名誉勲章受章者-B-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
ロバート・C・バーク |
一等兵 |
1968 |
ベトナム |
ジェームズ・バーンズ |
兵 |
1900 |
中国(天津) |
リチャード・E・ブッシュ |
伍長 |
1945 |
沖縄 |
スメドリー・D・バトラー |
少佐 |
1915 |
ベラ・クルス |
スメドリー・D・バトラー |
少佐 |
1917 |
ハイチ |
ウィリアム・R・バットン |
伍長 |
1919 |
ハイチ |
受賞者B-2 |
ロバート・C・バーク一等兵
1969年:ベトナム
第1海兵師団第27海兵連隊第3大隊I中隊
1949年11月7日 | イリノイ州モンチシエロで生まれる |
1967年3月17日 | 海兵隊予備役入隊 |
1967年5月16日 | 海兵隊入隊 |
1968年5月18日 | 戦死 |
感状:
1968年5月17日、ベトナム共和国における第1海兵師団第27海兵連隊第3大隊I中隊の機関銃手としての職務から、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
アレン・ブルック作戦中にI中隊がリ・ナム(1)の小村に接した乾いた河床と厚く樹木が茂った木の稜線に近付いたとき、彼らは突然、大規模な迫撃砲弾、ロケット推進榴弾、自動火器そして小火器の激しい銃撃を浴びせられ、巧みに偽装した敵部隊により、何人かの海兵隊員が負傷し、そして中隊の前進を停止させた。
死傷者を避難させ、部隊を前進させることを可能にするための抵抗のキーポイントが排除することだとはっきりと認識したバーク上等兵は、躊躇せずに、彼の機関銃をつかむと、防備の固められた砲座に対して連続した単独攻撃を与えた。
彼が急な川岸の縁に攻撃的な行動を取って、彼はいくつかの敵掩蔽壕へ正確な制圧射撃を送り込み、彼の戦友が負傷した海兵隊員を比較的安全な位置に動かすことを可能にした。
彼は自らの戦闘行動を継続し、彼はその位置から強烈な銃撃を送り込み、そして抵抗を続ける自動火器の砲座から逃げようと試みた北ベトナム軍兵士三人を殺害した。
バーク一等兵は武器が作動不良を起こすまで、敵の銃撃を抑え、一カ所から大胆にも別な場所へと動いた。死傷者たちのライフルと手榴弾を獲得して、彼は更に敵中央へ向かって前進した。仲間の海兵隊員が彼の故障した機関銃を修復したことに気付くと、彼は彼の武器をつかむと危険なほどに露出した地域に移り、そして彼が致命傷を負うまで、敵を並木に押さえ込んだ。バーク一等兵の勇敢な行為は、合衆国海兵隊と合衆国海軍職務の崇高な伝統を支えた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
ジェームズ・バーンズ兵
1900年:中国(天津)
海軍分遣隊84号
1870年1月14日 | マサチューセッツ州ウォーチェスターで生まれる |
感状:
1900年6月20日、中国天津で渡河する際、小舟に他の三人と共に乗り込み、激しい銃撃の下、敵の占拠する建造物の破壊を支援した。
リチャード・E・ブッシュ伍長
1945年:沖縄
第6海兵師団第4海兵連隊第1大隊
1924年12月23日 | ケンタッキー州グラスゴーで生まれる |
1942年9月22日 | 海兵隊入隊。後、強襲大隊配属 |
1945年4月16日 | 名誉勲章 |
2004年6月7日 | 死去 |
退役時、上級曹長 |
感状:
1945年4月16日、琉球諸島沖縄八重嶽山に対する最終攻撃中、日本軍に対して行った第6海兵師団第4海兵連隊第1大隊所属の分隊長としての義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
不屈の決意によって前進する彼の部下は再編成され、ブッシュ伍長は彼の分隊を困難な断崖表面の上へと導くために、砲が配置された山岳要塞から下に集中して送り込まれる容赦のない獰猛な日本軍の砲撃を大胆にも無視し、巧妙に根付いた地点から防御部隊を追い出し、丘を掃討した。
彼の部隊とともに、八重嶽山の防衛戦内を突破する先陣として、彼は他の防衛された岩々の麓において、重傷を負って避難させられるまで情け容赦なく戦った。
グループの中に、日本軍の手榴弾が落下すると治療中で衰弱していたにもかかわらず、ブッシュ伍長は、戦闘中の窮地において機敏に、そして果敢にも、彼自身方へ致命的な飛び道具を素早く引き寄せ、そして彼自身の体で爆発の衝撃による破片の損害を吸収し、それによって自身の生命の危険を確信しながら、重傷或いは死から彼の仲間の海兵隊員を救った。
凶暴な対戦相手に直面した彼の勇敢なリーダーシップと攻撃的戦術によって、ブッシュ伍長は彼の部下の幸福のために、彼の不変の信念と、この日本帝国によって堅固に守られた前哨点の占領を押し進め、成功を実質的に与えられ、彼の自己犠牲の断固たる精神と彼のつらい戦いの最中の義務への不動の忠誠がアメリカ合衆国海軍職務の高い伝統を支えた。
ハリー・S・トルーマン
スメドリー・D・バトラー少佐
1915年:ベラ・クルス
1917年:ハイチ
ベラ・クルス:海軍分遣隊177号
ハイチ:USSコネチカット分遣隊
1881年7月30日 | ペンシルヴァニア州ウェストチェスターで生まれる |
1898年5月20日 | 少尉任官 |
1900年7月23日 | 天津において顕著な活動により大尉昇進 |
1914年4月22日 | ベラ・クルスにおける活躍に対し、名誉勲章 |
1915年11月17日 | ハイチにおける活躍に対し、二つ目の名誉勲章 |
1918年10月7日 | 大佐昇進。第13海兵連隊長としてヨーロッパ参戦 |
1927年3月 | 第3海兵旅団長 |
1931年10月1日 | 少将にて退役 |
1940年6月21日 | 死去 |
※沖縄キャンプ・バトラーは、この方に由来します。 |
感状:ベラ・クルス
戦いにおける顕著な行為のために、1914年4月22日のベラ・クルスの接触において彼の大隊を指揮する際、冷静で卓越していた。彼は22日の戦いにおいて、彼の部下を導く際、そして都市の最終占領において勇気と技術を示した。
感状:ハイチ
第5、第13、23中隊及びUSSコネチカットからの海兵隊及び水兵分遣部隊指揮官として、バトラー少佐は、1915年11月17日にハイチのリビエラ要塞攻略を導いた。激しい追撃の後、幾つかの異なる海兵隊分遣隊は、カコ山賊のための退却路全てを遮断するために、古いフランスの要塞に徐々に迫った。
小さな開口部のある南側の壁に到達すると、バトラー少佐が攻撃開始の合図を行い、そして第15中隊からなる海兵隊は、裂け目を抜けて押し寄せ、カコと白兵戦によってぶつかり、カコの抵抗を鎮圧し、そして要塞を占領した。
この危険な戦闘のあらゆる場所で、バトラー少佐は、彼の勇敢で力強いリーダーシップで目立っていた。
ウィリアム・R・バットン伍長
1919年:ハイチ
海軍分遣隊568号
1895年12月3日 | ミズーリ州セントルイスで生まれる |
1917年 | 海兵隊入隊 |
1920年6月30日 | 1919年10月31日、11月1日の功績により名誉勲章 |
1921年4月5日 | ハイチにて死亡 |
感状:
1919年10月31日夜から11月1日にかけて、ハイチのグランデリビエラ共和国近隣の敵との実戦に際し、大胆かつ際だった勇敢な行為そして並はずれた英雄的行為により、ハイチ共和国の最大の山賊の長シャルルマーニ・ペラルテの死と、そして彼の信奉者である無法者約1200名を殺害或いは逮捕そして一掃させた。
彼の司令の下、ジェンダーメリーの分遣隊のウィリアム・R・バットン伍長は、彼の優れた判断とリーダーシップにより、彼が優れていただけでなく、非常に小さな過ちでも、彼の生命だけでなく彼の命令下にあるジェンダーメリーの分遣隊の生命をも失ったであろうとき、自ら動揺することなく個人を非常に危険な状態にさらした。
彼の作戦はハイチ共和国への言い表せない重要性を疑いなく証明することに成功して終了した。
受賞者B-2 |