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名誉勲章受章者-C-

氏名
受賞時階級
受賞年
戦地
ジャスティス・M・チャンバース
中佐
1945
硫黄島
デビット・B・シャンペン
伍長
1952
朝鮮
スタンリー・R・クリステンソン
一等兵
1950
朝鮮
レイモンド・M・クロウセン
一等兵
1970
ベトナム
ロナルド・L・コッカー
一等兵
1968
ベトナム
ダレル・S・コール
軍曹
1945
硫黄島
ジョン・コールマン
1871
朝鮮
ヘンリー・A・コミスキー Jr.
少尉
1950
朝鮮
ジェームズ・コーニー
1900
中国
ピーター・S・コナー
二等軍曹
1966
ベトナム
受賞者C-1

ジャスティス・M・チャンバース中佐

ジャスティス・M・チャンバース中佐

1945年:硫黄島

第4海兵師団第25海兵連隊第3大隊長

1908年2月2日 ウェストバージニア州ハンティングトンで生まれる
1930年 海軍予備役
1932年 海兵隊予備役
1940年 少佐任官
1945年2月19日 硫黄島に上陸(-22日、負傷により後送)
1946年1月1日 海兵隊予備役
1950年11月1日 大佐にて退役後、上院軍事委員会アドヴァイザー
1982年7月29日 死去

感状:

 1945年2月19日から22日まで火山列島硫黄島上の敵日本軍部隊に対する戦闘において、第4海兵師団第25海兵連隊第3突撃大隊上陸チーム指揮官として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。

 右手の見晴らしのよい断崖から、敵の機関銃と小火器の銃撃による激しい集中攻撃の下、チャンバース大佐(当時中佐)は、辛辣な日本軍砲兵、迫撃砲、ロケット、機関銃そしてライフルの射撃による襲撃の脅威に多数の死傷者を生じたことをD-Dayにおける彼の大隊の強襲上陸波第一波の直後に上陸して発見した。

 直後に続く波の岸へ向かう水陸両用艇にも同様に、難攻不落の高地から注ぐ、敵の銃撃の量はますます増加し、敵軍の情け容赦ない砲撃にさらされ、彼は冷静に戦いに疲れた彼の部下を再編成し、彼自身の勇気と指導によって彼らを英雄的奮闘に鼓舞し、彼らを重要拠点に対する攻撃に導いた。

 敵による獰猛な抵抗に対して押し進め、絶えず最前線で彼の部下を励まし、チェンバース大佐は照準を敵の領域に定め、側面の丘頂上を制圧するための8時間の戦いを導き、このようにして得た極めて重要な橋頭堡を防衛した。

 止むことのない敵軍の銃撃の中、戦闘地域全ての連隊戦闘チームを調査する間、彼は隣接する部隊との接触を維持し、そして極めて重要な情報を連隊長へ送った。

 彼の重要な将校たちの大多数を失い、恐ろしい死傷者たちにもかかわらず、彼の熱心な闘争心は衰えず、彼は、再び敵の主防衛戦に対する新たな攻撃のために部隊を再編成し、そして彼が重傷を負って倒れたときにはロケット小隊の砲撃を指示していた。

 激しい日本軍の砲火の下に避難させられたチェンバース大佐の力強いリーダーシップ、驚異的可能性に直面した際の勇気と不屈の精神は、硫黄島で第5水陸両用軍が次の作戦の成功を確かなものにするのに直接の助けとなり、それによって合衆国海軍職務の最も優れた伝統を高め、そして支えた。

ハリー・S・トルーマン

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デビット・B・シャンペン伍長

デビット・B・シャンペン伍長

1952年:朝鮮

第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊A中隊

1932年11月13日 ロードアイランド州ウェーキフィールドで生まれる
1951年3月7日 海兵隊入隊
1952年5月28日 戦死

感状:

 1952年5月28日、朝鮮における敵侵略軍に対する戦闘において、第1海兵師団(増強)第7海兵連隊第1大隊A中隊の射撃チームリーダーとして義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。

 堅固に防御を固め、強固に守られた丘拠点に対する中隊の最初の攻撃において彼は小隊とともに前進し、シャンペン伍長が激しい敵の機関銃、小火器そして擲弾によるまさにあられのような銃撃をくぐり抜け、巧みに彼の射撃チームを先導し、防御地点へ彼の人を落ち着かせ丘の頂上に達する前に、塹壕と一連のほぼ難攻不落の掩蔽壕拠点を突破した。

 迫撃砲と大砲の砲撃の殺意のあるあられの援護の下で開始された次の敵軍の反撃を撃退するのを負傷した足の激痛に苦しみながら支援する間、彼は撤退を断固として拒絶し、恐れずに射撃チームを指揮し続けた。

 敵の反撃が強さを増したとき、敵軍の手榴弾が射撃チームの中程に落下するとシャンペン伍長は躊躇うことなく、致命的ミサイルを握り締め、そしてそれを近づく敵目掛けて投げ付けた。彼の手から手榴弾が離れなかったので、それは爆発し、彼の手を吹き飛ばし、そして塹壕から彼を投げ出した。

 この露出した拠点において敵の迫撃砲火に致命傷を負ったシャンペン伍長のほぼ確実な死に直面しての自己犠牲による彼の勇敢なリーダーシップ、不屈の精神そして勇ましい精神は間違いなく彼の戦友の海兵隊員のうちの何人かの命を救った。彼の英雄的行為は彼を見た全員を鼓舞し、そして最高の名誉を自らと合衆国海軍職務にもたらすのに役だった。

 彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。

ドワイト・D・アイゼンハワー

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スタンリー・R・クリステンソン一等兵

スタンリー・R・クリステンソン一等兵

1952年:朝鮮

第1海兵師団第1海兵連隊第2大隊E中隊

1925年1月24日 ウィスコンシン州ミンドロで生まれる
1942年10月2日 海兵隊入隊
1943年11月 タラワ上陸
1944年6月 サイパン及びティニアン上陸
1945年4月 沖縄上陸
1945年12月 退役
1946年3月 再志願後、パリスアイランド訓練教官
1950年8月 第1海兵師団とともに朝鮮半島へ派遣
1950年9月18日 仁川上陸後の戦いにより、青銅星章授与
1950年9月29日 戦死

感状:

 1950年9月29日の朝早い時間、韓国ソウル132高地における敵侵略部隊に対して、第1海兵師団(増強)第1海兵連隊第2大隊E中隊の一員として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。

 敵が攻撃を開始したとき、小隊地域への接近を援護する幾つかの聴音哨の人員の一人のクリステンソン一等兵は小隊の残りに警報を出すために他の海兵隊員に迅速に送った。

 命令の無いまま、彼は彼の拠点へとどまり、そして彼が脱出する僅かな機会を持っているだろうと十分に知っていたため、ライフル、自動火器と焼夷手榴弾で、猛烈な攻撃を行い接近する敵軍兵士を容赦なく撃った。

 彼の拠点が彼自身が致命傷を負って倒れ、そして突破されるまでに彼のすぐ側では7人の敵が死んでいるのを数え、クリステンソン一等兵は彼の素晴らしい度胸、義務に対する英雄的な闘争心と忠誠心により、小隊員の残余を拠点につかせる時間を与えその側面に更に強い防衛線を増強し、そして41名の敵を壊滅させ、更に多くの負傷者と3名の捕虜を得て、攻撃を撃退する要因となった。

 かなり不利な状況に直面した際の彼の献身的な活躍は、合衆国海軍職務の最も優れた伝統を維持し、高めた。

 クリステンソン一等兵は、彼の生命を彼の祖国に勇敢に捧げた。

ハリー・S・トルーマン

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レイモンド・M・クロウセン一等兵

レイモンド・M・クロウセン一等兵

1970年:ベトナム

第1海兵航空団MAG16HMM263

1947年10月14日 ルイジアナ州ニューオリンズで生まれる
1966年3月30日 海兵隊予備役
1966年5月27日 海兵隊入隊
1967年4月 基礎ヘリコプターコース完了。MAG26へ配属
1967年12月 第1海兵航空集団第36司令部及び整備航空隊
1969年11月 HMM263配属
1970年1月31日 名誉勲章
1970年8月19日 退役
2004年5月30日 死去

感状:

 1970年1月31日、ベトナム共和国内の敵部隊に対する作戦中、第1海兵航空集団第16海兵航空集団第263海兵中型ヘリコプター航空隊の一員として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。

 敵の拠点を攻撃中、地雷敷設区域に不注意に踏み込んだ小隊の分隊を救出するためにヘリコプター救援作戦に参加していたクロウセン一等兵は幾つかの地雷の爆発の一つによってクリアになった地域への着陸でヘリコプターパイロットを巧みに誘導した。

 11人の海兵隊員が負傷し、1人が死亡、そして他の地雷を爆発させないように地点で動けなくなった8人の海兵隊員、クロウセン一等兵は、敵の砲火にさらされる中、ヘリコプターから素早く飛び降りると、彼らを運び込むことを支援するために極めて危険な地雷原を横断すると死傷者を待機するヘリコプターへ運び込んだ。

 更なる地雷の爆発が常に存在する驚異にもかかわらず、彼は彼の英雄的努力を続け、彼の救助活動を行うため、6度、ヘリコプターの比較的安全な地域から離れた。

 彼が負傷者の一人を運んでいたとき、別の地雷が爆発し、衛生兵を殺し、他の三人を負傷させた。彼が海兵隊員の全員を無事に乗せたことを確認すると彼はヘリコプターを上昇させるようにパイロットへ合図した。

 最大の危機に直面した彼の勇敢で、決然と、そして人を感動させる努力によってクロウセン一等兵は合衆国海兵隊の、そして合衆国海軍職務の最も高い伝統を支えた。

リチャード・ニクソン

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ロナルド・L・コッカー一等兵

ロナルド・L・コッカー一等兵

1969年:ベトナム

第3海兵師団第3海兵連隊第3大隊M中隊

1947年8月9日 ネブラスカ州アリアンスで生まれる
1968年4月16日 海兵隊入隊
1969年3月24日 戦死

感状:

 ベトナム共和国内の敵部隊に対する戦闘に際し、第3海兵師団第3海兵連隊第3大隊M中隊所属のライフルマンとして従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。

 1969年3月25日に、第2小隊の斥候として貢献中、コッカー一等兵は彼のパトロールを先導中に細いジャングルの道で彼は5人の敵兵士たちと遭遇した。即座に反応した彼は、彼のM16ライフルにより、敵兵士の一人を負傷させ、そして後続の海兵隊員に警告した。

 敵が引いたとき、コッカー一等兵の分隊は、洞窟へ積極的に彼らを追跡した。その分隊が洞窟に接近した際、それは強烈な敵軍の銃撃下にさらされ、海兵隊員の一人に致命傷を負わせ、そして避難するようにその他を強制させた。負傷者が連続する敵の銃火にさらされた状態にあるのを見て、コッカー一等兵は自らの安全を顧みず、そして彼の仲間へ掃射されている地形を横断して移動した。

敵の小火器の銃撃によって負傷したが、彼は断固として危険な地帯を横断して這い続け、その後、手榴弾を敵の拠点へ巧みに投げ込み、敵軍の十分な銃撃を抑圧し、彼が負傷者まで到達することを可能にした。敵の殺戮地帯の外へ負傷した戦友を彼が引きずり始めたとき、敵の手榴弾が負傷した海兵隊員へ落下した。

 躊躇うことなく、コッカー一等兵は両手で手榴弾をつかむと彼の負傷した仲間から離れるために転がったが、彼が手榴弾を処理する前にそれは爆発した。致命傷を負ったが、怯まずに彼は彼の戦友を見捨てることを拒絶した。彼が味方の前線の方へ進むと、更に二つの敵手榴弾が彼の近くで爆発し、更に傷を負わせた。

 彼の戦友の安全にのみ執着し、コッカー一等兵は最高の努力によって這うことを試み、そして彼とともに負傷した海兵隊員を引き続けた。

 彼の英雄的行為に影響を受けた彼の仲間の海兵隊員は北ベトナム軍の銃撃を十分に抑制させたほど非常に激しく戦い、彼が後に自分の広範囲に渡る傷に屈服した場所まで他の者が彼に到達し、そして彼を比較的安全な場所へ運ぶことを可能にした。

 コッカー一等兵の不屈の勇気、感動させる自発性そして義務への無私無欲の献身は合衆国海兵隊と合衆国海軍職務の最高の伝統を支えた。

 彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。

リチャード・ニクソン

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ダレル・S・コール軍曹

ダレル・S・コール軍曹

1945年:硫黄島

第4海兵師団第23海兵連隊第1大隊B中隊

1920年7月20日 ミズーリ州フラットリバーで生まれる
1941年8月25日 海兵隊予備役(野戦音楽学校)
1942年8月7日 ガダルカナル上陸(第1海兵師団第1海兵連隊第2大隊H中隊)
1943年2月2日 機関銃手としての転属願いが、「ラッパ手が足りないため」と不認可となりビューグルを手にアメリカへ帰還
1943年3月 第4海兵師団第23海兵連隊第1大隊へ転属。再度、機関銃手を志願するも、再度、却下。
1944年1月31日 ロイ・ナムル島上陸。ビューグルを捨て、機関銃手として戦う。
1944年6月15日 サイパンに上陸。なぜか、機関銃手として、最愛の機関銃を手に活躍、ブロンズスター授与
1944年8月 再々度、機関銃手を志願し、ついに認可。伍長昇進
1945年1月 軍曹昇進
1945年2月19日 戦死

感状:

 1945年2月19日、火山島群硫黄島における襲撃中、敵日本軍部隊に対する戦闘に置いて第4海兵師団第23海兵連隊第1大隊B中隊機関銃班班長としての義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。

 最初の突撃波の彼の部隊の一つの分隊とと共に彼は前進中、膨大な量の小火器、迫撃砲そして大砲の凄まじい射撃によって激しく攻撃され、コール軍曹は、飛来する榴散弾がカーテンのように覆っているにもかかわらず、彼の部下を第1飛行場へ向けて傾斜している砂浜の情報へ大胆に導き、そして、彼の部隊の前進の驚異である二つの敵軍砲座を手榴弾によって彼自身によって破壊するものの、前進は三つの日本軍掩蔽壕から発した容赦無い集中砲火によって引き続き、前進は停止させられた。

 即座に、戦闘中の彼の機関銃の一つを置き、彼は粉砕するための一斉射撃を送り、そして彼の武器がジャムを起こす前に敵の最も近く、最も驚異的な砲座を沈黙させることに成功した。

 抜け目なく戦況を測り、そして反撃の大胆な計画を練ると、ただ拳銃と一個の手榴弾によって武装したコール軍曹は、敵掩蔽壕に単独で慎重に前進した。

 迅速に彼は手榴弾を急襲をかけて敵へ投げ付け、彼は素早く後退すると、追加の手榴弾のため彼自身のラインへ戻り、そして再度前進して攻撃し、後退した。

 敵の砲がまだ活動しているため、彼は最後の突撃において防御する守備隊の全滅と日本軍の強固な地点の全滅を達成するため、三度目の容赦の無い銃撃の搾線を走った。

 彼が自分の分隊に戻ったとき、すぐに敵の手榴弾によって殺されたが、コール軍曹は、それによって彼の彼の中隊が残った要塞化された恐ろしい日本軍拠点を強襲して除去し、前進を続けて目的を果たすことを可能にした。

 彼の勇敢な先導力による戦闘の危険な時期の間の不動の勇気と不屈の決意によってコール軍曹は彼の戦友に感銘を与え、ほぼ確実な死に直面した際の彼の雄々しいリーダーシップは合衆国海軍職務の最高の伝統を支え高めた。

 彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。

ハリー・S・トルーマン

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ジョン・コールマン兵

1871年:朝鮮

USSコロラド海軍分遣隊169号

1847年10月9日 アイルランドで生まれる
1870年1月26日 海兵隊入隊
1872年2月8日 名誉勲章
1893年8月31日 退役
1904年10月30日 死去

感状:

 1871年6月11日の朝鮮における戦闘中、USSコロラドに乗り組んでいた。敵と接近戦をしていたコールマンはアレクサンダー・マッケンジーの生命を救うことに成功した。

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ヘンリー・A・コミスキー Jr.少尉

ヘンリー・A・コミスキー Jr.中尉

1950年:朝鮮

第1海兵師団第1海兵連隊第1大隊C中隊

1927年1月10日 ミシシッピー州ハッティズバーグで生まれる
1944年1月12日 海兵隊入隊
1945年2月 硫黄島にて負傷
1945年 パリスアイランド訓練教官(二等軍曹)
1949年9月10日 少尉任官
1950年9月20日 名誉勲章
1951年6月 中尉昇進
1951年9月 パイロット資格取得
1953年7月 大尉昇進
1954年4月 第1海兵航空群MAG12
1954年12月 第1海兵師団S-3
1966年8月 少佐にて退役
1971年8月15日 ミシシッピーにて死去
※父親は、第1次世界大戦時機関銃訓練教官。兄弟の一人は第187空挺連隊曹長として朝鮮に従軍。もう一人は海兵強襲隊員。

感状:

 1950年9月20日、朝鮮永登浦近郊の敵侵略部隊に対する戦闘において第1海兵師団(増強)第1海兵連隊第1大隊C中隊小隊長として義務の要求を遙かに越えた義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。

 85高地の巧妙に塹壕を掘った敵軍部隊を攻撃するように命令され、コミスキー中尉(当時少尉)は走りながら、急勾配を突撃する攻撃の先頭に立った。冷静に激しい敵の機関銃と小火器による銃撃を無視して、彼は自分の小隊の残りの前進と共に突入し、そして目的の頂上へ到達した最初の人となった。

 拳銃だけを装備した彼は、5人の敵兵士によって占有された敵の機関銃陣地へ飛び込み、そして自動拳銃によって4人の敵兵士を素早く排除した。5人目とつかみあい、コミスキー中尉は相手を地面に叩きのめし、そして彼が自分の小隊の別の一員から武器を受け取るまで、相手を押さえつけ、そして最後の敵の銃手を殺した。

 彼は大胆な突撃を続け、彼は次の砲座まで移動し、敵2名以上を殺害、その後、目標の占領へ英雄的努力へ彼の中隊の部下を奮起させ、雄々しいリーダーシップ、勇敢な闘争心を持って彼の小隊を先導し、残りを丘の後方の峰へと敗退させ、そして最高の名誉をコミスキー中尉と合衆国海軍職務にもたらす。

ハリー・S・トルーマン

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ジェームズ・コーニー兵

1900年:中国(天津)

海軍分遣隊55号

1860年7月27日 アイルランド リメリックで生まれる

感状:

 1900年7月13日、中国天津近郊の戦闘中、敵の目前にしてコーニーは、価値ある行為によって彼自身を目立たせた。

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ピーター・S・コナー二等軍曹

ピーター・S・コナー二等軍曹

1966年:ベトナム

第3海兵師団第3海兵連隊第2大隊F中隊

1932年9月4日 ニュージャージー州オレンジで生まれる
1952年2月25日 海兵隊入隊
1952年8月 第1海兵師団第5海兵連隊第1大隊B中隊第3小隊射撃班長及び通信手
1953年4月 伍長昇進
1953年10月 第2海兵師団第8海兵連隊第1大隊B中隊分隊長
1955年2月4日 海兵隊予備役
1961年5月 現役復帰及び軍曹昇進
1965年5月1日 第3海兵師団第3海兵連隊第2大隊F中隊二等軍曹
1966年2月5日 戦闘中に負傷
1966年3月8日 USSリポーズで死亡

感状:

 1966年2月25日のベトナム共和国クアンガイ省において、艦隊海兵軍第3海兵師団(増強)第3海兵連隊第2大隊F中隊第3小隊の小隊軍曹として従事していた際、義務の要求を遙かに超えて自らの生命を危険にさらし、敵ベトコン部隊に対する戦闘で顕著な勇気と大胆さを示した。

 彼の小隊を、広い洞窟とトンネルの複合体によって極めて危険な地域におけるサーチ&デストロイ作戦を先導し、コナー軍曹は断続した敵の小火器による銃撃の下に部隊を積極的に前進させた。

 特別な油断のなさと鋭い観察力を示して、彼は、彼の前面15メートルの偽装したたこつぼ銃座に注目した。彼は、破砕手榴弾からピンを引き抜くと、その深さにミサイルを落とすために躊躇うことなく穴へ突進しようとした。

 ピンを引き抜くと彼は点火装置に欠陥があり、そして彼が本来の場所の安全装置を固く握ったときには、既にヒューズに着火していたことに気づいた。

 決意を固める僅かな時間に、彼は、更に彼が偽装されたたこつぼの小さな隙間へたどりつくための距離をつめる十分な時間が無く、そしてどの方向へ致命的な爆弾を投げても彼の近くで戦術的に配置についている数人の彼の戦友が死或いは負傷するだろうことを認識した。

 明らかに途方もない勇気と彼自身の安全を全く考慮せずに、彼は恐ろしい爆発を吸収するために、手榴弾に自らの身体を押しつけて、彼の戦友を救うことを決意した。彼は致命傷を負ったが、事実上、確実な死に直面し、極端な勇気と無私の彼の行動は、多数の彼の仲間の海兵隊員を死と負傷から救った。

 自由のために彼の生命を捧げた彼の勇敢な行為は、最高の名誉を合衆国海兵隊と合衆国海軍職務にもたらした。

リンドン・B・ジョンソン

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受賞者C-1

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