名誉勲章受章者-C-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
ドナルド・G・クック | 大佐 |
1980 |
ベトナム |
ヘンリー・A・コートニー |
少佐 |
1945 |
沖縄 |
トーマス・E・クリーク |
上等兵 |
1969 |
ベトナム |
ルイス・クケラ |
軍曹 |
1918 |
ベローウッド |
受賞者C-2 |
ドナルド・G・クック大佐
1980年:ベトナム
1934年8月9日 | ニューヨーク州ブルックリンで生まれる |
1957年4月1日 | 少尉任官 |
1958年10月1日 | 中尉昇進 |
1962年3月1日 | 大尉昇進 |
1964年12月 | 南ベトナム海兵隊軍事顧問 |
1964年12月31日 | ベトコンに捕らえられる(-1967年12月8日) |
1980年5月16日 | 名誉勲章 |
感状:
1964年12月31日から1967年12月8日までの帰還、ベトナム共和国においてベトコンの戦争捕虜として抑留されている間、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
自らの行動が、自身に更に厳しい処置をもたらすことを知っていたにもかかわらず、クック大佐(当時大尉)は、例え、実際に彼がそうでなかったとしても古参の捕虜として認められた。
他の戦争捕虜の健康状態を改善させる目的で、何度も肉体労働の彼の割り当て以上を引き受け、クック大佐は進んで、そして利己的にならないよう彼自らの幸福そして結局彼の生命を彼自身の戦友たちの前に喜んで差し出した。
彼らを絶えず看護している間に、彼の医療と薬の割り当てを更に貧窮の部下に与え、彼は休息に健康状態が悪化している間、伝染病から感染する危険を冒した。この利己的ではない模範的行為は、管理規則から僅かにそれることへの彼の拒絶とともに、彼の仲間の捕虜たちばかりか、一方では彼の捕獲者たちからも深い尊敬を彼にもたらした。
彼が自らの解放、あるいは更に良い待遇について交渉するより、むしろ彼は、ベトコンが彼の不屈の志気をくじくための試みをしっかりと挫折させ、そして彼が自らを非常に密接に結びつけた部下の幸福へ貫く決意を通した。
彼は拒絶することが彼の終戦前の解放を妨げるであろうことを知りながら、そしてまた、長期の生存のための彼のチャンスが拒否し続ける場合には小さくなるだろうことを知り、彼は、それでもなお、より予期していた以上の管理規則に固執することに決めた。
彼のほぼ確実な死に直面した際の個人的勇気と並外れて誠実な精神は最高の名誉をクック大佐と合衆国海兵隊そして合衆国海軍職務にもたらした。
ジミー・カーター
ヘンリー・A・コートニー少佐
1945年:沖縄
第6海兵師団第22海兵連隊第2大隊
1916年1月6日 | ミネソタ州ダルースで生まれる |
1940年2月 | 海兵隊予備役 |
1941年 | アイスランド上陸 |
1942年8月7日 | ガダルカナル上陸 |
1945年5月15日 | 戦死 |
※沖縄キャンプ・コートニーは、この方の名前に由来します。 |
感状:
1945年5月14日及び15日における琉球諸島沖縄本島での敵日本軍部隊に対する戦闘中、第6海兵師団第22海兵連隊第3大隊の副大隊長として、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
長期の銃撃戦における彼のコマンドの前方の一団を先導した後のシュガーローフ高地背後の困難な防衛にその夜はつくように命令され、コートニー少佐は差し迫った海兵隊の攻撃の戦術上の価値に対する敵軍の夜間の反撃の効果を比較検討し、攻撃を開始することを決意し、そして丘の前面の斜面を前進し、迅速に占領する許可を獲得した。
状況を彼の小規模の残留部隊に素早く説明し、彼は前進するという自らの意図を宣言し、その後、洞窟近くの拠点を大胆に爆破し、そして彼の行為によって敵の砲を無力化した。
彼の勇気によって鼓舞され、全ての部下が躊躇することなく後続し、そして共に勇敢な海兵隊員は丘の右翼を囲み、そして反対側の斜面に達するために日本軍の恐ろしい集中砲火に立ち向かった。一時的に停止したコートニー少佐は、後方へ更に多くの弾薬と可能な交代要員のためにガイドを送った。
26人の隊員と手榴弾を積んだLVTによる増援部隊を受けた後に、彼は丘の頂上を強襲して突破することにより十分な勢いをつけ、全ての反撃計画を粉砕することを決意した。コマンドからなるよりも、選抜された彼の部下を先導し、彼は破壊的な効果と共に斜面上の洞窟開口部へ手榴弾を投げ込み、彼は激しく攻め立てることを押し進めた。
頂上に着き、そして100ヤード未満の離れた場所で多数の日本軍が戦闘のために集結するのを見ると、彼は即座に攻撃し、激しい戦闘により、敵の多数を殺害し、そして洞窟内へ残りを押し込むことに成功した。占領を決意し、彼は自分の部下に塹壕を掘るように命令し、彼は疲労した部隊を集結し、飛来する敵の榴散弾が浴びせられ続けるのを冷静に無視し、死傷者をたゆむことなく救い、そして更に有利な地点に彼の部下を割り当てた。
彼の部下の間を移動中に、炸裂した迫撃砲弾によって瞬時に殺されたが、コートニー少佐は彼の軍人としての機敏な洞察力、かなり不利な状況に直面した際の不屈のリーダーシップ、そして断固たる行動は、主に沖縄キャンペーンの成功に貢献し、彼の個人的勇気は合衆国海軍職務の最高の伝統を維持し、拡張させた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
トーマス・E・クリーク上等兵
1969年:ベトナム
第3海兵師団第9海兵連隊第3大隊I中隊
1950年4月7日 | ミズーリ州ジョブリンで生まれる |
1968年1月16日 | 海兵隊入隊 |
1968年6月 | 第1海兵師団第27海兵連隊第2大隊E中隊 |
1968年9月 | 第3海兵師団第9海兵連隊第3大隊I中隊 |
1969年2月13日 | 戦死 |
感状:
ベトナム共和国の敵部隊に対する戦闘において第3海兵師団第9海兵連隊第3大隊I中隊ライフルマンとして従事している際、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1969年2月13日、クリーク上等兵の分隊は、ヴァンデグリフト前線基地の再補給のために移動中のコンボイが、敵コマンドの爆発させた地雷によって車両の一つが破壊されたためにコンボイをカムロー再定住村の近くに停止させた。
すぐさま、海兵隊員たちは巧みに偽装した北ベトナム陸軍部隊からの激しい小火器の銃撃を伴う敵迫撃砲砲火を大量に浴びせられた。敵との交戦のために彼の分隊が迅速に配置についたとき、クリーク上等兵は戦闘配置へ素早く移動し、そして銃撃戦の中、攻撃的に交戦した。
彼が敵軍に対して銃撃を更に効果的に行える位置を観察し、彼が掃射されている地形を恐れずに突進して横断し、そして敵の砲火によって重傷を負ったが、彼は自らの安全を完全に無視した。それと同時に、彼が北ベトナム軍の破砕手榴弾が彼が落ちた溝に投げ込まれ、彼と数人の仲間たちの間へ落下した。
彼の行動の避けられない結果を十分に理解し、クリーク上等兵は勇敢にも手榴弾の上に転がり、そして自らの身体によって爆発の十分な力を吸収したことによって彼の仲間の海兵隊員5人の命を救った。
彼の英雄的行為の結果、彼の仲間は北ベトナム軍が敗北し、そしてそのコンボイが極めて重要な任務を継続することができたほど攻撃的戦闘に駆り立てた。
勇気を呼び起こすクリーク上等兵の不屈の勇気と義務への無私無欲の献身は合衆国海兵隊とアメリカ海運職務の最も高い伝統を支えた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
ルイス・クケラ軍曹
1918年:フランス
第5海兵連隊第66中隊
1888年5月1日 | オーストリア セベニス(現クロアチア シベニク)で生まれる |
1913年 | アメリカに移住 |
1914年9月21日 | アメリカ陸軍入隊 |
1916年6月12日 | 伍長にて退役 |
1917年1月31日 | 海兵隊入隊 |
1918年7月18日 | 陸軍及び海軍名誉勲章授与 |
1918年9月26日 | 野戦任官で少尉 |
1919年7月17日 | 中尉昇進 |
1921年9月15日 | 大尉昇進 |
1940年6月30日 | 海兵隊予備役編入と同時に少佐昇進 |
1940年7月30日 | 現役復帰 |
1946年5月17日 | 退役 |
1956年8月10日 | 死去 |
感状:
1918年7月18日に合衆国海兵隊第5海兵連隊第66中隊名誉勲章(陸軍)受賞者ルイス・クケラ軍曹は、森を抜けて前進する彼の中隊が、敵の堅固な地点からの強い抵抗に遭遇し、クケラ軍曹は彼の戦友の警告を無視し、そして激しい銃火の中、ドイツ軍前線側面に這って回り込んだ。
彼は、敵の拠点の背後へ回り込むことに成功し、機関銃陣地に突入し、機関銃要員を銃剣で殺し、或いは追い出した。4人の捕虜と損傷した2挺の機関銃を獲得した彼は、ドイツの手榴弾が爆発するまで孤立した陣地に止まり続けた。
受賞者C-2 |