名誉勲章受章者-B-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
ケネス・D・ベイリー |
少佐 |
1942 |
ガダルカナル |
ウイリアム・E・バーバー |
大尉 |
1950 |
朝鮮 |
ジェド・C・ベーカー |
上等兵 |
1967 |
ベトナム |
ハーベイ・C・バーナム |
中尉 |
1965 |
ベトナム |
ジョン・"マニラ・ジョン"・バシローン |
軍曹 |
1942 |
ガダルカナル |
ハロルド・W・バウアー |
中佐 |
1942 |
ガダルカナル |
ウィリアム・B・ボー |
一等兵 |
1950 |
朝鮮 |
ルイス・K・ボーセル |
伍長 |
1944 |
ペリリュー |
ハイラム・I・ベアス |
大尉 |
1901 |
フィリピン |
ランドルフ・C・ベーカリー |
少佐 |
1914 |
ベラ・クルス |
チャールズ・J・ベリー | 伍長 |
1945 |
硫黄島 |
リチャード・ビンダー | 軍曹 |
1864 |
フィッシャー砦 |
ジョン・P・ボーボ | 少尉 |
1967 |
ベトナム |
アレキサンダー・ボニーマン Jr. | 中尉 |
1943 |
タラワ |
ウィリアム・J・ボーデロン | 二等軍曹 |
1943 |
タラワ |
アーウィン・J・ボイドストン | 兵 |
1900 |
中国(北京) |
グレゴリー・"パピー"・ボイントン | 少佐 |
1943 |
ソロモン |
チャールズ・ブラウン | 伍長 |
1871 |
朝鮮 |
ダニエル・D・ブルース | 一等兵 |
1969 |
ベトナム |
ハワード・M・バックリー | 兵 |
1899 |
フィリピン |
ロバート・C・バーク | 一等兵 |
1968 |
ベトナム |
ジェームズ・バーンズ | 兵 |
1900 |
中国(天津) |
リチャード・E・ブッシュ | 伍長 |
1945 |
沖縄 |
スメドリー・D・バトラー | 少佐 |
1915 |
ベラ・クルス |
スメドリー・D・バトラー | 少佐 |
1917 |
ハイチ |
ウィリアム・R・バットン | 伍長 |
1919 |
ハイチ |
受賞者A |
ケネス・D・ベイリー少佐
1942年:ガダルカナル
第1強襲大隊
1910年10月21日 | オクラホマ州ポウニーで生まれる |
1935年 7月1日 | イリノイ州軍入隊 |
1938年6月 | 海兵隊に移籍 |
1942年8月7日 | ツラギの戦いにおいて、銀星章受賞 |
1942年9月13日 | エドソンリッジの戦いで名誉勲章 |
1942年9月27日 | マタニカウ河の戦いで戦死 |
感状:
1942年9月12日、13日、ソロモン諸島ガダルカナルヘンダーソンフィールドにおける敵日本軍の攻撃に対し、並はずれた勇気及び英雄的行為、そして第1強襲大隊C中隊中隊長としての義務の要求を遙かに超えた行為によって。
その前の晩、激戦の後にベイリー少佐の中隊は完全に再編成され、大隊予備として幹線路と狙われた空港の間に配置された。それから一時間以内に、幹線路の間隙に対する敵の侵入によって右側面を脅かされた。この脅威を撃退することに加え、優勢な敵軍の幹線路に対する猛烈な突撃による撤退を援護するために彼は全ての武器を用いるように命令し、彼自身の拠点を着実に保持するために死に物狂いで増強した。
大隊長が後に退却を止め、部隊を再編成し、そして予備地点を左翼のベイリー少佐に提供するために非常に有用な演出を果たした後で、10時間に渡って、彼は頭部に重傷を負っているにもかかわらず何度も部隊を導き、激しい接近戦を繰り広げた。
絶え間なく無慈悲な敵の銃撃にさらされている間、彼の偉大なる個人的勇気そして彼の不屈の闘争心に鼓舞された彼の部隊は英雄的努力により、敵を撃退し、ヘンダーソンフィールドを確保することに成功した。
彼は、彼の祖国の職務に彼の生命を勇敢に捧げた。
フランクリン・D・ルーズベルト
ウイリアム・E・バーバー大尉
1950年:朝鮮
第1海兵師団第7海兵連隊第2大隊F中隊長
1919年11月30日 | ケンタッキー州デハートで生まれる |
1940年3月 | 海兵隊に入隊。パラマリーン |
1943年8月11日 | 少尉任官。第1空挺連隊 |
1944年 | 第5海兵師団第26連隊 |
1950年 | 第1海兵師団第7海兵連隊 |
1954年 | 第2海兵師団第2大隊訓練教官 |
1956年-1958年 | アメリカ大使館(タイ)海軍武官補佐 |
1962年 | 第3海兵師団偵察大隊長 |
1967年-1969年 | 第2海兵師団第2海兵連隊長 |
1969年-1970年 | MACV第3水陸両用軍団心理作戦将校 |
1970年5月1日 | 大佐にて退役 |
2002年4月19日 | 死去 |
感状:
1950年11月28日から 12月2日からの朝鮮の敵侵略部隊に対する第 1海兵師団 (増強) 第7海兵連隊第2大隊F中隊指揮官としての、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
師団の主要補給線に沿った3マイルの山道を守るように命令されたバーバー大尉は、日暮れまでに彼の戦いに疲れた部下たちと共にユダムニからハガルリまで進出する唯一の進入路である地点になる凍結した雪に覆われた丘の斜面に塹壕を掘り、配置に着くと防衛を開始した。
推定で連隊規模の部隊が夜間に激しい攻撃を加えてきたとき、7時間に及ぶ激戦の後、多数の死傷者を与え、これを撃退した後、二つの増援部隊により孤立した部隊と合流する試みの激しい抵抗が軽減すると空中投下による補給を受けられたならば防衛し続けることが可能だとバーバー大尉が請け負ったため、すぐさま許可の命令が無線通信によって与えられた。
現在地点を放棄し、部隊に拠点が奪い返され、新たな戦で敵軍が主導権を握るか、歩くことのできない負傷者を彼が多数見捨ててしまえば、ユダムニで包囲された8,000名の海兵隊との接触を断ち、また海へ向けて移動を行うためにハガルリで待つ更に3,000名との合流する機会を危険にさらすことに気づいていた彼は、自身の部隊を犠牲にすることを選んだ。
29日早朝の戦いで、バーバー大尉は足に重傷を負ったが、担架に乗って前線を動き回って指揮権を掌握し続け、彼の部下の最高の努力を一貫して励まし、鼓舞することで驚異的な抵抗を行った。
狂信的侵略者によって、五日六晩繰り返された決死の戦いを行ったことにより、彼と彼の英雄的指導は、華氏零度を示すつらい天候におけるこの叙事詩において1,000人の敵を殺害した要因となり、そしてその中隊が安心したとき、元からいた220名中僅か82名が打ち勝ちがたい可能性から、非常に勇敢にも抵抗して拠点から逃れることができた。
彼の深い信頼、勇気、偉大なる個人的勇気及び揺らぐことがない忍耐は、チョシン貯水池地区における死の罠からの師団の首尾良い撤退の決定的要因であり、そして最高の名誉をバーバー大尉、彼の勇敢な将校そして部下そして合衆国海軍職務にもたらした。
ハリー・S・トルーマン
ジェド・C・ベーカー上等兵
1969年:ベトナム
第3海兵師団第3偵察大隊E中隊
1945年6月20日 | ニューハンプシャー州フランクリンにて生まれる |
1966年6月20日 | 海兵隊に入隊 |
1967年9月21日 | 戦死 |
感状:
1967年9月21日、ベトナム共和国における第3海兵師団第4海兵連隊第2大隊F中隊の機関銃手として活動している際に示した、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
コンティエン近くで偵察行動中にベーカー伍長の分隊は、敵の狙撃手の狙撃によって突然撃たれた。分隊は、即座に戦闘隊形を取り、敵の強固な陣地へ前進を開始したが、小火器と自動火器の射撃に再びさらされ、多数の死傷者を出した。ベーカー伍長も、集中射撃によって負傷したが、大胆にも無防備な場所に止まり、数に勝る部隊に向けて正確で破壊的な射撃を送り込んだ。敵は小さな海兵隊部隊を全滅させることに集中していたが、ベーカー伍長が、彼らの拠点にとっての脅威であることを悟ると彼の位置へ向けて、彼らの火力を集中させた。
彼は、再び負傷した。右手だったために彼にとって絶対に必要とされた機関銃を操作することを妨げた。突然、そして警告も無く、敵の手榴弾が僅かに生き残った海兵隊の中へと落下した。ベーカー伍長は、躊躇いもせず、彼自身の安全を顧みずに致命的な手榴弾の上に身を投げ、爆発による恐るべき力を吸収した。
勇気ある行動の最後として、彼は負傷した戦友の横へ這い寄ると、彼が激しい傷で死ぬ前に応急処置を行った。彼の大胆な自発性、勇敢な闘争心そしてほとんど確実な死に直面しても揺らぐことのない義務への献身は、間違いなく更なる負傷と確実な死から彼の戦友を救い、そして偉大なる名誉を、彼自身、合衆国海兵隊そして合衆国海軍の職務にもたらした。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
ハーベイ・C・バーナム中尉
1965年:ベトナム
第3海兵師団第9海兵連隊第2大隊H中隊
1940年7月21日 | コネチカット州チェシールで生まれる |
1958年1月 | 海兵隊に予備役入隊 |
1965年12月 | 第3海兵師団第9海兵連隊第2大隊 |
1989年8月 | 大佐にて退役 |
感状:
彼は、1965年12月18日、第3海兵師団(増強)第9海兵連隊第2大隊H中隊に砲兵部隊の前線観測員として所属している際に、ベトナム共和国クアンチ省キフで行動する共産主義部隊に対して、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
その中隊が、敵の非常に正確な砲撃によって突然釘付けにされ、少なくとも500メートルに広がる地上掃射を受け、そして死傷者を増やし、大隊の残余から急速に孤立化したとき、バーナム中尉は彼の砲兵隊の目標を発見するために危険な偵察を速やかに行った。
致命傷を負ったライフル中隊長と戦死した通信手を発見した彼は、自らの安全を無視して、死にかかっている指揮官を手当てし、死んだ通信手から通信機を外すと、それを自ら背負った。
彼は即座にライフル中隊の指揮を掌握すると、激しい攻撃の最中にいったん移動し、全ての部隊を呼び集めると激励を与え、主要な兵力の損失を補うためにそれらを再編成し、致命的な銃撃を続ける敵拠点に対する攻撃を導いた。
彼の堅実で、速やかな決断そして彼の明らかな冷静さは、ひどく痛めつけられた部隊を安心させ、そして、彼の繰り返し、立ち上がって目標を指摘した彼の勇ましい見本は全員を鼓舞するために役立った。
二機の武装ヘリコプターが提供され、彼は敵拠点への成功した反撃におぴて、一個小隊を巧みに指揮しながら、堅固に根付いた敵に対する航空攻撃を統制するために敵の銃火を物ともせずに行動した。
この狭い地域を掃討した彼は死傷者の避難のために二機の輸送ヘリコプターの着陸を要請し、指揮した後、彼は大隊の目標の最終奪取のための掃討を援護した。
彼の勇敢な独創力と英雄的行為は、自身に対して大きな名声を与え、そして合衆国海兵隊と合衆国海軍職務の崇高な伝統を保持した。
リンドン・B・ジョンソン
ジョン・"マニラ・ジョン"・バシローン軍曹
1942年:ガダルカナル
第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊H中隊
1916年11月4日 | ニューヨーク州バッファローにて産まれる |
1934年 | 陸軍入隊(フィリピンに配属) |
1937年 | 退役 |
1940年7月 | 海兵隊入隊 |
1942年10月 | エドソンリッジの戦いにより名誉勲章 |
1945年2月19日 | 硫黄島にて戦死 |
1949年7月 | ボストン海軍造船所にて、USSバシローン進水 |
感状:
1942年10月24日及び25日、ソロモン諸島ガダルカナルルンガ地域において第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊に所属している際に、敵日本軍部隊に対して行った際に見せた義務の要求を遙かに越えた途方もない英雄的行為そして際だった勇敢な行為による。
敵が海兵隊の防衛陣地に激しく攻撃を加えていた頃、バシローン軍曹は過酷で決然とした攻撃を阻止すべく勇敢にも二個重機関銃分隊を指揮した。
手榴弾と迫撃砲によって彼の銃を爆破しようとする日本軍の激しい正面攻撃において、バシローン軍曹の分隊の一つは僅か二人を残して、その銃手とともに動かなくなった。
彼は余った銃を拠点に動かして、それを稼働できるように設置し、絶え間ない銃撃の下で、もう一つを修理すると自分自身でそれを操作し、勇敢にも交替が来るまで彼の前線を維持し続けた
少し後、弾薬が欠乏し、補給が絶たれた状態でバシローン軍曹は、彼の生命を大きな危険にさらしながら、直面した敵の継続的な攻撃に、彼の射撃手と共に彼の防衛戦を突破しようとする敵軍と差し迫って必要とされた砲弾を持って戦い、これによって日本軍の連隊を事実上壊滅させることに大いに貢献した。
彼の偉大な個人的勇気と勇敢な自発性は合衆国海軍職務の崇高な伝統を支えた。
フランクリン・D・ルーズベルト
ハロルド・W・バウアー中佐
1942年:ガダルカナル
第212海兵戦闘航空隊長
1908年11月20日 | カンザス州ウッドラフにて産まれる |
1926年 | 海軍兵学校入校 |
1930年 | 卒業後、海兵隊少尉任官 |
1934年12月 | パイロット資格取得 |
1941年12月 | ミッドウェーに赴任 |
1942年2月 | ハワイに転属。第212海兵戦闘航空隊指揮官 |
1942年11月14日 | ガダルカナル沖100マイルにて不時着水後、行方不明 |
感状:
1942年5月10日から11月14日までの期間、南太平洋地域における第212海兵戦闘航空隊指揮官として並はずれた英雄的行為及び際だった勇気による。
ソロモン諸島ガダルカナルの我が軍の拠点を守るための戦闘機の水先案内をすることを志願した際、我が方の部隊より数に勝る敵爆撃機群と戦闘機群に対する二つの空中戦に参加した。
9月28日の交戦で大胆に接近して一機の日本軍爆撃機を破壊し、10月3日には4機の敵戦闘機を撃墜し、5機目に火を噴かせ、ひどく煙を吹き出させた。
10月16日、首尾良く600マイルを超える洋上巡航の先導を務めたバウアー中佐が26機の飛行機が到着する間、旋回しているとバウアー中佐はUSSマクファーランドを攻撃する敵機の航空隊を発見した。
手強い抵抗を恐れず、そして職務の要求を超えた超越した勇気によって彼は一人であるにもかかわらず、全体の航空隊と交戦し、そして、燃料を使い果たすまで戦い、彼の飛行機は燃料を失い着陸を余儀なくされるまでに見事に日本軍機4機を破壊した。
戦闘功績の素晴らしい記録において例示されたリーダーとパイロットとしての彼の勇敢な闘争心と卓越した能力は南太平洋地域における作戦成功に極めて重要であった。
フランクリン・D・ルーズベルト
ウィリアム・B・ボー一等兵
1950年:朝鮮
第1海兵師団第1海兵連隊第3大隊G中隊
1930年7月7日 | ケンタッキー州マッキンニーにて産まれる |
1948年1月23日 | 海兵隊入隊 |
1950年11月29日 | 戦死 |
感状:
1950年11月29日朝鮮のハガルリからコトリにかけた道で、夜間、敵が車両の列に攻撃を仕掛けて来た際、第1海兵師団(増強)第5海兵連隊第3大隊G中隊付対戦車突撃分隊の一人として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
彼と彼の分隊が道端に巧みに偽装された堅固な拠点から非常に激しい自動火器と擲弾を送り込む敵軍を撃退するために降りて、支援する準備を行った時、敵の手榴弾が彼のトラックに飛来した。ボー一等兵は即座に叫んで車両上の仲間に警告を発すると、彼自身の安全を気にすることなく、それによって重傷または確実な死から彼の戦友を救うために致命的なミサイルに自らの体を投げ付けた。
彼は重傷を負い、直後に死んだ。ボー一等兵は自己犠牲の素晴らしい勇気と勇敢な精神によって合衆国海軍職務の崇高な伝統を支えた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
ルイス・K・ボーセル伍長
1944年:ペリリュー
第1海兵師団第5海兵連隊第1大隊
1924年4月17日 | バージニア州プラスキにて産まれる |
1941年12月15日 | 海兵隊入隊 |
1942年8月7日 | ガダルカナル上陸 |
1944年9月15日 | ペリリュー上陸後に、重傷 |
1944年9月18日 | 収容された病院船で死亡 |
1945年11月19日 | 駆逐艦USSボーセル就航 |
感状:
1944年9月15日、第1海兵師団第5海兵連隊第1大隊の一員として、パラオ群ペリリュー島上の敵日本軍との戦闘中に義義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
勇敢にも、彼は分隊の先頭に自ら立ち、ボーセル伍長は、砂浜に対し、極めて重要な範囲を守る敵拠点に対する突撃を導き、砲座に達した最初の一人として、彼の部下が敵に迫ったとき、早速、残った隙間に彼の自動火器を押し込んで銃撃を行った。
日本軍の手榴弾が、彼らの中央まで投げ付けられ、ボーセル伍長は即座に、彼の部下を救うために自らを凶器の上へ投げ出し、爆風を受け止め、自らの命を犠牲に捧げた。
彼の揺らぐことのない忠誠と、人を感激させる勇気は、最高の名誉をボーセル伍長と合衆国海軍職務にもたらした。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
フランクリン・D・ルーズベルト
ハイラム・I・ベアス大尉
1901年:フィリピン
1875年4月13日 | インディアナ州ペルーで生まれる |
感状:
1901年11月17日、フィリピン諸島サマール、カダカンとソーホトン河の合流地点においての戦いにおいて驚くべき英雄的行為、そして卓越し、そして際立った行為による。
ベアルス大佐(当時大尉)は、ソーホトン河地域に接岸した縦隊の副司令官は要塞化された崖へ奇襲攻撃を行い、そして30名を殺害し、そして捕らえ、そして火薬庫、40のランタカス(砲)、米、食料、そして宿営地を破壊し、敵を完全に追い払った。
彼の勇気、知性、眼識と熱意故に、彼は200フィートの高さまで竹製はしごを使用して崖へと彼の部下を導き、登らせることに成功した。
崖は軽石の性質を持ち、火山性の柔らかい石ということもあり、洞窟で蜂巣状になっていた。
岩のほとんどが下の人々の上に落下させるための用意で(ベジュコとして知られる)蔓のケーブルで所定の位置に設けられた壇に吊されていた。
難攻不落同然のそれらの陣地から反乱者を追い出した後、毒槍、落とし穴、その他で覆われた多数の山道を彼は川の向こう側へ彼の部下を導き、反対側の崖を登り、そしてそこでキャンプを破壊した。
ベアス大佐と彼の指揮下の部下は年老いた捕虜からの報告によれば最終結集地点で確保され、そして白人の兵士たちによって、かつて一度も突破されなかった完成までに三年を要した陣地を破壊し、信じがたい困難と危険を克服した。
ベアス大佐は1902年1月18日、フィリピン諸島サマールのクイナプンダン河で敵の面前において同様に卓越した職務を行った。
H・J・ルーズベルト
ランドルフ・C・ベーカリー少佐
1914年:ベラ・クルス
海軍分遣隊177号
1875年1月9日 | バージニア州スタントンにて生まれる |
1898年8月8日 | 海兵隊少尉任命 |
1939年2月 | 少将にて退役 |
1960年1月31日 | 死去 |
感状:
1914年4月21日及び22日、ベラ・クルスにおける交戦による双方の日の戦いにおいてそして示された勇気と彼の技術によって導かれた部下の戦い、そして彼の大隊を指揮する卓越し、顕著、戦いにおける顕著な行い。
彼の指揮下の海兵隊員の少ない損失から、計算された平行した通りとシンコ・デ・マヨを撃ち下ろす機関銃とライフルの射撃に遭遇し、打ち勝つ際、彼の部下を扱う、彼の冷静な判断と勇気と彼の技術による。
チャールズ・J・ベリー伍長
1945年:硫黄島
第5海兵師団第26海兵連隊第1大隊G中隊
1923年7月10日 | オハイオ州ロレインにて産まれる |
1941年10月1日 | 海兵隊入隊。後、パラ・マリーンに志願 |
1943年10月 | ヴェラ・ラ・ヴェラ-ブーゲンビル(-1944/2まで) |
1945年3月3日 | 戦死 |
感状:
1945年3月3日、火山島群硫黄島奪取の戦闘中、第5海兵師団第26海兵連隊第1大隊の機関銃要員の一人として、敵日本軍部隊に対する義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
最前線に配置されて、彼が危険な夜の時間中に彼の銃隊の他の仲間と休みなく寝ずの番を彼は継続したので、ベリー伍長は用心深く用意すると共に彼の武器に要員を配置した。
日本軍が潜入し、彼の地点を通り抜ける試みに夜半直後に奇襲を開始したとき、彼は投げ込まれた手榴弾の対決に従事した。致命的な正確さで塹壕に落ちた物騒な武器である敵手榴弾まで迅速に戻った。彼は彼の戦友を救うことを決心し、深躊躇うことなく自らを犠牲にすることに決め、重傷から他者を守るために致命的なミサイルに飛び込み、彼自身の体で爆発の衝撃の暴力による破片を受け止めた
タフな心と不屈のベリー伍長は、彼自身の生命を恐れずに捧げ、彼の同僚の海兵隊員たちへ無慈悲な敵に対する無情な戦いへ運ぶ力を与え、確実な死に直面した際の義務による彼の素晴らしい勇気と躊躇うことのない忠誠は最高の名誉を彼自身と合衆国海軍職務にもたらした。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
リチャード・ビンダー軍曹
1864年:フィッシャー砦
USSタイコンデロガ
1839年7月26日 | ドイツで生まれる |
1861年7月11日 | 海兵隊入隊 |
1864年 | 名誉勲章 |
1865年7月19日 | 名誉除隊 |
1912年2月26日 | 死去 |
感状:
1864年12月24日及び25日、そして1865年1月13日から15日にかけてフィッシャー砦に対する攻撃中、USSタイコンデロガに乗船していた。
8人を殺害し、更に12名を負傷させた敵からの激しい応射と100ポンドものパロットライフルの爆発にもかかわらず、ビンダー軍曹は砲の隊長として最初の二日間の戦いの間の技術と勇気によって義務を遂行した。
ジョン・P・ボーボ少尉
1967年:ベトナム
第3海兵師団第9海兵連隊第3大隊I中隊
1943年2月14日 | ニューヨーク州ナイアガラで生まれる |
1965年12月17日 | 海兵隊少尉に任命 |
1967年3月30日 | 戦死 |
感状
1967年3月30日、ベトナム共和国クアンチ省における第3海兵師団第9海兵連隊第3大隊I 中隊武器小隊小隊長としての義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
司令集団が、重機関銃と迫撃砲によって支援され、増強された北ベトナム軍中隊によって攻撃を受けたとき、I中隊は夜間の待ち伏せ陣地を設営していた。ボーボ少尉は、緊急防衛を組織化し、拠点からの殺人的な敵の銃撃にもかかわらず、数に劣る海兵隊を励ます地点へと移動した。彼は味方の死傷者の中からロケットランチャーを回収して、新たな射撃チームを組織化すると敵の機関銃陣地へその射撃を指示した。
敵の迫撃砲弾が爆発し、ボーボ少尉の右足を膝下から切断したとき、彼は指揮集団をよりよい地点への移動を支援できる射撃地点へ配置されることを主張し、避難することを拒絶した。
出血を抑えるために泥に押し込まれた足、そして出血を止めるために彼の足に巻かれた装備ベルトが止血帯として役立ち、彼は、この拠点に留まり、そして破壊的な射撃を海兵隊を圧倒しようと試みる敵の列へ届けた。
ボーボ少尉は、迫撃砲の負傷にもかかわらず、彼の武器を敵の攻撃の集中点に向けて打ち続けた彼の勇敢な精神は、彼の部下を英雄的な奮闘に鼓舞し、そして粘り強く持ちこたえたことによって、指揮集団は防御性のある地点を得ることが可能となり、それにより敵の猛攻撃を撃退できた。
ボーボ少尉の素晴らしい統率力、恐れを知らない勇敢さと大胆な独創力は大きな名誉を自らと合衆国海兵隊そして合衆国海軍職務にもたらし、崇高な伝統を支えた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
リンドン・B・ジョンソン
アレキサンダー・ボニーマン Jr.中尉
1943年:タラワ
第2海兵師団第8海兵連隊第2大隊
1910年5月2日 | ジョージア州アトランタで生まれる |
1932年6月28日 | 陸軍航空隊入隊 |
1932年9月19日 | 退役 |
1942年7月 | 海兵隊入隊 |
1943年2月 | 野戦任官により少尉昇進 |
1943年9月1日 | 中尉に昇進 |
1943年11月22日 | 戦死 |
感状:
1943年11月20日から20日までのギルバート諸島の敵日本軍に占有されたタラワに対する攻撃の際に第2海兵師団第8海兵連隊第2大隊上陸部隊副官としての義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
攻撃部隊が日本の海岸砲台の圧倒的な射撃によってベティオ桟橋の突き当たりで釘付けになったとき、敵の砲撃の激しい爆発を無視してボニーマン中尉は自ら進んで行動し、そのとき長い無蓋桟橋上で包囲された人を砂浜に導いて組織化した後、自発的に獲得している火炎放射器と爆薬により、突撃破壊班を彼の戦闘工兵海岸部隊に組織化し、D-DAYの終了までに幾つかの敵軍事施設爆破を指揮した。
敵の強固に組織化された防衛線において始められた効果が決定した日の後に、彼は自発的に這うと、早期に破壊されたにもかかわらず、頑強に抵抗を続ける多数の日本軍の攻撃により、我々の前進を阻み、我々の部隊に多数の死傷者を与え続けている防空壕施設の強固な守備部隊に対抗する彼の攻撃計画における最初の動きとして、巨大な日本軍砲座の入り口と我が方の前線の約40ヤードに対して爆薬を配置した。
彼が弾薬を満たすときのみ後退し、彼は彼の部下を更なる攻撃に導き、彼は自らを敵防空壕の頂上の規模と入り口双方で爆薬を直接設置するように支持し、砲座内部の約150人の兵士を全滅させ、そして即座に分断された敵の100人以上を混乱させた。
彼が自らの目的を達成した後、増援の日本軍によって激しく攻撃され、致命傷を受け、絶望的な攻撃に直面して不屈の決意を持ち、戦略上重要な位置を守り、そして彼が倒れるまでに、敵の内三人を殺害し、要塞の峰に立ち、英雄を作った。根気強い激戦の三日間の間、彼の揺るぎない闘争心、強固で攻撃的、そして力強いリーダーシップによってボニマン中尉は、彼の部下が、彼らが反撃を追い払い、その地域における我々の部隊へのそれ以上の死傷者を受けつつも、即座に400ヤード目前を得る、その地域における敵抵抗の大半を終わらせることを可能にするの英雄的努力に駆り立てた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
ウィリアム・J・ボーデロン二等軍曹
1943年:タラワ
第2海兵師団第18海兵連隊第1大隊戦闘工兵小隊
1920年12月25日 | テキサス州サンアントニオで生まれる |
1941年12月10日 | 海兵隊入隊。狙撃手資格取得 |
1943年11月20日 | 戦死 |
感状:
1943年1120日の日本軍に防衛されたギルバート諸島タラワ環礁に対する戦闘で、第2海兵師団第2海兵連隊へ戦術的に付属した第18海兵連隊第1大隊の戦闘工兵小隊の一員として義務の要求を遙かに超えた勇ましく、そして立派な行為による。
強襲上陸波による上陸の中、トラクターに乗り込んだ人々の内の4人を除く全員を殺した敵の砲火を衰えさせるべく、ボーデロン二等軍曹は爆薬を大急ぎで作ると、自ら二つの掩蔽壕に設置して活動を止めた。
防波堤を這い上がる人の群れから、自分自身に必要な援護射撃とライフルとともに、彼は勇気を持って止まり、攻撃を続け、破壊できなかったにもかかわらず、三つ目の陣地を襲撃している間に彼の手で爆破攻撃をしようとした時に敵機関銃の銃火が命中した。
重傷を負ったものの彼は無視して、彼は水中で負傷し、助けを必要とする、彼の爆破作業員の一人の応急処置を彼は素早く行い、この人を救助し、そして、救助を試みている間に、敵の銃撃を受けた別の者を救助した。
それでもなお、自らの応急手当を拒絶し、彼は再び爆薬を作り上げ、そして四つ目の日本軍機関銃陣地を独力で攻撃したが、敵からの最後の銃撃の掃射に捉えられ、即死した。
僅かな橋頭堡を確保することの危険な局面の間におけるボーデロン二等軍曹の偉大なる個人的勇気は島の究極の占拠をもたらす要素を与え、そして彼の英雄的決断は、最高の名誉を合衆国海軍職務にもたらす。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
フランクリン・D・ルーズベルト
アーウィン・J・ボイドストン兵
1900年:中国(北京)
海軍分遣隊55号
1875年4月22日 | コロンビア州ディアクリークで生まれる |
感状:
1900年7月21日-8月17日、ボイドストンは激しい砲火の下、北京の敵前における顕著な活躍によってバリケード建設を支援した。
グレゴリー・"パピー"・ボイントン少佐
1942年-1944年:ソロモン
第214海兵戦闘航空隊"ブラックシープ"隊長
1912年12月4日 | アイダホ州カーダレンで生まれる |
1934年 | ワシントン大学航空力学学士号取得 在学中、ROTCにより、士官候補生 6月より、予備役砲兵隊配属 |
1935年6月13日 | 義勇海兵隊予備役入隊。7月16日に義務をとかれ、ボーイング社に入社(設計及び技術者) |
1936年2月18日 | 海軍パイロット候補生任命 |
1941年8月26日 | 退役。アメリカ義勇軍フライングタイガースに参加。12月7日までに6機撃墜 |
1943年4月 | 現役に復帰し、第112海兵戦闘航空隊としてガダルカナルに参加後、第214海兵戦闘航空隊ブラックシープ指揮官 |
1944年1月3日 | ラバウル上空で撃墜数26機を達成後、撃墜され捕虜 ※撃墜されるまでに更に2機撃墜したことが後に確認。 |
1945年8月29日 | 東京で解放 |
1945年10月5日 | 名誉勲章授与 |
1947年8月1日 | 大佐にて退役 |
自伝コルセア戦記ベストセラー。後、映画及びテレビシリーズ化 | |
1988年1月11日 | 死去 |
感状:
1943年9月12日から1944年1月3日にかけて中央ソロモン区域における敵日本軍部隊に対して活動中の第214海兵戦闘航空隊の司令官としての義務の要求を遙かに超え、そして並はずれた英雄的行為による。
常に数で勝る堅固に守られた敵拠点の連続する冒険的な飛行の間中、ボイントン少佐は彼の航空隊を戦闘へ導き、大胆で勇敢な粘り強さを持つ敵を攻撃し、結果、日本船舶に壊滅的な打撃を与え、軍事施設と航空部隊を支援した。
破壊的な打撃を敵に与えようとする決心の固い彼の努力において、10月17日のカヒリ上空で24機の戦闘機からなる戦隊をボイントン少佐は先導し、そして、60機の敵航空機が離陸できなかった空港を持続的に旋回し、飛行機を上昇させると大胆に日本軍へ挑んだ。
彼の見事な命令の下、我が戦士たちは一隻の船の損失も無く次の攻撃において20機の敵航空機を撃墜した。
かなり不利な状況に対し、素晴らしい飛行士と決然とした戦士は、この戦略上極めて重要な地域における連合軍制空権の特徴ある要素であった彼の指揮によって戦闘準備を成熟させた彼の力強いリーダーシップ、そして彼の飛行大隊によって撃墜された多数の日本軍航空機の中、ボイントン少佐は個人的に26機目を破壊した。
フランクリン・D・ルーズベルト
※授与したのはトルーマン
チャールズ・ブラウン伍長
1871年:朝鮮
海軍分遣隊169号
1936年2月18日1849年 | ニューヨーク州ニューヨークで生まれる |
1870年6月27日 | 中国香港にて、USSアシュロットへ乗船 |
1872年2月8日 | 名誉勲章(授章前に逃亡) |
1871年10月12日 | 逃亡 |
感状:
1871年6月11日の朝鮮要塞のシタデルの中心における朝鮮軍の軍旗を獲得することを支援した。
ダニエル・D・ブルース一等兵
1969年:ベトナム
第1海兵師団第5海兵連隊第3大隊支援中隊及び司令部所属迫撃砲手
1950年5月18日 | インディアナ州ミシガンシティで生まれる |
1968年5月20日 | 海兵隊予備役入隊 |
1968年7月17日 | 海兵隊入隊 |
1969年3月1日 | 戦死 |
感状:
ベトナム共和国の敵に対する第1海兵師団第5海兵連隊第3大隊支援中隊及び司令部所属の迫撃砲手として、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1969年3月1日早朝、ブルース一等兵は、彼の前方で動きを捉えたとき、クアンナム省におけるトマホーク火力支援基地で彼は夜間防衛陣地の歩哨に立っていた。
敵の爆発物が、彼の陣地へ投げられ、そして彼は直ちに反応して爆弾をつかむと彼の仲間に警告を出すために叫んだ。二人の保有者と共に周辺の陣地が危険にさらされることを悟ったブルース一等兵は爆薬を彼の体で押さえ込み、その堅固な海兵隊の周辺から運びだそうと試みた。
彼が去ったことで、仲間の海兵隊のうち三人の命を救い、そして勇気を奮い起こすブルース一等兵の不屈の度胸と義務に対する無私無欲の献身は合衆国海兵隊及び合衆国海軍職務の崇高な伝統を支えた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
ハワード・M・バックリー兵
1899年:フィリピン
第8陸軍軍団(海軍分遣隊55号)
1868年1月23日 | ニューヨーク州クロトンフォールズで生まれる |
感状:
1899年3月25日、27日、29日、そして4月4日における陸軍第8軍団に属する間、戦いにおける敵前での顕著な行為による。
ロバート・C・バーク一等兵
1969年:ベトナム
第1海兵師団第27海兵連隊第3大隊I中隊
1949年11月7日 | イリノイ州モンチシエロで生まれる |
1967年3月17日 | 海兵隊予備役入隊 |
1967年5月16日 | 海兵隊入隊 |
1968年5月18日 | 戦死 |
感状:
1968年5月17日、ベトナム共和国における第1海兵師団第27海兵連隊第3大隊I中隊の機関銃手としての職務から、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
アレン・ブルック作戦中にI中隊がリ・ナム(1)の小村に接した乾いた河床と厚く樹木が茂った木の稜線に近付いたとき、彼らは突然、大規模な迫撃砲弾、ロケット推進榴弾、自動火器そして小火器の激しい銃撃を浴びせられ、巧みに偽装した敵部隊により、何人かの海兵隊員が負傷し、そして中隊の前進を停止させた。
死傷者を避難させ、部隊を前進させることを可能にするための抵抗のキーポイントが排除することだとはっきりと認識したバーク上等兵は、躊躇せずに、彼の機関銃をつかむと、防備の固められた砲座に対して連続した単独攻撃を与えた。
彼が急な川岸の縁に攻撃的な行動を取って、彼はいくつかの敵掩蔽壕へ正確な制圧射撃を送り込み、彼の戦友が負傷した海兵隊員を比較的安全な位置に動かすことを可能にした。
彼は自らの戦闘行動を継続し、彼はその位置から強烈な銃撃を送り込み、そして抵抗を続ける自動火器の砲座から逃げようと試みた北ベトナム軍兵士三人を殺害した。
バーク一等兵は武器が作動不良を起こすまで、敵の銃撃を抑え、一カ所から大胆にも別な場所へと動いた。死傷者たちのライフルと手榴弾を獲得して、彼は更に敵中央へ向かって前進した。仲間の海兵隊員が彼の故障した機関銃を修復したことに気付くと、彼は彼の武器をつかむと危険なほどに露出した地域に移り、そして彼が致命傷を負うまで、敵を並木に押さえ込んだ。バーク一等兵の勇敢な行為は、合衆国海兵隊と合衆国海軍職務の崇高な伝統を支えた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
ジェームズ・バーンズ兵
1900年:中国(天津)
海軍分遣隊84号
1870年1月14日 | マサチューセッツ州ウォーチェスターで生まれる |
感状:
1900年6月20日、中国天津で渡河する際、小舟に他の三人と共に乗り込み、激しい銃撃の下、敵の占拠する建造物の破壊を支援した。
リチャード・E・ブッシュ伍長
1945年:沖縄
第6海兵師団第4海兵連隊第1大隊
1924年12月23日 | ケンタッキー州グラスゴーで生まれる |
1942年9月22日 | 海兵隊入隊。後、強襲大隊配属 |
1945年4月16日 | 名誉勲章 |
2004年6月7日 | 死去 |
退役時、上級曹長 |
感状:
1945年4月16日、琉球諸島沖縄八重嶽山に対する最終攻撃中、日本軍に対して行った第6海兵師団第4海兵連隊第1大隊所属の分隊長としての義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
不屈の決意によって前進する彼の部下は再編成され、ブッシュ伍長は彼の分隊を困難な断崖表面の上へと導くために、砲が配置された山岳要塞から下に集中して送り込まれる容赦のない獰猛な日本軍の砲撃を大胆にも無視し、巧妙に根付いた地点から防御部隊を追い出し、丘を掃討した。
彼の部隊とともに、八重嶽山の防衛戦内を突破する先陣として、彼は他の防衛された岩々の麓において、重傷を負って避難させられるまで情け容赦なく戦った。
グループの中に、日本軍の手榴弾が落下すると治療中で衰弱していたにもかかわらず、ブッシュ伍長は、戦闘中の窮地において機敏に、そして果敢にも、彼自身方へ致命的な飛び道具を素早く引き寄せ、そして彼自身の体で爆発の衝撃による破片の損害を吸収し、それによって自身の生命の危険を確信しながら、重傷或いは死から彼の仲間の海兵隊員を救った。
凶暴な対戦相手に直面した彼の勇敢なリーダーシップと攻撃的戦術によって、ブッシュ伍長は彼の部下の幸福のために、彼の不変の信念と、この日本帝国によって堅固に守られた前哨点の占領を押し進め、成功を実質的に与えられ、彼の自己犠牲の断固たる精神と彼のつらい戦いの最中の義務への不動の忠誠がアメリカ合衆国海軍職務の高い伝統を支えた。
ハリー・S・トルーマン
スメドリー・D・バトラー少佐
1915年:ベラ・クルス
1917年:ハイチ
ベラ・クルス:海軍分遣隊177号
ハイチ:USSコネチカット分遣隊
1881年7月30日 | ペンシルヴァニア州ウェストチェスターで生まれる |
1898年5月20日 | 少尉任官 |
1900年7月23日 | 天津において顕著な活動により大尉昇進 |
1914年4月22日 | ベラ・クルスにおける活躍に対し、名誉勲章 |
1915年11月17日 | ハイチにおける活躍に対し、二つ目の名誉勲章 |
1918年10月7日 | 大佐昇進。第13海兵連隊長としてヨーロッパ参戦 |
1927年3月 | 第3海兵旅団長 |
1931年10月1日 | 少将にて退役 |
1940年6月21日 | 死去 |
※沖縄キャンプ・バトラーは、この方に由来します。 |
感状:ベラ・クルス
戦いにおける顕著な行為のために、1914年4月22日のベラ・クルスの接触において彼の大隊を指揮する際、冷静で卓越していた。彼は22日の戦いにおいて、彼の部下を導く際、そして都市の最終占領において勇気と技術を示した。
感状:ハイチ
第5、第13、23中隊及びUSSコネチカットからの海兵隊及び水兵分遣部隊指揮官として、バトラー少佐は、1915年11月17日にハイチのリビエラ要塞攻略を導いた。激しい追撃の後、幾つかの異なる海兵隊分遣隊は、カコ山賊のための退却路全てを遮断するために、古いフランスの要塞に徐々に迫った。
小さな開口部のある南側の壁に到達すると、バトラー少佐が攻撃開始の合図を行い、そして第15中隊からなる海兵隊は、裂け目を抜けて押し寄せ、カコと白兵戦によってぶつかり、カコの抵抗を鎮圧し、そして要塞を占領した。
この危険な戦闘のあらゆる場所で、バトラー少佐は、彼の勇敢で力強いリーダーシップで目立っていた。
ウィリアム・R・バットン伍長
1919年:ハイチ
海軍分遣隊568号
1895年12月3日 | ミズーリ州セントルイスで生まれる |
1917年 | 海兵隊入隊 |
1920年6月30日 | 1919年10月31日、11月1日の功績により名誉勲章 |
1921年4月5日 | ハイチにて死亡 |
感状:
1919年10月31日夜から11月1日にかけて、ハイチのグランデリビエラ共和国近隣の敵との実戦に際し、大胆かつ際だった勇敢な行為そして並はずれた英雄的行為により、ハイチ共和国の最大の山賊の長シャルルマーニ・ペラルテの死と、そして彼の信奉者である無法者約1200名を殺害或いは逮捕そして一掃させた。
彼の司令の下、ジェンダーメリーの分遣隊のウィリアム・R・バットン伍長は、彼の優れた判断とリーダーシップにより、彼が優れていただけでなく、非常に小さな過ちでも、彼の生命だけでなく彼の命令下にあるジェンダーメリーの分遣隊の生命をも失ったであろうとき、自ら動揺することなく個人を非常に危険な状態にさらした。
彼の作戦はハイチ共和国への言い表せない重要性を疑いなく証明することに成功して終了した。
受賞者A |