969年9月29日 | 第1海兵師団第1海兵連隊第2大隊E中隊 |
1970年4月11日 | 戦死 |
1970年4月11日、ベトナム共和国において第1海兵師団第1海兵連隊第2大隊E中隊の機関銃手として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
夜間待ち伏せ任務から、彼の分隊と共に戻ったデ・ラ・ガーザ上等兵は小さな沼へ向かって逃げている姿を確認された二人の敵兵士の捜索に彼の小隊長と他の海兵隊員と共に加わった。
少し後で、彼は葦と灌木の間に隠れる敵兵士の一人を発見した。三人の海兵隊員が沼から抵抗する兵士を追い出そうと試みたとき、デ・ラ・ガーザ上等兵は彼が手榴弾のピンを引き抜くのを見た。
警告を叫び、デ・ラ・ガーザ上等兵は彼自身を犠牲とすることによって手榴弾の爆風から彼の戦友の生命を救うために他の二人の海兵隊員との間に自らを置いた。
彼の迅速で、果断な動作とほぼ確実無しに直面した際の偉大な個人的勇気によってデ・ラ・ガーザ上等兵は海兵隊と合衆国海軍職務の最も優れた伝統を支え、拡張した。
リチャード・M・ニクソン
ジェファーソン・J・デ・ブランク中尉
1943年:ソロモン諸島コロムバンガラ島
第112海兵戦闘航空隊
1921年2月15日 | ルイジアナ州ロックポートで生まれる |
1941年7月29日 | 海軍予備役 |
1942年5月4日 | 第2海兵航空団司令部大隊 |
1943年1月31日 | コロムバンガラ島上空で5機撃墜後、不時着水 |
1943年6月1日 | 大尉に昇進し、VMF-122に転属 |
1945年5月 | 沖縄上空で9機目を撃墜 |
1945年12月31日 | 予備役 |
1972年7月1日 | 大佐として海兵隊予備役から引退 |
2007年11月22日 | 死去 |
感状:
1943年1月31日、ソロモン諸島コロムバンガラ島に向かう敵日本軍部隊に対する航空作戦中に第112海兵戦闘航空隊6戦闘機編隊の隊長としての義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
日本軍水上艦艇を攻撃するように命令された急降下爆撃機と雷撃機攻撃部隊の直衛としての彼の部隊は離陸し、デブランク中尉は目標地域まで直接、彼の飛行により先導し、14,000フィートで我々の攻撃部隊は水上艦艇を護衛する多数の日本のゼロに遭遇した。
他の戦闘機と共にデブランク中尉は、敵航空機と直ちに交戦し、そして我々の爆撃機を追い出そうという彼らの繰り返される試みを積極的に反撃し、凄まじい戦いが続く間、急降下する航空機を守る彼の努力が辛抱強く、1,000フィートにおいて敵水上機による攻撃下にある急降下爆撃からの支援の要請を受け、彼はゼロとの交戦を捨て、我が方の急降下爆撃機と雷撃機が日本軍の水上機の編隊に突入し、そして猛烈な攻撃を粉砕し、日本軍艦隊への我が方の急降下爆撃機と雷撃機が彼らの仕事をやり遂げ、そして更なる戦いを行うことなく撤退させることを可能にした。
彼の直衛任務は、爆撃機の安全な場所への退却によって果たされたが、デブランク中尉は、燃料が急速に減少しているにもかかわらず、現場に勇敢に残存し、そして、大胆に数に勝る敵水上機へ恐ろしい可能性の戦いで勇敢に戦い、敵軍の航空機のうち、三機を破壊し、そして残りを散り散りにし、繰り返し迫り、そして戦術的優位をつかんだ。
彼の損傷した航空機を基地後方へ動かすための準備が行われ、そして彼がコースをセットしたとき、二機のゼロが後方から迫ってくるのを発見し、彼は上昇した。恐れることなく彼は戦闘を開始し、そして短いが激しく争われた空戦で、彼が敵に占領されたコロムバンガラの木の上で、危険な低高度の脱出をしなければならなかったほど彼の航空機は絶望的な損傷を負ったが、双方のゼロを爆破した。
勇敢な将校、素晴らしいパイロットそして不屈の戦士デブランク中尉が作戦の重要な局面中に決定的な支援を行い、そして反撃を圧倒することに直面した彼の揺らぐことのない忍耐力は最高の名誉を自身にもたらし、素晴らしい栄光を合衆国海軍職務の伝統に加えた。
ハリー・S・トルーマン
J・ヘンリー・デニグ軍曹
1864年:モーガン砦
USSブルックリン海軍分遣隊45号
1838年9月8日 | ペンシルヴァニア州ヨークで生まれる |
1861年6月6日 | 海兵隊入隊 |
1864年9月8日 | 退役 |
1864年12月31日 | 名誉勲章 |
1864年9月8日 | 名誉除隊 |
1876年12月10日 | 死去 |
1864年8月5日、モビール湾における衝角艦テネシーとともに、砲艦そして反乱軍要塞に対する戦闘においUSSブルックリンに乗り込んでいた。
敵の砲撃が艦のデッキをかき回し、彼の船への莫大な損害と船内の多数の人の損失を与えたにもかかわらず、デニグ軍曹は激しい2時間の戦闘を通じて技術と勇気によって彼の砲で戦い、モーガン砦の砲台の破壊と損害を与え、そして反乱軍衝角艦テネシーを奪取する結果をもたらした。
デュアン・E・デウェイ伍長
1952年:朝鮮
第1海兵師団第5海兵連隊第2大隊E中隊
1931年11月16日 | ミシガン州グランドラピッズで生まれる |
1951年3月7日 | 海兵隊予備役 |
1952年4月16日 | 名誉勲章 |
1952年8月19日 | 退役 |
感状:
1952年4月16日、朝鮮板門店近郊の敵侵略部隊に対する戦闘において、第1海兵師団(増強)第5海兵連隊第2大隊E中隊機関銃小隊の機関銃手として従事している間に、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
敵の手榴弾が、この拠点近くに落下したとき、彼と彼の機関銃助手は数で勝る敵軍による激しい夜襲の間に負った彼らの傷の治療を受けていたが、デウェイ伍長は、激しい痛みを感じながらも、衛生兵を地面へ引き倒し、そして彼の周辺にいる他の海兵隊員に大声で警告すると、勇敢にも彼の身体で致命的ミサイルを覆い、自分自身の身体で爆発の衝撃全てを吸収し、致命傷の可能性から彼の戦友たちを救った。
彼の不屈の勇気は、ほぼ確実な死に直面した他者の代表する並外れた自発性と英雄的な努力は最高の名誉をデウェイ伍長にもたらし、そして合衆国海軍職務の最も優れた伝統を支えた。
ドワイト・D・アイゼンハワー
ラルフ・E・ディアス一等兵
1969年:ベトナム
第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊D中隊
1950年7月15日 | ペンシルヴァニア州インディアナで生まれる |
1967年10月9日 | 海兵隊入隊 |
1969年11月12日 | 戦死 |
感状:
1969年11月12日、ベトナム共和国における第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊D中隊のライフルマンとして従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
敵の銃撃によって釘付けにされた即応部隊の一員として、小隊の同じ状況を支援している間、ディアス一等兵は双方の部隊が死傷者を出していることに気が付くと、敵軍の銃撃の主力である敵の機関銃陣地に対する積極的な攻撃を開始した。開けた地域を横断して、突撃する間に敵の狙撃兵により重傷を負い、彼はすぐ側の岩の影に隠れた。次の時間に敵の銃撃に立ち向かいディアス一等兵は再び負傷した。
歩くことができず、彼は彼の目標近くに位置する岩の影まで15メートルを這うと、繰り返し、自身を激しい敵の銃撃にさらし、機関銃陣地へ向け、幾つかの手榴弾を投げたが失敗した。機関銃陣地を破壊するために決然と止まり、ディアス一等兵は再び我が身をさらし、そして狙撃手の銃撃によって三度目の傷を負った。
彼が最後の手榴弾を一方の拠点へ投げて破壊したとき、彼は別の敵の弾によって致命傷を負っていた。
ディアス一等兵の不屈の勇気、積極的な自発性そして義務への無私無欲の献身は合衆国海兵隊と合衆国海軍職務の最高の伝統を支えた。
彼は、彼の祖国の職務に彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
ダグラス・E・ディッキー一等兵
1967年:ベトナム
第3海兵師団第4海兵連隊第1大隊C中隊
1946年12月24日 | オハイオ州グリーンビルで生まれる |
1965年12月13日 | 海兵隊予備役 |
1966年4月11日 | 海兵隊入隊 |
1967年3月26日 | 戦死 |
感状:
1967年3月26日、ベトナム共和国の第3海兵師団第4海兵連隊第1大隊C中隊第2小隊員として従事している間に義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
ビーコンヒルI作戦に参加中の第2小隊は濃密なジャングルの中でベトコンと激しい接近戦を行っていた。
ディッキー一等兵は、この激戦において、負傷して医療衛生兵による治療を受けている通信手と交替するために進み出た。突然、敵の手榴弾が、負傷して動けない通信手を含む海兵隊員のグループの中に落下した。
最終的な勇気ある行動により、ディッキー一等兵は彼の行動の確実な結果を十分理解しながら、素早くそして躊躇うことなく、彼自身の身体で爆発の十分そして完全な力を吸収するため、致命的な手榴弾の上へ自らを投げ出した。
ディッキー一等兵の個人的勇気、並外れた勇敢そして無私無欲の大胆さは自らの生命を犠牲にし、確実な負傷と死の可能性から、多くの彼の戦友を救った。彼の行動は、最高の名誉を自身、合衆国海兵隊そして合衆国海軍職務にもたらした。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
ジェームズ・ドーハーティ兵
1872年:朝鮮
USSキャロンデレット海軍分遣隊169号
1839年11月16日 | アイルランド ランハッシュで生まれる |
1869年7月31日 | 海兵隊入隊 |
1872年2月8日 | 名誉勲章 |
1893年8月22日 | 退役 |
1897年11月25日 | 死去 |
感状:
その船の様々な戦いにおいてUSSキャロンドエレットに搭乗していた。数回負傷したドーティは、変わることなく職務に戻り、旗への忠誠と不変の見本を示した。
ジェイソン・L・ダナム伍長
2004年:イラク
第1海兵師団第7海兵連隊第3大隊K中隊
1981年11月10日 | ニューヨーク州サイオで生まれる |
2004年4月14日 | シリア国境付近で投げられた手榴弾におおいかぶさり、重傷 |
2004年4月22日 | 収容先の病院で死亡 |
2006年11月10日 | 名誉勲章 |
感状:
2004年4月14日、第1海兵師団(増強)連隊戦闘チーム7第7海兵連隊(増強)第3大隊K中退第4小隊ライフル分隊長として従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立って勇敢な行為と大胆さによる。
ダナム伍長の分隊はイラク、カラビラの町において偵察任務を行っていた、そのとき、彼らは約2キロメートル西でロケット推進擲弾と小火器の銃撃が噴出するのを耳にした。
ダナム伍長は、それがキャンプ・ハッサイバへ移動している時に待ち伏せられた、彼らの大隊指揮官のコンボイへ彼の合同対装甲チームを率いて向かい、火力支援を提供するために交戦した。
ダナム伍長と彼の海兵隊員が前進したとき、彼らはすぐさま敵の銃撃を受け始めた。
ダナム伍長は彼の分隊に彼らの車両から降りるように命令し、そして待ち伏せられたコンボイの数ブロック南に徒歩で彼の射撃班の一つを導いた。
発進しようとしている7台のイラク人車両の車列を発見したダナム伍長と彼のチームはそれらが武器を持っていないか調べるために車両を停止させた。
彼らが車両に接近したとき、反乱者は躍り出るとダナム伍長に襲い掛かった。
ダナム伍長は地面に反乱者を組み伏せ、そして、なおもあがく反乱者が手榴弾を放すのを見た。
ダナム伍長は即座に彼の海兵隊員仲間に脅威を警告した。
差し迫った危険を意識し、そして躊躇うことなくダナム伍長は彼のヘルメットと身体で手榴弾を覆い、爆発の矢面に立って爆風から彼の海兵隊員たちを保護した。
彼が致命傷を負った究極の、そして勇敢な献身的行為において、彼は少なくとも2人の海兵隊仲間の生命を救った。
彼の怯むことのない勇気、大胆不敵な闘争心、そして任務への揺るぎない忠誠によって、ダナム伍長は彼の祖国のために彼の生命を勇敢に捧げ、それによって彼自身に最高の名誉をもたらし、そして海兵隊と合衆国海軍職務の崇高な伝統を鼓舞した。
ロバート・H・ダンラップ大尉
1945年:硫黄島
第5海兵師団第26海兵連隊第1大隊C中隊長
1920年10月19日 | イリノイ州アビンドンで生まれる |
1942年3月5日 | 海兵隊予備役 |
1942年7月7日 | 少尉任官 |
1942年11月23日 | 第3空挺大隊 |
1944年3月 | 第5海兵師団第26海兵連隊第3大隊G中隊機関銃小隊長 |
1944年10月2日 | 同第1大隊C中隊長(大尉昇進) |
1945年2月20日 | 名誉勲章 |
1945年2月26日 | 腰に被弾。 |
1946年4月20日 | 退院 |
1946年12月1日 | 少佐にて退役 |
2000年3月24日 | 死去 |
感状:
1945年2月20日及び21日、火山列島硫黄島の攻略の間、敵日本軍部隊に対する戦闘において第5海兵師団代26海兵連隊第1大隊C中隊長としての義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
日本軍の絶え間ない大砲、迫撃砲、ライフルそして機関銃の砲撃の絶え間ない爆風をものともせずにダンラップ大尉は、彼の前線まで高い位置にある洞窟からの敵銃撃の凄まじい量に彼の前進を一時的に停止させられてから着実に少しずつ前進しつつ、彼の兵隊たちを榴弾と銃弾の壊滅的な雨を敵が注ぐ険しい崖に向かって低地から坂の上へ決然とした前進で導いた。
屈服しない決意も固く、彼は彼の前線の約200ヤード前方まで単独で匍匐し、日本軍前線から50ヤードの崖の陣地を注意深く観察を行い、敵の機関銃陣地の配置を確認し、支援砲撃と艦砲射撃に極めて重要な情報を彼は伝え、彼自身の前線へと戻った。
繰り返し、彼個人の安全を無視し、彼はより正確な支援砲撃を指揮するために彼自身をむき出しの絶好の位置に置き、そして絶え間ない敵の銃撃下、二日二晩の間、休むことなく働き、多数の障害と厳しい海兵隊員の死傷者にもかかわらず、ほぼ難攻不落の日本軍陣地に対し、破壊的な砲爆撃を巧みに指揮した。
輝かしいリーダーのダンラップ大尉は、戦闘の重大な局面における英雄的努力によって彼の部下を鼓舞し、そして熱狂的敵対者に直面しての彼の冷静な決断力、不屈の闘争心と大胆な戦術により、彼の地域と彼の中隊の間断無い前進を実質的に進め、日本軍を追い詰め、最後には決定的な敗北を大いに加速した。
彼の偉大な個人的勇気と苦い戦争行為を通じての自己犠牲の雄々しき精神はダンラップ大尉と合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
ハリー・S・トルーマン
ジョス・F・ダイアー大尉
1914年:ベラ・クルス
海軍分遣隊177号
1877年12月2日 | ミネソタ州セント・ポールで生まれる |
1898年 | 第13ミネソタ歩兵として米西戦争に従軍 |
1903年 | 海兵隊少尉任官 |
1914年4月21日 | 名誉勲章 |
1937年 | 大佐にて退役 |
1942年 | 准将昇進 |
1955年3月31日 | 死去 |
感状:
1914年4月21日及び22日におけるベラ・クルスの交戦における顕著な行為による。双方の日の戦闘で、彼は中隊の先頭に立ち、そして技術と勇気によって彼の部下を導き、彼の戦闘において卓越し、そして際立っていた。
アクリラ・J・ディース中佐
1944年:マーシャル諸島クウェジェリン環礁ナムール島
第4海兵師団第24海兵連隊第1大隊長
1909年1月11日 | ジョージア州アンダーソンヴィルで生まれる |
1931年 | 陸軍予備役少尉 |
1932年 | クレムソン大学にて建築学士号 |
1936年11月 | 海兵隊予備役中尉 |
1937年 | ナショナルマッチ出場の海兵隊ライフルチームの一員として銅メダル |
1944年2月2日 | 戦死 |
感状:
1944年2月1日及び2日、マーシャル諸島クウェジェリン環礁ナムール島の襲撃中、敵日本軍部隊に対する戦闘において第4海兵師団第24海兵連隊第1大隊の指揮官として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
日本軍の自動火器からの容赦ない銃撃を恐れず、ディース中佐は襲撃の二日目に躊躇することない姿勢で彼自身を目標の確保のために敵前戦の間におき、接近する道と自らの先導で兵士たちを前進させ、強力な最終攻撃を行った。油断無く、そして決然と攻撃のペースを速めたことに対し、激しくなる敵の銃撃に、彼は常に前進する部隊の先頭に立ち、彼の部下たちを日本軍の抵抗の中心部に後退させ追い詰めるまで突き進むように奮い立たせた。最後の敵陣地に対する側面攻撃中に歩兵の集団を指揮し、対戦車壕の塹壕上に立ち上がったとき、ディース中佐は敵の機関銃の掃射によって殺害された。
彼の大胆で力強いリーダーシップ、そして恐ろしい抵抗に直面しての彼の雄々しい闘争心は合衆国海軍職務の最高の伝統を支えた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
フランクリン・D・ルーズベルト
受賞者C-3 |