名誉勲章受章者-A-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
チャールズ・G・アベル | 伍長 |
1951 |
朝鮮 |
ジョン・M・アダムス | 軍曹 |
1900 |
中国(天津) |
ハリー・C・アドリアンス | 伍長 |
1900 |
中国(天津) |
ハロルド・C・エイジャーホルム | 一等兵 |
1944 |
サイパン |
リチャード・A・アンダーソン | 上等兵 |
1969 |
ベトナム |
リチャード・B・アンダーソン | 一等兵 |
1944 |
ロイ島 |
ジェームズ・アンダーソン Jr. | 一等兵 |
1967 |
ベトナム |
エドウィン・N・アップルトン | 伍長 |
1902 |
中国(天津) |
オスカー・P・オースチン | 一等兵 |
1969 |
ベトナム |
チャールズ・G・アベル伍長
1951年:朝鮮
第1海兵師団第1連隊第2大隊E中隊
1931年8月12日 | インディアナ州テレホートで生まれる |
1948年8月17日 | 海兵隊入隊 |
1951年6月10日 | 戦死 |
感状:
彼は1951年6月10日、第1海兵師団第1海兵連隊第2大隊E中隊のライフル班長として職務を遂行中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
巧みに偽装された敵の堅固な陣地に対する攻撃に小隊と共に向かう際に、アブレル伍長は、眺望の効いた高台に位置する敵掩蔽壕からの激しく、そして正確な自動火器による射撃に襲われた分隊が射すくめられると自ら前方に突撃した。
彼は既に敵の手榴弾の破片によって負傷していたが、戦友たちに従うように促すと掩蔽壕へ大胆不敵な攻撃を開始した。
彼は更に二つの傷に耐えながら、砲床を強襲し、ピンを引き抜いた手榴弾をしっかりと握りしめると生きたミサイルとなって掩蔽壕へと自らの体を飛び込ませた。その結果生じた爆発は掩蔽壕の全ての敵を殺し、アベル伍長に致命傷を負わせた。
自己犠牲の勇敢な精神は彼の仲間を鼓舞させ、小隊の勝利に貢献した。
彼は合衆国海軍の職務を素晴らしい勇気及び英雄的行為で率先して支え、崇高な伝統を高めた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
ジョン・M・アダムス軍曹
1900年:中国(天津)
海軍分遣隊55号
1871年10月11日 | マサチューセッツ州ハーバーヒルで生まれる |
感状:
1900年7月13日、天津近郊における戦いにおいて敵前で顕著な活躍を行った。
ハリー・C・アドリアンス伍長
1900年:中国(天津)
1864年10月27日 | ニューヨーク州オスウィーゴで生まれる |
1898年6月15日 | 海兵隊入隊 |
1900年6月29日 | 名誉勲章 |
1903年6月19日 | 軍曹にて退役。三週間後に再志願 |
1904年9月7日 | 窃盗の罪で告発後、兵に降格され、解雇 |
1934年1月25日 | 黄疸の悪化により死去 |
1980年後半 | 地元において、名誉回復の活動が開始。結果は不明 |
感状:
1900年7月13日、天津近郊における戦いにおいて敵前で顕著な活躍を行った。
ハロルド・C・エイジャーホルム一等兵
1944年:サイパン
第2海兵師団第10連隊第4大隊
1925年1月29日 | ウィスコンシン州ラシーヌで生まれる |
1942年7月16日 | 海兵隊入隊 |
1943年11月20日 | ガルヴァニック作戦に参加 |
1944年7月7日 | 戦死 |
1946年6月20日 | 駆逐艦エイジャーホルム就航 |
感状:
彼は1944年7月7日、第2海兵師団第10連隊第4大隊の一員として活動した際、マリアナ諸島サイパンの敵日本軍部隊との戦闘で、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
敵が我々の陣地及び隣接した砲兵大隊に激しく決定的な反撃を加えた時、エイジャーホルム一等兵は 直ちに敵攻撃を確認し、負傷兵を撤退させる任務を支援することを志願した。
彼は放棄された救急ジープを用いて、銃火と迫撃砲火をくぐり抜ける非常に危険な旅を単身繰り返し約45人の死傷者を搬送した。 三時間以上の間、疲れ果てるまで精力的に働いた彼は、その間、自らの安全は全く気にしなかった。
激しく執拗な敵の砲火にもかかわらず、彼は、海兵隊員が負傷したとみると、その二人を運び出すために走り出した。しかし、冒険的な任務を遂行中に、彼は日本軍狙撃兵から致命傷を負わされた。
エイジャーホルム一等兵の燦然と輝く率先した素晴らしい個人的勇気、そしてほとんど確実な死に直面した自己犠牲の努力は、最高の名誉を彼自身、そして合衆国海軍にもたらした。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
ジェームズ・アンダーソンJr.一等兵
1969年:ベトナム
第3海兵師団第3海兵連隊第2大隊F中隊
1947年1月22日 | カリフォルニア州ロサンゼルスにて生まれる |
1966年2月17日 | 海兵隊入隊 |
1967年2月28日 | 戦死 |
感状:
F中隊は何重にも包囲された偵察パトロールを救出するためにカムロー北西の密生したジャングルを前進していた。
アンダーソン一等兵の小隊は、先導部隊で、それらが激しい敵の小火器そして自動火器の銃撃を受けながら、僅か200メートルを前進した。小隊は素早く反応すると密生した地形において最善の位置につくと反撃を始めた。アンダーソン一等兵が気がつくと小隊から孤立して敵の位置から僅か20メートルの位置に仲間たちと釘付けにされていた。銃撃戦が続く中、激烈な敵の突撃によって何人かは負傷していた。突然、敵の手榴弾が、アンダーソン一等兵の頭の横に沿って転がると海兵隊員たちの中程に落下すると自らの安全を顧みずに彼は躊躇せずに手を伸ばして手榴弾を抱え込むと周辺から離れて体を丸めた。
数名の海兵隊員が手榴弾の破片を受けたが、彼の体によって爆発の主要な力は奪われた。このアンダーソン一等兵の著しい英雄的行為によって彼の戦友たちは重傷や死を免れることができた。
彼の個人的英雄行為、並はずれた勇気そして鼓舞する最高の自己犠牲は大きな名誉を自身そして海兵隊にもたらし合衆国海軍職務の最高の伝統を支えた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
リンドン・B・ジョンソン
リチャード・A・アンダーソン上等兵
1969年:ベトナム
第3海兵師団第3偵察大隊E中隊
1948年4月16日 | ワシントンDCにて生まれる |
1968年4月8日 | 海兵隊入隊 |
1969年8月24日 | 戦死 |
感状:
彼は、ベトナム共和国にて第3海兵師団第3偵察大隊E中隊小火器班補佐として武装した敵に対する作戦行動において、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1969年8月24日、早朝、パトロールを指揮する間、アンダーソン上等兵の偵察部隊は、数に優れ、巧みに隠蔽された敵部隊から、自動火器及び機関銃の猛烈な射撃を受けた。
激しい銃撃戦が始まった直後にアンダーソン上等兵は両足に重傷を負い地面に倒れたが、伏せ撃ちの姿勢のまま激しい制圧射撃で攻撃者を撃退する試みを続けた。
僅かに遅れて、彼はチームに8フィートまで接近した敵によって二度目の負傷をしたが、彼は恐れずに情け容赦のない射撃を突撃部隊に発砲し続けた。
彼自身と他の海兵隊員の間に敵の手榴弾を認めたアンダーソン上等兵は直ちにその上に転がり、そして殺傷兵器を彼の体で覆い、爆発の衝撃の全てを吸収した。
彼の率先して呼び起こされた不屈の勇気、そして、義務に対する無私の忠誠によってアンダーソン上等兵は何人かの海兵隊員を重傷と確実な死から救うことができた。彼の行動は海兵隊そして合衆国海軍の気高い伝統を支えた。
彼は、彼の祖国の職務に彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
リチャード・B・アンダーソン一等兵
1944年:マーシャル諸島クウェゼリン環礁ロイ島
第4海兵師団第23海兵連隊第2大隊E中隊
1921年6月26日 | ワシントン州タコマで生まれる |
1942年7月6日 | 海兵隊入隊 |
1944年2月1日 | 戦死 |
感状:
彼は1944年2月1日、第4海兵師団の一員として活動した際、マーシャル諸島クウェゼリン諸島ロイ島の敵日本軍部隊との戦闘で、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
アンダーソン一等兵は三人の海兵隊員と共に砲弾痕に入った
アンダーソン一等兵は敵陣へ手榴弾を投げようとしたが、手榴弾は彼の手から滑り落ち、そして穴の底へと転がり落ちた。武器を投げるための十分な時間がないため、アンダーソン一等兵は危険を恐れず、手榴弾の上に彼の体を投げ出し、爆発の衝撃を全て受け止めることにより、自らを犠牲にして戦友たちを救った。
彼の個人的勇気、ほぼ確実な死に直面した際の並はずれた忠誠心は合衆国海軍の気高い伝統を遵守した。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
フランクリン・D・ルーズベルト
エドウィン・N・アップルトン伍長
1900年:中国(天津)
海軍分遣隊84号
1876年8月29日 | ニューヨーク州ブルックリンで生まれる |
感状:
1902年3月22日、天津近郊における戦いにおいて敵前で顕著な活躍を行った。
オスカー・P・オースチン一等兵
1969年:ベトナム
第1海兵師団第7海兵連隊第2大隊E中隊
1948年1月15日 | テキサス州で生まれる |
1968年7月 | 海兵隊入隊 |
1969年2月23日 | 戦死 |
感状:
ベトナム共和国の敵軍に対する作戦を行う第1海兵師団第7海兵連隊第 2 大隊 E 中隊に所属する機関銃補佐として行動している際に示した義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1969年2月23日の早朝、オースチン一等兵のいる監視所は、大量の手榴弾、かばん爆弾そして小火器に支援された大規模な北ベトナム陸軍部隊によって激しい地上戦に巻き込まれた。
彼の仲間の一人が、敵の銃火にさらされた地点で負傷し、意識不明に陥ったことに気づいたオースチン一等兵は素早く自身の塹壕から飛び出すと、自身の安全を全く顧みずに海兵を防御された場所へ助け出すために掃射を受けている地形を走って横切った。
彼が負傷者に近付いたとき、敵の手榴弾が間近に落下するのを見ると即座に反応し、負傷した海兵と致命的な物体の間へ飛び込み、その爆発の効果を吸収した。
彼が自らの傷に耐えながら、負傷した仲間を調べるために回り込んだとき、彼は北ベトナム陸軍兵士が武器を、その意識不明の仲間へ向けているのを見た。
ほぼ確実な結果と十分な知識により、オースチン一等兵は海兵隊員を守ろうとだけ考え、自らを負傷者と敵兵の間に断固として投げ出し、それにより致命傷を負った。
オースチン一等兵の自発性を呼び起こす不屈の勇気そして義務への無私無欲の献身は海兵隊そして合衆国海軍職務の最も高い伝統を支えた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン