名誉勲章受章者-C-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
ウィリアム・R・キャディ |
一等兵 |
1945 |
硫黄島 |
ヘクター・A・カフェラタ Jr. |
二等兵 |
1950 |
朝鮮 |
ジョン・L・キャンリー | 一等軍曹 |
1968 |
ベトナム |
アルバート・R・キャンベル |
兵 |
1900 |
中国 |
ダニエル・キャンベル |
兵 |
1899 |
キューバ |
ジョージ・H・キャノン |
中尉 |
1941 |
ミッドウェー |
ウィリアム・L・カー |
兵 |
1900 |
中国 |
ブルース・W・カーター |
一等兵 |
1969 |
ベトナム |
ウィリアム・カーペンター | 伍長 |
2014 |
アフガニスタン |
アンソニー・ケースメント |
伍長 |
1980 |
ガダルカナル |
アルバータス・W・キャトリン |
少佐 |
1914 |
ベラ・クルス |
ジャスティス・M・チャンバース | 中佐 |
1945 |
硫黄島 |
デビット・B・シャンペン | 伍長 |
1952 |
朝鮮 |
スタンリー・R・クリステンソン | 一等兵 |
1950 |
朝鮮 |
レイモンド・M・クロウセン | 一等兵 |
1970 |
ベトナム |
ロナルド・L・コッカー | 一等兵 |
1968 |
ベトナム |
ダレル・S・コール | 軍曹 |
1945 |
硫黄島 |
ジョン・コールマン | 兵 |
1871 |
朝鮮 |
ヘンリー・A・コミスキー Jr. | 少尉 |
1950 |
朝鮮 |
ジェームズ・コーニー | 兵 |
1900 |
中国 |
ピーター・S・コナー | 二等軍曹 |
1966 |
ベトナム |
ドナルド・G・クック | 大佐 |
1980 |
ベトナム |
ヘンリー・A・コートニー | 少佐 |
1945 |
沖縄 |
トーマス・E・クリーク | 上等兵 |
1969 |
ベトナム |
ルイス・クケラ | 軍曹 |
1918 |
ベローウッド |
受賞者B |
ウィリアム・R・キャディ一等兵
1945年:硫黄島
第5海兵師団第26海兵連隊第3大隊I中隊
1925年8月8日 | マサチューセッツ州クインシーで生まれる |
1943年10月27日 | 海兵隊入隊 |
1945年3月3日 | 戦死 |
感状:
1945年3月3日、火山島群硫黄島の奪取の間、敵日本軍部隊に対する戦闘で、第5海兵師団第26海兵連隊第3大隊I中隊所属の小銃兵として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
常に攻撃的なキャディ一等兵は、 孤立した作戦地区を貫く彼の中隊の決然とした前進中に、大胆に粉砕しようとする日本軍機関銃と小火器の銃撃をものともせずに彼の小隊長と他の海兵隊員とともに前進を続け、そして比較的安全な砲弾痕に得ると、彼の戦友たちとともに一時的な掩護を手に入れた。
すぐに巧みに偽装した地点からの狙撃手の致命的な射撃によって即座に釘付けにされ、彼は再び前進しようと何度か試みて失敗し、彼の小隊長と合流した時、日本軍の手榴弾が砲弾痕に落下するまで、敵と手榴弾の激しい投げ合いに専念した。
全ての個人的危機を大胆にも無視して、キャディ一等兵は、致命傷から他者を守るため、彼自身の身体によって爆発による攻撃を吸収するべく、致命的ミサイルの上に自らを躊躇せずに投げ出した。
勇敢で不屈な彼は、彼自身の生命によって彼の仲間の海兵隊員が狂信的な敵に対する厳しい戦いに挑む決意をもたらした。
確実な死に直面した際、自己犠牲の英雄的精神と恐れを知らない勇敢さは最高の名誉をキャディ一等兵と合衆国海軍職務にもたらした。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
ヘクター・A・カフェラタ Jr.二等兵
1950年:朝鮮
第1海兵師団第7海兵連隊第2大隊F中隊
1929年11月4日 | マサチューセッツ州クインシーで生まれる |
1948年2月15日 | 海兵隊予備役 |
1950年9月6日 | 海兵隊入隊 |
1950年11月28日 | 名誉勲章 |
1951年9月1日 | 一等兵にて退役 |
感状:
1950年11月28日の朝鮮で敵侵略者に対する戦闘において、第1海兵師団第7海兵連隊第2大隊F中隊所属の小銃兵として、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
彼の射撃チームの他の全ての隊員が死傷者になった時、前線の間隙が生じ、彼の中隊の丘拠点に対する連隊規模の狂信的な敵によって初期段階中に危険な攻撃が始まり、その攻撃が勢いを増して、敵が間隙を経て突破する恐れがあり、防御地帯全体の完全性を危険にさらしたので、カフェッテラ二等兵は、手榴弾とライフル射撃による孤独な戦いを行った。
自動火器、ライフル、手榴弾そして迫撃砲による破壊的な銃撃の中で自ら目標を作り、彼は前線を上下に巧みに動き、突進する部隊に対して正確で攻撃な銃撃を送り込み、15人を殺害し、更にその他多数を負傷させ、その増援部隊が到着し、そして拠点を強化する。
再び、再開された猛攻撃の翌朝、必死に戦いながら、敵手榴弾が負傷した海兵隊員が占有する浅い塹壕へ落下すると、カフェッテラ二等兵は激しい砲火の下、溝の中へ入ると彼は右手で致命的な飛び道具を握りしめると、彼の戦友たちのいない方へ投げつける前に、それは爆発し、腕そして右手において彼に重傷を負わせ、一本の指の一部を切断した。
激しい苦痛を勇敢に無視し、彼が狙撃兵の弾丸によって撃たれて、治療のために搬出を強要されるまで彼はしっかりと戦い続けた。
勇敢、そして不屈のカフェッテラ二等兵は、彼の不屈の精神、死に直面した彼の素晴らしい個人的勇気と不屈の忍耐は、彼の戦友の海兵隊員のうち、幾人かの命を救い、そして、恐るべき可能性に対してその防衛上の陣地を維持する際、主に彼の中隊によって達成された成功を提供する。
彼の並はずれた英雄的行為は、合衆国海軍職務の最高の伝統を支えた。
ハリー・S・トルーマン
ジョン・L・キャンリー一等軍曹
1968年:ベトナム
第1海兵師団第1海兵連隊第1大隊A中隊
1936年4月6日 | アーカンソー州カレドニアで生まれる |
1953年12月3日 | 海兵隊入隊 |
1965年-1970年 | ベトナムで複数回従事する |
1981年10月23日 | 曹長にて退役 |
2018年10月17日 | 名誉勲章 |
感状:
ベトナム共和国で1968年1月31日から2月6日にかけて第1海兵師団第1海兵連隊第1大隊A中隊中隊付一等軍曹として従事している際、敵に対する戦闘における義務の要求を遙かに超え、彼の生命の危険を犯した際立った勇ましく大胆不敵さによる。A中隊は敵部隊によって包囲された友軍を解放するため、フエ市に向かって幹線道路に沿って迅速に移動中、複数の猛烈な攻撃を退けた。これらの交戦で負傷したにもかかわらずキャンリー一等軍曹は掃射を受ける地帯を何度も突進して横断し、彼の負傷した海兵隊員たちの安全な場所へ運んだ。彼の指揮官が重傷を負った後、キャンリー一等軍曹は指揮権を引き継ぎ、フエ市へと中隊を導いた。
フエ市で、敵機関銃陣地から致命的な十字砲火に捕捉され、彼は火力拠点を準備すると、側面攻撃を小隊と共に巧みに移動し、彼はそれらの幾つかの敵陣位置を排除した。三日間、彼は中隊の指揮を維持し、安全な場所へ負傷した海兵隊員たちを運ぶために普段通りの勇敢さで敵銃火へ立ち向かう間、複数の要塞化された敵陣地に対する攻撃を指揮した。
2月4日、彼はフエ市の敵に占拠されたビルの中へ海兵隊のグループを導いた。彼は銃撃を引き付けるために開けた場所へと移動し、敵の位置を突き止めると脅威を排除し、ビルの部屋から部屋へと中隊で掌握していった。キャンリー一等軍曹は、それから敵の防衛拠点より上の陣地を確保すると大きな梱包爆薬を落とし、敵に撤退することを強いた。2月6日、病院構内の激しい銃撃戦の間、キャンリー一等軍曹は負傷した海兵隊員たちを安全な場所に運ぶために敵から丸見えの壁を二度もよじ登った。
彼のくじけることのない勇気、献身的な犠牲心、そして、義務への不動の忠誠によってキャンリー一等軍曹は彼自身に偉大な名声をもたらし、海兵隊と合衆国海軍職務の最高の伝統を守った。
ドナルド・トランプ
アルバート・R・キャンベル兵
1900年:中国(天津)
海軍分遣隊55号
1875年4月8日 | ペンシルバニア州ウィリアムズポートで生まれる |
1900年6月21日、中国天津における戦闘によって。天津における前進中、彼の行為によって彼自身をキャンベルは目立った。
ダニエル・キャンベル兵
1899年:キューバ
海軍分遣隊521号
1874年10月26日 | カナダ プリンスエドワード島で生まれる(12月説有り) |
1896年8月28日 | 海兵隊入隊 |
1899年8月7日 | 名誉勲章 |
1901年10月12日 | 名誉除隊 |
1955年4月28日 | 死去 |
USSマーブルヘッドに乗船している間、1898年5月11日、キューバシエンフエゴスから引かれたケーブルを切断する作戦の際、、敵の激しい銃撃の下、並外れた勇敢と冷静さによる。
ジョージ・H・キャノン中尉
1942年:ミッドウェー
第6防衛大隊
1915年11月5日 | ミズーリ州ウェブスター・グローブスで生まれる |
1938年6月25日 | キャルバー陸軍士官学校にて機械工学学士号取得 陸軍少尉の任官を辞退し、海兵隊少尉に志願 |
1941年9月7日 | ミッドウェー島に配属 |
1941年12月7日 | 戦死 |
1943年5月25日 | 駆逐艦ルテナン・キャノン進水 |
感状:
1941年12月7日の日本軍部隊により、ミッドウェー諸島サンドの爆撃中、彼自身の状態を無視し、彼の職務の前線において優れた行為、途方もない勇気による。
合衆国海兵隊艦隊海兵軍第6防衛大隊H砲兵中隊の砲兵指揮官キャノン中尉は、敵砲撃によって重傷を負ったとき、彼の指揮所にいた。
彼は、同じ砲弾によって負傷した部下が避難し終えるまで、彼の持ち場から離れることを拒絶し、そして力ずくで引き離されるまで彼の指揮所の再編成を指示し、彼自身の状態に対し、全く無関心であったため、彼は出血によって死んだ。
フランクリン・D・ルーズベルト
ウィリアム・L・カー兵
1900年:中国(北京)
海軍分遣隊55号
1875年4月1日 | マサチューセッツ州ピーボディで生まれる |
感状:
1900年7月21日から8月17日までの中国北京の敵前における優れた行為による。
ブルース・W・カーター一等兵
1969年:ベトナム
第3海兵師団第3海兵連隊第2大隊H中隊
1950年5月7日 | ニューヨーク州スケネクタディで生まれる |
1968年6月 | 海兵隊入隊 |
1969年8月7日 | 戦死 |
感状:
ベトナム共和国内の敵に対する戦争作戦中に参加中、第3海兵師団第3海兵連隊第2大隊H中隊所属の擲弾手として、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1969年8月7日にカーター一等兵たちの部隊は、アイダホキャニオン作戦において敵に対する作戦行動中に数で優勢な敵部隊から大量の銃撃下におかれた。斥候班は、すぐに掃射によって分隊本隊から分離された状態になった。
カーター一等兵と彼の戦友の海兵隊員は危険な十字砲火によって釘付けにされた際、彼自身の安全に関し、完璧に無視した彼は、北ベトナム陸軍兵士の前に、壊滅的な量の銃撃を彼らの拠点へ送るために立った。彼の攻撃の正確さと攻撃性は目何人かの敵を死傷させ、残った部隊の兵士に近接地帯から撤退することを強要した。
彼の周囲の海兵隊員に大声で言ってから、カーター一等兵は急速に近づいてくる掃射の通り道から彼らを導き始めたとき、彼と彼の仲間たちの間に敵軍の手榴弾が落下するのを見た。彼の行動のほぼ確実な結果に十分気づきながら、しかし、彼に従う人を守るために決然と、彼は動揺することなく手榴弾の上に身を投げ出し、彼自身の体によって、その爆発の衝撃全てを吸収した。
カーター一等兵の持つ不屈の勇気、感激させる自発性と義務への無私無欲の献身は、合衆国海兵隊と合衆国海軍職務の最高の伝統を支えた。
彼は、彼の祖国の職務に彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
ウィリアム・カーペンター伍長
2010年:アフガニスタン
第9海兵連隊第2大隊F中隊
1989年10月17日 | ミシシッピー州フローウッドで産まれる |
2009年2月 | 海兵隊入隊 |
2010年 | 第1海兵師団連隊戦闘チーム1第9海兵連隊第2大隊F中隊分隊支援火器手(上等兵) |
2013年7月 | 戦傷による病気除隊 |
2014年6月19日 | 2010年11月21日の戦闘における勇敢な行動により名誉勲章 |
感状:
2010年11月21日、不朽の自由作戦の支援におけるアフガニスタンヘルマンド省において、第1海兵遠征軍(前進)第1海兵師団(前進)連隊戦闘チーム1第9海兵連隊第2大隊F中隊所属の自動火器手として従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
カーペンター上等兵はアフガニスタン国防軍分隊と組み合わされた二つの増強された海兵分隊からなる小隊規模の連合部隊の一員だった。小隊は敵の活動を粉砕し、地元のアフガニスタン住民の安全を守るためにマジャフ地区の小村にあるダコタパトロール基地に二日早く赴任した。
カーペンター上等兵と仲間の海兵隊員たちはダコタ哨戒基地防御線の屋上防衛陣地に配置されていたとき、敵が手榴弾を含めた昼間攻撃を仕掛け、その一つが彼らの土嚢陣地内に落下した。カーペンター上等兵は、致命的な爆発から彼の仲間の海兵隊員を守ろうと躊躇うことなく彼自身の安全を全く無視し、手榴弾へ向かって移動した。手榴弾が爆発したとき、彼の身体は爆風の矢面に立って吸収し、彼に重傷を負わせたが、彼の仲間の海兵隊員の生命を救った。
彼のほぼ確実な死に直面した際の義務への揺るぎない勇気、確固たる闘争心、そして不動の献身によって、カーペンター上等兵は彼自身に偉大な名誉をもたらし、海兵隊と合衆国海軍職務のの崇高な伝統を高め、そして支えた。
バラク・B・オバマ
アンソニー・ケースメント伍長
1980年(1942年の活躍による):ガダルカナル
第1海兵師団第5海兵連隊第1大隊D中隊
1920年11月16日 | ニューヨーク州マンハッタンで生まれる |
1940年8月19日 | 海兵隊入隊 |
1942年11月1日 | ガダルカナルで部隊が全滅した中、単独で戦闘を継続 |
1964年 | 上記の英雄的行為の目撃者2名が確認され、認定作業開始 |
1980年9月12日 | 名誉勲章授与 |
1987年7月27日 | 死去 |
感状:
1942年11月1日の敵日本軍部隊に対する戦闘中、英国領ソロモン諸島ガダルカナルにおける第1海兵師団第5海兵連隊第1大隊D 中隊の一員として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
機関銃班リーダーとして務めていたケースメント伍長は、彼らが敵に占領されたマタニカウ川近辺の丘に沿って前進するように彼の班に指示した。彼は彼の班の位置から、二つの側面部隊の班に援護射撃を送り、そして遅れていた彼の中隊主力を直接支援を行うために班を配置した。
この交戦の行為中、彼の班の全ての班員は殺害されるか、重傷を負い、彼自身も多数の深手を負った。それにもかかわらず、ケースメント伍長は、攻撃と彼の拠点を守るために効果的な支援射撃を送り続けた。全ての実働人員が失われた後に続き、彼は設置し、装填し、そして彼の班の機関銃を動かし、入り江に敵軍を追いつめた。
ケースメント伍長は、独力で交戦し、彼の正面の機関銃陣地の一つと側面上から銃撃を受けている他の機関銃陣地を破壊した。
交戦の激しい獰猛さにもかかわらず、彼は一人彼自身の武器によって敵部隊による集団突撃を何度も跳ね返し続けたことによって、彼の主力攻撃部隊の到着までずっと彼の拠点を保持し、近隣の中隊の側面を守り続けた。
ケースメント伍長の勇敢な闘争心、英雄的行為と義務への揺らぐことのない献身は、大きな名誉を自身にもたらし、合衆国海兵隊と合衆国海軍職務の最も高い伝統を支えた。
ジミー・カーター
アルバータス・W・キャトリン少佐
1914年:ベラ・クルス
海軍分遣隊177号
1868年12月1日 | ニューヨーク州ローマで生まれる |
1892年7月1日 | 海兵隊入隊(少尉任官) |
1911年 | 第1海兵連隊の大隊長 |
1914年 | 第3海兵連隊長 |
1917年10月 | 第6海兵連隊長としてフランスへ派遣 |
1918年6月6日 | ベローウッドで狙撃され負傷 |
1918年8月30日 | 准将昇進 |
1918年11月 | 第1海兵旅団長(-1919/12) |
1919年12月 | 退役 |
1933年5月31日 | 死去 |
感状:
1914年4月22日、ベラ・クルスの接敵した戦いにおいて顕著な行為による。彼の大隊の指揮は、卓越し、顕著だった。彼は22日の戦いにおいて、彼の部下を導く際と都市の最終占領において勇気と技術を示した。
ジャスティス・M・チャンバース中佐
1945年:硫黄島
第4海兵師団第25海兵連隊第3大隊長
1908年2月2日 | ウェストバージニア州ハンティングトンで生まれる |
1930年 | 海軍予備役 |
1932年 | 海兵隊予備役 |
1940年 | 少佐任官 |
1945年2月19日 | 硫黄島に上陸(-22日、負傷により後送) |
1946年1月1日 | 海兵隊予備役 |
1950年11月1日 | 大佐にて退役後、上院軍事委員会アドヴァイザー |
1982年7月29日 | 死去 |
感状:
1945年2月19日から22日まで火山列島硫黄島上の敵日本軍部隊に対する戦闘において、第4海兵師団第25海兵連隊第3突撃大隊上陸チーム指揮官として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
右手の見晴らしのよい断崖から、敵の機関銃と小火器の銃撃による激しい集中攻撃の下、チャンバース大佐(当時中佐)は、辛辣な日本軍砲兵、迫撃砲、ロケット、機関銃そしてライフルの射撃による襲撃の脅威に多数の死傷者を生じたことをD-Dayにおける彼の大隊の強襲上陸波第一波の直後に上陸して発見した。
直後に続く波の岸へ向かう水陸両用艇にも同様に、難攻不落の高地から注ぐ、敵の銃撃の量はますます増加し、敵軍の情け容赦ない砲撃にさらされ、彼は冷静に戦いに疲れた彼の部下を再編成し、彼自身の勇気と指導によって彼らを英雄的奮闘に鼓舞し、彼らを重要拠点に対する攻撃に導いた。
敵による獰猛な抵抗に対して押し進め、絶えず最前線で彼の部下を励まし、チェンバース大佐は照準を敵の領域に定め、側面の丘頂上を制圧するための8時間の戦いを導き、このようにして得た極めて重要な橋頭堡を防衛した。
止むことのない敵軍の銃撃の中、戦闘地域全ての連隊戦闘チームを調査する間、彼は隣接する部隊との接触を維持し、そして極めて重要な情報を連隊長へ送った。
彼の重要な将校たちの大多数を失い、恐ろしい死傷者たちにもかかわらず、彼の熱心な闘争心は衰えず、彼は、再び敵の主防衛戦に対する新たな攻撃のために部隊を再編成し、そして彼が重傷を負って倒れたときにはロケット小隊の砲撃を指示していた。
激しい日本軍の砲火の下に避難させられたチェンバース大佐の力強いリーダーシップ、驚異的可能性に直面した際の勇気と不屈の精神は、硫黄島で第5水陸両用軍が次の作戦の成功を確かなものにするのに直接の助けとなり、それによって合衆国海軍職務の最も優れた伝統を高め、そして支えた。
ハリー・S・トルーマン
デビット・B・シャンペン伍長
1952年:朝鮮
第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊A中隊
1932年11月13日 | ロードアイランド州ウェーキフィールドで生まれる |
1951年3月7日 | 海兵隊入隊 |
1952年5月28日 | 戦死 |
感状:
1952年5月28日、朝鮮における敵侵略軍に対する戦闘において、第1海兵師団(増強)第7海兵連隊第1大隊A中隊の射撃チームリーダーとして義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
堅固に防御を固め、強固に守られた丘拠点に対する中隊の最初の攻撃において彼は小隊とともに前進し、シャンペン伍長が激しい敵の機関銃、小火器そして擲弾によるまさにあられのような銃撃をくぐり抜け、巧みに彼の射撃チームを先導し、防御地点へ彼の人を落ち着かせ丘の頂上に達する前に、塹壕と一連のほぼ難攻不落の掩蔽壕拠点を突破した。
迫撃砲と大砲の砲撃の殺意のあるあられの援護の下で開始された次の敵軍の反撃を撃退するのを負傷した足の激痛に苦しみながら支援する間、彼は撤退を断固として拒絶し、恐れずに射撃チームを指揮し続けた。
敵の反撃が強さを増したとき、敵軍の手榴弾が射撃チームの中程に落下するとシャンペン伍長は躊躇うことなく、致命的ミサイルを握り締め、そしてそれを近づく敵目掛けて投げ付けた。彼の手から手榴弾が離れなかったので、それは爆発し、彼の手を吹き飛ばし、そして塹壕から彼を投げ出した。
この露出した拠点において敵の迫撃砲火に致命傷を負ったシャンペン伍長のほぼ確実な死に直面しての自己犠牲による彼の勇敢なリーダーシップ、不屈の精神そして勇ましい精神は間違いなく彼の戦友の海兵隊員のうちの何人かの命を救った。彼の英雄的行為は彼を見た全員を鼓舞し、そして最高の名誉を自らと合衆国海軍職務にもたらすのに役だった。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
ドワイト・D・アイゼンハワー
スタンリー・R・クリステンソン一等兵
1952年:朝鮮
第1海兵師団第1海兵連隊第2大隊E中隊
1925年1月24日 | ウィスコンシン州ミンドロで生まれる |
1942年10月2日 | 海兵隊入隊 |
1943年11月 | タラワ上陸 |
1944年6月 | サイパン及びティニアン上陸 |
1945年4月 | 沖縄上陸 |
1945年12月 | 退役 |
1946年3月 | 再志願後、パリスアイランド訓練教官 |
1950年8月 | 第1海兵師団とともに朝鮮半島へ派遣 |
1950年9月18日 | 仁川上陸後の戦いにより、青銅星章授与 |
1950年9月29日 | 戦死 |
感状:
1950年9月29日の朝早い時間、韓国ソウル132高地における敵侵略部隊に対して、第1海兵師団(増強)第1海兵連隊第2大隊E中隊の一員として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
敵が攻撃を開始したとき、小隊地域への接近を援護する幾つかの聴音哨の人員の一人のクリステンソン一等兵は小隊の残りに警報を出すために他の海兵隊員に迅速に送った。
命令の無いまま、彼は彼の拠点へとどまり、そして彼が脱出する僅かな機会を持っているだろうと十分に知っていたため、ライフル、自動火器と焼夷手榴弾で、猛烈な攻撃を行い接近する敵軍兵士を容赦なく撃った。
彼の拠点が彼自身が致命傷を負って倒れ、そして突破されるまでに彼のすぐ側では7人の敵が死んでいるのを数え、クリステンソン一等兵は彼の素晴らしい度胸、義務に対する英雄的な闘争心と忠誠心により、小隊員の残余を拠点につかせる時間を与えその側面に更に強い防衛線を増強し、そして41名の敵を壊滅させ、更に多くの負傷者と3名の捕虜を得て、攻撃を撃退する要因となった。
かなり不利な状況に直面した際の彼の献身的な活躍は、合衆国海軍職務の最も優れた伝統を維持し、高めた。
クリステンソン一等兵は、彼の生命を彼の祖国に勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
レイモンド・M・クロウセン一等兵
1970年:ベトナム
第1海兵航空団MAG16HMM263
1947年10月14日 | ルイジアナ州ニューオリンズで生まれる |
1966年3月30日 | 海兵隊予備役 |
1966年5月27日 | 海兵隊入隊 |
1967年4月 | 基礎ヘリコプターコース完了。MAG26へ配属 |
1967年12月 | 第1海兵航空集団第36司令部及び整備航空隊 |
1969年11月 | HMM263配属 |
1970年1月31日 | 名誉勲章 |
1970年8月19日 | 退役 |
2004年5月30日 | 死去 |
感状:
1970年1月31日、ベトナム共和国内の敵部隊に対する作戦中、第1海兵航空集団第16海兵航空集団第263海兵中型ヘリコプター航空隊の一員として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
敵の拠点を攻撃中、地雷敷設区域に不注意に踏み込んだ小隊の分隊を救出するためにヘリコプター救援作戦に参加していたクロウセン一等兵は幾つかの地雷の爆発の一つによってクリアになった地域への着陸でヘリコプターパイロットを巧みに誘導した。
11人の海兵隊員が負傷し、1人が死亡、そして他の地雷を爆発させないように地点で動けなくなった8人の海兵隊員、クロウセン一等兵は、敵の砲火にさらされる中、ヘリコプターから素早く飛び降りると、彼らを運び込むことを支援するために極めて危険な地雷原を横断すると死傷者を待機するヘリコプターへ運び込んだ。
更なる地雷の爆発が常に存在する驚異にもかかわらず、彼は彼の英雄的努力を続け、彼の救助活動を行うため、6度、ヘリコプターの比較的安全な地域から離れた。
彼が負傷者の一人を運んでいたとき、別の地雷が爆発し、衛生兵を殺し、他の三人を負傷させた。彼が海兵隊員の全員を無事に乗せたことを確認すると彼はヘリコプターを上昇させるようにパイロットへ合図した。
最大の危機に直面した彼の勇敢で、決然と、そして人を感動させる努力によってクロウセン一等兵は合衆国海兵隊の、そして合衆国海軍職務の最も高い伝統を支えた。
リチャード・ニクソン
ロナルド・L・コッカー一等兵
1969年:ベトナム
第3海兵師団第3海兵連隊第3大隊M中隊
1947年8月9日 | ネブラスカ州アリアンスで生まれる |
1968年4月16日 | 海兵隊入隊 |
1969年3月24日 | 戦死 |
感状:
ベトナム共和国内の敵部隊に対する戦闘に際し、第3海兵師団第3海兵連隊第3大隊M中隊所属のライフルマンとして従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1969年3月25日に、第2小隊の斥候として貢献中、コッカー一等兵は彼のパトロールを先導中に細いジャングルの道で彼は5人の敵兵士たちと遭遇した。即座に反応した彼は、彼のM16ライフルにより、敵兵士の一人を負傷させ、そして後続の海兵隊員に警告した。
敵が引いたとき、コッカー一等兵の分隊は、洞窟へ積極的に彼らを追跡した。その分隊が洞窟に接近した際、それは強烈な敵軍の銃撃下にさらされ、海兵隊員の一人に致命傷を負わせ、そして避難するようにその他を強制させた。負傷者が連続する敵の銃火にさらされた状態にあるのを見て、コッカー一等兵は自らの安全を顧みず、そして彼の仲間へ掃射されている地形を横断して移動した。
敵の小火器の銃撃によって負傷したが、彼は断固として危険な地帯を横断して這い続け、その後、手榴弾を敵の拠点へ巧みに投げ込み、敵軍の十分な銃撃を抑圧し、彼が負傷者まで到達することを可能にした。敵の殺戮地帯の外へ負傷した戦友を彼が引きずり始めたとき、敵の手榴弾が負傷した海兵隊員へ落下した。
躊躇うことなく、コッカー一等兵は両手で手榴弾をつかむと彼の負傷した仲間から離れるために転がったが、彼が手榴弾を処理する前にそれは爆発した。致命傷を負ったが、怯まずに彼は彼の戦友を見捨てることを拒絶した。彼が味方の前線の方へ進むと、更に二つの敵手榴弾が彼の近くで爆発し、更に傷を負わせた。
彼の戦友の安全にのみ執着し、コッカー一等兵は最高の努力によって這うことを試み、そして彼とともに負傷した海兵隊員を引き続けた。
彼の英雄的行為に影響を受けた彼の仲間の海兵隊員は北ベトナム軍の銃撃を十分に抑制させたほど非常に激しく戦い、彼が後に自分の広範囲に渡る傷に屈服した場所まで他の者が彼に到達し、そして彼を比較的安全な場所へ運ぶことを可能にした。
コッカー一等兵の不屈の勇気、感動させる自発性そして義務への無私無欲の献身は合衆国海兵隊と合衆国海軍職務の最高の伝統を支えた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・ニクソン
ダレル・S・コール軍曹
1945年:硫黄島
第4海兵師団第23海兵連隊第1大隊B中隊
1920年7月20日 | ミズーリ州フラットリバーで生まれる |
1941年8月25日 | 海兵隊予備役(野戦音楽学校) |
1942年8月7日 | ガダルカナル上陸(第1海兵師団第1海兵連隊第2大隊H中隊) |
1943年2月2日 | 機関銃手としての転属願いが、「ラッパ手が足りないため」と不認可となりビューグルを手にアメリカへ帰還 |
1943年3月 | 第4海兵師団第23海兵連隊第1大隊へ転属。再度、機関銃手を志願するも、再度、却下。 |
1944年1月31日 | ロイ・ナムル島上陸。ビューグルを捨て、機関銃手として戦う。 |
1944年6月15日 | サイパンに上陸。なぜか、機関銃手として、最愛の機関銃を手に活躍、ブロンズスター授与 |
1944年8月 | 再々度、機関銃手を志願し、ついに認可。伍長昇進 |
1945年1月 | 軍曹昇進 |
1945年2月19日 | 戦死 |
感状:
1945年2月19日、火山島群硫黄島における襲撃中、敵日本軍部隊に対する戦闘に置いて第4海兵師団第23海兵連隊第1大隊B中隊機関銃班班長としての義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
最初の突撃波の彼の部隊の一つの分隊とと共に彼は前進中、膨大な量の小火器、迫撃砲そして大砲の凄まじい射撃によって激しく攻撃され、コール軍曹は、飛来する榴散弾がカーテンのように覆っているにもかかわらず、彼の部下を第1飛行場へ向けて傾斜している砂浜の情報へ大胆に導き、そして、彼の部隊の前進の驚異である二つの敵軍砲座を手榴弾によって彼自身によって破壊するものの、前進は三つの日本軍掩蔽壕から発した容赦無い集中砲火によって引き続き、前進は停止させられた。
即座に、戦闘中の彼の機関銃の一つを置き、彼は粉砕するための一斉射撃を送り、そして彼の武器がジャムを起こす前に敵の最も近く、最も驚異的な砲座を沈黙させることに成功した。
抜け目なく戦況を測り、そして反撃の大胆な計画を練ると、ただ拳銃と一個の手榴弾によって武装したコール軍曹は、敵掩蔽壕に単独で慎重に前進した。
迅速に彼は手榴弾を急襲をかけて敵へ投げ付け、彼は素早く後退すると、追加の手榴弾のため彼自身のラインへ戻り、そして再度前進して攻撃し、後退した。
敵の砲がまだ活動しているため、彼は最後の突撃において防御する守備隊の全滅と日本軍の強固な地点の全滅を達成するため、三度目の容赦の無い銃撃の搾線を走った。
彼が自分の分隊に戻ったとき、すぐに敵の手榴弾によって殺されたが、コール軍曹は、それによって彼の彼の中隊が残った要塞化された恐ろしい日本軍拠点を強襲して除去し、前進を続けて目的を果たすことを可能にした。
彼の勇敢な先導力による戦闘の危険な時期の間の不動の勇気と不屈の決意によってコール軍曹は彼の戦友に感銘を与え、ほぼ確実な死に直面した際の彼の雄々しいリーダーシップは合衆国海軍職務の最高の伝統を支え高めた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
ジョン・コールマン兵
1871年:朝鮮
USSコロラド海軍分遣隊169号
1847年10月9日 | アイルランドで生まれる |
1870年1月26日 | 海兵隊入隊 |
1872年2月8日 | 名誉勲章 |
1893年8月31日 | 退役 |
1904年10月30日 | 死去 |
感状:
1871年6月11日の朝鮮における戦闘中、USSコロラドに乗り組んでいた。敵と接近戦をしていたコールマンはアレクサンダー・マッケンジーの生命を救うことに成功した。
ヘンリー・A・コミスキー Jr.少尉
1950年:朝鮮
第1海兵師団第1海兵連隊第1大隊C中隊
1927年1月10日 | ミシシッピー州ハッティズバーグで生まれる |
1944年1月12日 | 海兵隊入隊 |
1945年2月 | 硫黄島にて負傷 |
1945年 | パリスアイランド訓練教官(二等軍曹) |
1949年9月10日 | 少尉任官 |
1950年9月20日 | 名誉勲章 |
1951年6月 | 中尉昇進 |
1951年9月 | パイロット資格取得 |
1953年7月 | 大尉昇進 |
1954年4月 | 第1海兵航空群MAG12 |
1954年12月 | 第1海兵師団S-3 |
1966年8月 | 少佐にて退役 |
1971年8月15日 | ミシシッピーにて死去 |
※父親は、第1次世界大戦時機関銃訓練教官。兄弟の一人は第187空挺連隊曹長として朝鮮に従軍。もう一人は海兵強襲隊員。 |
感状:
1950年9月20日、朝鮮永登浦近郊の敵侵略部隊に対する戦闘において第1海兵師団(増強)第1海兵連隊第1大隊C中隊小隊長として義務の要求を遙かに越えた義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
85高地の巧妙に塹壕を掘った敵軍部隊を攻撃するように命令され、コミスキー中尉(当時少尉)は走りながら、急勾配を突撃する攻撃の先頭に立った。冷静に激しい敵の機関銃と小火器による銃撃を無視して、彼は自分の小隊の残りの前進と共に突入し、そして目的の頂上へ到達した最初の人となった。
拳銃だけを装備した彼は、5人の敵兵士によって占有された敵の機関銃陣地へ飛び込み、そして自動拳銃によって4人の敵兵士を素早く排除した。5人目とつかみあい、コミスキー中尉は相手を地面に叩きのめし、そして彼が自分の小隊の別の一員から武器を受け取るまで、相手を押さえつけ、そして最後の敵の銃手を殺した。
彼は大胆な突撃を続け、彼は次の砲座まで移動し、敵2名以上を殺害、その後、目標の占領へ英雄的努力へ彼の中隊の部下を奮起させ、雄々しいリーダーシップ、勇敢な闘争心を持って彼の小隊を先導し、残りを丘の後方の峰へと敗退させ、そして最高の名誉をコミスキー中尉と合衆国海軍職務にもたらす。
ハリー・S・トルーマン
ジェームズ・コーニー兵
1900年:中国(天津)
海軍分遣隊55号
1860年7月27日 | アイルランド リメリックで生まれる |
感状:
1900年7月13日、中国天津近郊の戦闘中、敵の目前にしてコーニーは、価値ある行為によって彼自身を目立たせた。
ピーター・S・コナー二等軍曹
1966年:ベトナム
第3海兵師団第3海兵連隊第2大隊F中隊
1932年9月4日 | ニュージャージー州オレンジで生まれる |
1952年2月25日 | 海兵隊入隊 |
1952年8月 | 第1海兵師団第5海兵連隊第1大隊B中隊第3小隊射撃班長及び通信手 |
1953年4月 | 伍長昇進 |
1953年10月 | 第2海兵師団第8海兵連隊第1大隊B中隊分隊長 |
1955年2月4日 | 海兵隊予備役 |
1961年5月 | 現役復帰及び軍曹昇進 |
1965年5月1日 | 第3海兵師団第3海兵連隊第2大隊F中隊二等軍曹 |
1966年2月5日 | 戦闘中に負傷 |
1966年3月8日 | USSリポーズで死亡 |
感状:
1966年2月25日のベトナム共和国クアンガイ省において、艦隊海兵軍第3海兵師団(増強)第3海兵連隊第2大隊F中隊第3小隊の小隊軍曹として従事していた際、義務の要求を遙かに超えて自らの生命を危険にさらし、敵ベトコン部隊に対する戦闘で顕著な勇気と大胆さを示した。
彼の小隊を、広い洞窟とトンネルの複合体によって極めて危険な地域におけるサーチ&デストロイ作戦を先導し、コナー軍曹は断続した敵の小火器による銃撃の下に部隊を積極的に前進させた。
特別な油断のなさと鋭い観察力を示して、彼は、彼の前面15メートルの偽装したたこつぼ銃座に注目した。彼は、破砕手榴弾からピンを引き抜くと、その深さにミサイルを落とすために躊躇うことなく穴へ突進しようとした。
ピンを引き抜くと彼は点火装置に欠陥があり、そして彼が本来の場所の安全装置を固く握ったときには、既にヒューズに着火していたことに気づいた。
決意を固める僅かな時間に、彼は、更に彼が偽装されたたこつぼの小さな隙間へたどりつくための距離をつめる十分な時間が無く、そしてどの方向へ致命的な爆弾を投げても彼の近くで戦術的に配置についている数人の彼の戦友が死或いは負傷するだろうことを認識した。
明らかに途方もない勇気と彼自身の安全を全く考慮せずに、彼は恐ろしい爆発を吸収するために、手榴弾に自らの身体を押しつけて、彼の戦友を救うことを決意した。彼は致命傷を負ったが、事実上、確実な死に直面し、極端な勇気と無私の彼の行動は、多数の彼の仲間の海兵隊員を死と負傷から救った。
自由のために彼の生命を捧げた彼の勇敢な行為は、最高の名誉を合衆国海兵隊と合衆国海軍職務にもたらした。
リンドン・B・ジョンソン
ドナルド・G・クック大佐
1980年:ベトナム
1934年8月9日 | ニューヨーク州ブルックリンで生まれる |
1957年4月1日 | 少尉任官 |
1958年10月1日 | 中尉昇進 |
1962年3月1日 | 大尉昇進 |
1964年12月 | 南ベトナム海兵隊軍事顧問 |
1964年12月31日 | ベトコンに捕らえられる(-1967年12月8日) |
1980年5月16日 | 名誉勲章 |
感状:
1964年12月31日から1967年12月8日までの帰還、ベトナム共和国においてベトコンの戦争捕虜として抑留されている間、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
自らの行動が、自身に更に厳しい処置をもたらすことを知っていたにもかかわらず、クック大佐(当時大尉)は、例え、実際に彼がそうでなかったとしても古参の捕虜として認められた。
他の戦争捕虜の健康状態を改善させる目的で、何度も肉体労働の彼の割り当て以上を引き受け、クック大佐は進んで、そして利己的にならないよう彼自らの幸福そして結局彼の生命を彼自身の戦友たちの前に喜んで差し出した。
彼らを絶えず看護している間に、彼の医療と薬の割り当てを更に貧窮の部下に与え、彼は休息に健康状態が悪化している間、伝染病から感染する危険を冒した。この利己的ではない模範的行為は、管理規則から僅かにそれることへの彼の拒絶とともに、彼の仲間の捕虜たちばかりか、一方では彼の捕獲者たちからも深い尊敬を彼にもたらした。
彼が自らの解放、あるいは更に良い待遇について交渉するより、むしろ彼は、ベトコンが彼の不屈の志気をくじくための試みをしっかりと挫折させ、そして彼が自らを非常に密接に結びつけた部下の幸福へ貫く決意を通した。
彼は拒絶することが彼の終戦前の解放を妨げるであろうことを知りながら、そしてまた、長期の生存のための彼のチャンスが拒否し続ける場合には小さくなるだろうことを知り、彼は、それでもなお、より予期していた以上の管理規則に固執することに決めた。
彼のほぼ確実な死に直面した際の個人的勇気と並外れて誠実な精神は最高の名誉をクック大佐と合衆国海兵隊そして合衆国海軍職務にもたらした。
ジミー・カーター
ヘンリー・A・コートニー少佐
1945年:沖縄
第6海兵師団第22海兵連隊第2大隊
1916年1月6日 | ミネソタ州ダルースで生まれる |
1940年2月 | 海兵隊予備役 |
1941年 | アイスランド上陸 |
1942年8月7日 | ガダルカナル上陸 |
1945年5月15日 | 戦死 |
※沖縄キャンプ・コートニーは、この方の名前に由来します。 |
感状:
1945年5月14日及び15日における琉球諸島沖縄本島での敵日本軍部隊に対する戦闘中、第6海兵師団第22海兵連隊第3大隊の副大隊長として、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
長期の銃撃戦における彼のコマンドの前方の一団を先導した後のシュガーローフ高地背後の困難な防衛にその夜はつくように命令され、コートニー少佐は差し迫った海兵隊の攻撃の戦術上の価値に対する敵軍の夜間の反撃の効果を比較検討し、攻撃を開始することを決意し、そして丘の前面の斜面を前進し、迅速に占領する許可を獲得した。
状況を彼の小規模の残留部隊に素早く説明し、彼は前進するという自らの意図を宣言し、その後、洞窟近くの拠点を大胆に爆破し、そして彼の行為によって敵の砲を無力化した。
彼の勇気によって鼓舞され、全ての部下が躊躇することなく後続し、そして共に勇敢な海兵隊員は丘の右翼を囲み、そして反対側の斜面に達するために日本軍の恐ろしい集中砲火に立ち向かった。一時的に停止したコートニー少佐は、後方へ更に多くの弾薬と可能な交代要員のためにガイドを送った。
26人の隊員と手榴弾を積んだLVTによる増援部隊を受けた後に、彼は丘の頂上を強襲して突破することにより十分な勢いをつけ、全ての反撃計画を粉砕することを決意した。コマンドからなるよりも、選抜された彼の部下を先導し、彼は破壊的な効果と共に斜面上の洞窟開口部へ手榴弾を投げ込み、彼は激しく攻め立てることを押し進めた。
頂上に着き、そして100ヤード未満の離れた場所で多数の日本軍が戦闘のために集結するのを見ると、彼は即座に攻撃し、激しい戦闘により、敵の多数を殺害し、そして洞窟内へ残りを押し込むことに成功した。占領を決意し、彼は自分の部下に塹壕を掘るように命令し、彼は疲労した部隊を集結し、飛来する敵の榴散弾が浴びせられ続けるのを冷静に無視し、死傷者をたゆむことなく救い、そして更に有利な地点に彼の部下を割り当てた。
彼の部下の間を移動中に、炸裂した迫撃砲弾によって瞬時に殺されたが、コートニー少佐は彼の軍人としての機敏な洞察力、かなり不利な状況に直面した際の不屈のリーダーシップ、そして断固たる行動は、主に沖縄キャンペーンの成功に貢献し、彼の個人的勇気は合衆国海軍職務の最高の伝統を維持し、拡張させた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
トーマス・E・クリーク上等兵
1969年:ベトナム
第3海兵師団第9海兵連隊第3大隊I中隊
1950年4月7日 | ミズーリ州ジョブリンで生まれる |
1968年1月16日 | 海兵隊入隊 |
1968年6月 | 第1海兵師団第27海兵連隊第2大隊E中隊 |
1968年9月 | 第3海兵師団第9海兵連隊第3大隊I中隊 |
1969年2月13日 | 戦死 |
感状:
ベトナム共和国の敵部隊に対する戦闘において第3海兵師団第9海兵連隊第3大隊I中隊ライフルマンとして従事している際、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1969年2月13日、クリーク上等兵の分隊は、ヴァンデグリフト前線基地の再補給のために移動中のコンボイが、敵コマンドの爆発させた地雷によって車両の一つが破壊されたためにコンボイをカムロー再定住村の近くに停止させた。
すぐさま、海兵隊員たちは巧みに偽装した北ベトナム陸軍部隊からの激しい小火器の銃撃を伴う敵迫撃砲砲火を大量に浴びせられた。敵との交戦のために彼の分隊が迅速に配置についたとき、クリーク上等兵は戦闘配置へ素早く移動し、そして銃撃戦の中、攻撃的に交戦した。
彼が敵軍に対して銃撃を更に効果的に行える位置を観察し、彼が掃射されている地形を恐れずに突進して横断し、そして敵の砲火によって重傷を負ったが、彼は自らの安全を完全に無視した。それと同時に、彼が北ベトナム軍の破砕手榴弾が彼が落ちた溝に投げ込まれ、彼と数人の仲間たちの間へ落下した。
彼の行動の避けられない結果を十分に理解し、クリーク上等兵は勇敢にも手榴弾の上に転がり、そして自らの身体によって爆発の十分な力を吸収したことによって彼の仲間の海兵隊員5人の命を救った。
彼の英雄的行為の結果、彼の仲間は北ベトナム軍が敗北し、そしてそのコンボイが極めて重要な任務を継続することができたほど攻撃的戦闘に駆り立てた。
勇気を呼び起こすクリーク上等兵の不屈の勇気と義務への無私無欲の献身は合衆国海兵隊とアメリカ海運職務の最も高い伝統を支えた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
ルイス・クケラ軍曹
1918年:フランス
第5海兵連隊第66中隊
1888年5月1日 | オーストリア セベニス(現クロアチア シベニク)で生まれる |
1913年 | アメリカに移住 |
1914年9月21日 | アメリカ陸軍入隊 |
1916年6月12日 | 伍長にて退役 |
1917年1月31日 | 海兵隊入隊 |
1918年7月18日 | 陸軍及び海軍名誉勲章授与 |
1918年9月26日 | 野戦任官で少尉 |
1919年7月17日 | 中尉昇進 |
1921年9月15日 | 大尉昇進 |
1940年6月30日 | 海兵隊予備役編入と同時に少佐昇進 |
1940年7月30日 | 現役復帰 |
1946年5月17日 | 退役 |
1956年8月10日 | 死去 |
感状:
1918年7月18日に合衆国海兵隊第5海兵連隊第66中隊名誉勲章(陸軍)受賞者ルイス・クケラ軍曹は、森を抜けて前進する彼の中隊が、敵の堅固な地点からの強い抵抗に遭遇し、クケラ軍曹は彼の戦友の警告を無視し、そして激しい銃火の中、ドイツ軍前線側面に這って回り込んだ。
彼は、敵の拠点の背後へ回り込むことに成功し、機関銃陣地に突入し、機関銃要員を銃剣で殺し、或いは追い出した。4人の捕虜と損傷した2挺の機関銃を獲得した彼は、ドイツの手榴弾が爆発するまで孤立した陣地に止まり続けた。
受賞者B-3 |