名誉勲章受章者-B-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
チャールズ・J・ベリー |
伍長 |
1945 |
硫黄島 |
リチャード・ビンダー |
軍曹 |
1864 |
フィッシャー砦 |
ジョン・P・ボーボ |
少尉 |
1967 |
ベトナム |
アレキサンダー・ボニーマン Jr. |
中尉 |
1943 |
タラワ |
ウィリアム・J・ボーデロン |
二等軍曹 |
1943 |
タラワ |
アーウィン・J・ボイドストン |
兵 |
1900 |
中国(北京) |
グレゴリー・"パピー"・ボイントン |
少佐 |
1943 |
ソロモン |
チャールズ・ブラウン |
伍長 |
1871 |
朝鮮 |
ダニエル・D・ブルース |
一等兵 |
1969 |
ベトナム |
ハワード・M・バックリー |
兵 |
1899 |
フィリピン |
受賞者B-1 |
チャールズ・J・ベリー伍長
1945年:硫黄島
第5海兵師団第26海兵連隊第1大隊G中隊
1923年7月10日 | オハイオ州ロレインにて産まれる |
1941年10月1日 | 海兵隊入隊。後、パラ・マリーンに志願 |
1943年10月 | ヴェラ・ラ・ヴェラ-ブーゲンビル(-1944/2まで) |
1945年3月3日 | 戦死 |
感状:
1945年3月3日、火山島群硫黄島奪取の戦闘中、第5海兵師団第26海兵連隊第1大隊の機関銃要員の一人として、敵日本軍部隊に対する義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
最前線に配置されて、彼が危険な夜の時間中に彼の銃隊の他の仲間と休みなく寝ずの番を彼は継続したので、ベリー伍長は用心深く用意すると共に彼の武器に要員を配置した。
日本軍が潜入し、彼の地点を通り抜ける試みに夜半直後に奇襲を開始したとき、彼は投げ込まれた手榴弾の対決に従事した。致命的な正確さで塹壕に落ちた物騒な武器である敵手榴弾まで迅速に戻った。彼は彼の戦友を救うことを決心し、深躊躇うことなく自らを犠牲にすることに決め、重傷から他者を守るために致命的なミサイルに飛び込み、彼自身の体で爆発の衝撃の暴力による破片を受け止めた
タフな心と不屈のベリー伍長は、彼自身の生命を恐れずに捧げ、彼の同僚の海兵隊員たちへ無慈悲な敵に対する無情な戦いへ運ぶ力を与え、確実な死に直面した際の義務による彼の素晴らしい勇気と躊躇うことのない忠誠は最高の名誉を彼自身と合衆国海軍職務にもたらした。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
リチャード・ビンダー軍曹
1864年:フィッシャー砦
USSタイコンデロガ
1839年7月26日 | ドイツで生まれる |
1861年7月11日 | 海兵隊入隊 |
1864年 | 名誉勲章 |
1865年7月19日 | 名誉除隊 |
1912年2月26日 | 死去 |
感状:
1864年12月24日及び25日、そして1865年1月13日から15日にかけてフィッシャー砦に対する攻撃中、USSタイコンデロガに乗船していた。
8人を殺害し、更に12名を負傷させた敵からの激しい応射と100ポンドものパロットライフルの爆発にもかかわらず、ビンダー軍曹は砲の隊長として最初の二日間の戦いの間の技術と勇気によって義務を遂行した。
ジョン・P・ボーボ少尉
1967年:ベトナム
第3海兵師団第9海兵連隊第3大隊I中隊
1943年2月14日 | ニューヨーク州ナイアガラで生まれる |
1965年12月17日 | 海兵隊少尉に任命 |
1967年3月30日 | 戦死 |
感状
1967年3月30日、ベトナム共和国クアンチ省における第3海兵師団第9海兵連隊第3大隊I 中隊武器小隊小隊長としての義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
司令集団が、重機関銃と迫撃砲によって支援され、増強された北ベトナム軍中隊によって攻撃を受けたとき、I中隊は夜間の待ち伏せ陣地を設営していた。ボーボ少尉は、緊急防衛を組織化し、拠点からの殺人的な敵の銃撃にもかかわらず、数に劣る海兵隊を励ます地点へと移動した。彼は味方の死傷者の中からロケットランチャーを回収して、新たな射撃チームを組織化すると敵の機関銃陣地へその射撃を指示した。
敵の迫撃砲弾が爆発し、ボーボ少尉の右足を膝下から切断したとき、彼は指揮集団をよりよい地点への移動を支援できる射撃地点へ配置されることを主張し、避難することを拒絶した。
出血を抑えるために泥に押し込まれた足、そして出血を止めるために彼の足に巻かれた装備ベルトが止血帯として役立ち、彼は、この拠点に留まり、そして破壊的な射撃を海兵隊を圧倒しようと試みる敵の列へ届けた。
ボーボ少尉は、迫撃砲の負傷にもかかわらず、彼の武器を敵の攻撃の集中点に向けて打ち続けた彼の勇敢な精神は、彼の部下を英雄的な奮闘に鼓舞し、そして粘り強く持ちこたえたことによって、指揮集団は防御性のある地点を得ることが可能となり、それにより敵の猛攻撃を撃退できた。
ボーボ少尉の素晴らしい統率力、恐れを知らない勇敢さと大胆な独創力は大きな名誉を自らと合衆国海兵隊そして合衆国海軍職務にもたらし、崇高な伝統を支えた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
リンドン・B・ジョンソン
アレキサンダー・ボニーマン Jr.中尉
1943年:タラワ
第2海兵師団第8海兵連隊第2大隊
1910年5月2日 | ジョージア州アトランタで生まれる |
1932年6月28日 | 陸軍航空隊入隊 |
1932年9月19日 | 退役 |
1942年7月 | 海兵隊入隊 |
1943年2月 | 野戦任官により少尉昇進 |
1943年9月1日 | 中尉に昇進 |
1943年11月22日 | 戦死 |
感状:
1943年11月20日から20日までのギルバート諸島の敵日本軍に占有されたタラワに対する攻撃の際に第2海兵師団第8海兵連隊第2大隊上陸部隊副官としての義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
攻撃部隊が日本の海岸砲台の圧倒的な射撃によってベティオ桟橋の突き当たりで釘付けになったとき、敵の砲撃の激しい爆発を無視してボニーマン中尉は自ら進んで行動し、そのとき長い無蓋桟橋上で包囲された人を砂浜に導いて組織化した後、自発的に獲得している火炎放射器と爆薬により、突撃破壊班を彼の戦闘工兵海岸部隊に組織化し、D-DAYの終了までに幾つかの敵軍事施設爆破を指揮した。
敵の強固に組織化された防衛線において始められた効果が決定した日の後に、彼は自発的に這うと、早期に破壊されたにもかかわらず、頑強に抵抗を続ける多数の日本軍の攻撃により、我々の前進を阻み、我々の部隊に多数の死傷者を与え続けている防空壕施設の強固な守備部隊に対抗する彼の攻撃計画における最初の動きとして、巨大な日本軍砲座の入り口と我が方の前線の約40ヤードに対して爆薬を配置した。
彼が弾薬を満たすときのみ後退し、彼は彼の部下を更なる攻撃に導き、彼は自らを敵防空壕の頂上の規模と入り口双方で爆薬を直接設置するように支持し、砲座内部の約150人の兵士を全滅させ、そして即座に分断された敵の100人以上を混乱させた。
彼が自らの目的を達成した後、増援の日本軍によって激しく攻撃され、致命傷を受け、絶望的な攻撃に直面して不屈の決意を持ち、戦略上重要な位置を守り、そして彼が倒れるまでに、敵の内三人を殺害し、要塞の峰に立ち、英雄を作った。根気強い激戦の三日間の間、彼の揺るぎない闘争心、強固で攻撃的、そして力強いリーダーシップによってボニマン中尉は、彼の部下が、彼らが反撃を追い払い、その地域における我々の部隊へのそれ以上の死傷者を受けつつも、即座に400ヤード目前を得る、その地域における敵抵抗の大半を終わらせることを可能にするの英雄的努力に駆り立てた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
ハリー・S・トルーマン
ウィリアム・J・ボーデロン二等軍曹
1943年:タラワ
第2海兵師団第18海兵連隊第1大隊戦闘工兵小隊
1920年12月25日 | テキサス州サンアントニオで生まれる |
1941年12月10日 | 海兵隊入隊。狙撃手資格取得 |
1943年11月20日 | 戦死 |
感状:
1943年1120日の日本軍に防衛されたギルバート諸島タラワ環礁に対する戦闘で、第2海兵師団第2海兵連隊へ戦術的に付属した第18海兵連隊第1大隊の戦闘工兵小隊の一員として義務の要求を遙かに超えた勇ましく、そして立派な行為による。
強襲上陸波による上陸の中、トラクターに乗り込んだ人々の内の4人を除く全員を殺した敵の砲火を衰えさせるべく、ボーデロン二等軍曹は爆薬を大急ぎで作ると、自ら二つの掩蔽壕に設置して活動を止めた。
防波堤を這い上がる人の群れから、自分自身に必要な援護射撃とライフルとともに、彼は勇気を持って止まり、攻撃を続け、破壊できなかったにもかかわらず、三つ目の陣地を襲撃している間に彼の手で爆破攻撃をしようとした時に敵機関銃の銃火が命中した。
重傷を負ったものの彼は無視して、彼は水中で負傷し、助けを必要とする、彼の爆破作業員の一人の応急処置を彼は素早く行い、この人を救助し、そして、救助を試みている間に、敵の銃撃を受けた別の者を救助した。
それでもなお、自らの応急手当を拒絶し、彼は再び爆薬を作り上げ、そして四つ目の日本軍機関銃陣地を独力で攻撃したが、敵からの最後の銃撃の掃射に捉えられ、即死した。
僅かな橋頭堡を確保することの危険な局面の間におけるボーデロン二等軍曹の偉大なる個人的勇気は島の究極の占拠をもたらす要素を与え、そして彼の英雄的決断は、最高の名誉を合衆国海軍職務にもたらす。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
フランクリン・D・ルーズベルト
アーウィン・J・ボイドストン兵
1900年:中国(北京)
海軍分遣隊55号
1875年4月22日 | コロンビア州ディアクリークで生まれる |
感状:
1900年7月21日-8月17日、ボイドストンは激しい砲火の下、北京の敵前における顕著な活躍によってバリケード建設を支援した。
グレゴリー・"パピー"・ボイントン少佐
1942年-1944年:ソロモン
第214海兵戦闘航空隊"ブラックシープ"隊長
1912年12月4日 | アイダホ州カーダレンで生まれる |
1934年 | ワシントン大学航空力学学士号取得 在学中、ROTCにより、士官候補生 6月より、予備役砲兵隊配属 |
1935年6月13日 | 義勇海兵隊予備役入隊。7月16日に義務をとかれ、ボーイング社に入社(設計及び技術者) |
1936年2月18日 | 海軍パイロット候補生任命 |
1941年8月26日 | 退役。アメリカ義勇軍フライングタイガースに参加。12月7日までに6機撃墜 |
1943年4月 | 現役に復帰し、第112海兵戦闘航空隊としてガダルカナルに参加後、第214海兵戦闘航空隊ブラックシープ指揮官 |
1944年1月3日 | ラバウル上空で撃墜数26機を達成後、撃墜され捕虜 ※撃墜されるまでに更に2機撃墜したことが後に確認。 |
1945年8月29日 | 東京で解放 |
1945年10月5日 | 名誉勲章授与 |
1947年8月1日 | 大佐にて退役 |
自伝コルセア戦記ベストセラー。後、映画及びテレビシリーズ化 | |
1988年1月11日 | 死去 |
感状:
1943年9月12日から1944年1月3日にかけて中央ソロモン区域における敵日本軍部隊に対して活動中の第214海兵戦闘航空隊の司令官としての義務の要求を遙かに超え、そして並はずれた英雄的行為による。
常に数で勝る堅固に守られた敵拠点の連続する冒険的な飛行の間中、ボイントン少佐は彼の航空隊を戦闘へ導き、大胆で勇敢な粘り強さを持つ敵を攻撃し、結果、日本船舶に壊滅的な打撃を与え、軍事施設と航空部隊を支援した。
破壊的な打撃を敵に与えようとする決心の固い彼の努力において、10月17日のカヒリ上空で24機の戦闘機からなる戦隊をボイントン少佐は先導し、そして、60機の敵航空機が離陸できなかった空港を持続的に旋回し、飛行機を上昇させると大胆に日本軍へ挑んだ。
彼の見事な命令の下、我が戦士たちは一隻の船の損失も無く次の攻撃において20機の敵航空機を撃墜した。
かなり不利な状況に対し、素晴らしい飛行士と決然とした戦士は、この戦略上極めて重要な地域における連合軍制空権の特徴ある要素であった彼の指揮によって戦闘準備を成熟させた彼の力強いリーダーシップ、そして彼の飛行大隊によって撃墜された多数の日本軍航空機の中、ボイントン少佐は個人的に26機目を破壊した。
フランクリン・D・ルーズベルト
※授与したのはトルーマン
チャールズ・ブラウン伍長
1871年:朝鮮
海軍分遣隊169号
1936年2月18日1849年 | ニューヨーク州ニューヨークで生まれる |
1870年6月27日 | 中国香港にて、USSアシュロットへ乗船 |
1872年2月8日 | 名誉勲章(授章前に逃亡) |
1871年10月12日 | 逃亡 |
感状:
1871年6月11日の朝鮮要塞のシタデルの中心における朝鮮軍の軍旗を獲得することを支援した。
ダニエル・D・ブルース一等兵
1969年:ベトナム
第1海兵師団第5海兵連隊第3大隊支援中隊及び司令部所属迫撃砲手
1950年5月18日 | インディアナ州ミシガンシティで生まれる |
1968年5月20日 | 海兵隊予備役入隊 |
1968年7月17日 | 海兵隊入隊 |
1969年3月1日 | 戦死 |
感状:
ベトナム共和国の敵に対する第1海兵師団第5海兵連隊第3大隊支援中隊及び司令部所属の迫撃砲手として、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
1969年3月1日早朝、ブルース一等兵は、彼の前方で動きを捉えたとき、クアンナム省におけるトマホーク火力支援基地で彼は夜間防衛陣地の歩哨に立っていた。
敵の爆発物が、彼の陣地へ投げられ、そして彼は直ちに反応して爆弾をつかむと彼の仲間に警告を出すために叫んだ。二人の保有者と共に周辺の陣地が危険にさらされることを悟ったブルース一等兵は爆薬を彼の体で押さえ込み、その堅固な海兵隊の周辺から運びだそうと試みた。
彼が去ったことで、仲間の海兵隊のうち三人の命を救い、そして勇気を奮い起こすブルース一等兵の不屈の度胸と義務に対する無私無欲の献身は合衆国海兵隊及び合衆国海軍職務の崇高な伝統を支えた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
ハワード・M・バックリー兵
1899年:フィリピン
第8陸軍軍団(海軍分遣隊55号)
1868年1月23日 | ニューヨーク州クロトンフォールズで生まれる |
感状:
1899年3月25日、27日、29日、そして4月4日における陸軍第8軍団に属する間、戦いにおける敵前での顕著な行為による。
受賞者B-1 |