名誉勲章受章者-D-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
デュアン・E・デウェイ |
伍長 |
1952 |
朝鮮 |
ラルフ・E・ディアス |
一等兵 |
1969 |
ベトナム |
ダグラス・ユージン・ディッキー |
一等兵 |
1967 |
ベトナム |
ジェームズ・ドーハーティ |
兵 |
1872 |
朝鮮 |
ジェイソン・L・ダナム | 伍長 |
2004 |
イラク |
ロバート・H・ダンラップ |
大尉 |
1945 |
硫黄島 |
ジェシー・F・ダイアー |
大尉 |
1914 |
ベラ・クルス |
アクリラ・J・ディース |
中佐 |
1944 |
ナムール諸島 |
受賞者D-1 |
デュアン・E・デウェイ伍長
1952年:朝鮮
第1海兵師団第5海兵連隊第2大隊E中隊
1931年11月16日 | ミシガン州グランドラピッズで生まれる |
1951年3月7日 | 海兵隊予備役 |
1952年4月16日 | 名誉勲章 |
1952年8月19日 | 退役 |
感状:
1952年4月16日、朝鮮板門店近郊の敵侵略部隊に対する戦闘において、第1海兵師団(増強)第5海兵連隊第2大隊E中隊機関銃小隊の機関銃手として従事している間に、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
敵の手榴弾が、この拠点近くに落下したとき、彼と彼の機関銃助手は数で勝る敵軍による激しい夜襲の間に負った彼らの傷の治療を受けていたが、デウェイ伍長は、激しい痛みを感じながらも、衛生兵を地面へ引き倒し、そして彼の周辺にいる他の海兵隊員に大声で警告すると、勇敢にも彼の身体で致命的ミサイルを覆い、自分自身の身体で爆発の衝撃全てを吸収し、致命傷の可能性から彼の戦友たちを救った。
彼の不屈の勇気は、ほぼ確実な死に直面した他者の代表する並外れた自発性と英雄的な努力は最高の名誉をデウェイ伍長にもたらし、そして合衆国海軍職務の最も優れた伝統を支えた。
ドワイト・D・アイゼンハワー
ラルフ・E・ディアス一等兵
1969年:ベトナム
第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊D中隊
1950年7月15日 | ペンシルヴァニア州インディアナで生まれる |
1967年10月9日 | 海兵隊入隊 |
1969年11月12日 | 戦死 |
感状:
1969年11月12日、ベトナム共和国における第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊D中隊のライフルマンとして従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
敵の銃撃によって釘付けにされた即応部隊の一員として、小隊の同じ状況を支援している間、ディアス一等兵は双方の部隊が死傷者を出していることに気が付くと、敵軍の銃撃の主力である敵の機関銃陣地に対する積極的な攻撃を開始した。開けた地域を横断して、突撃する間に敵の狙撃兵により重傷を負い、彼はすぐ側の岩の影に隠れた。次の時間に敵の銃撃に立ち向かいディアス一等兵は再び負傷した。
歩くことができず、彼は彼の目標近くに位置する岩の影まで15メートルを這うと、繰り返し、自身を激しい敵の銃撃にさらし、機関銃陣地へ向け、幾つかの手榴弾を投げたが失敗した。機関銃陣地を破壊するために決然と止まり、ディアス一等兵は再び我が身をさらし、そして狙撃手の銃撃によって三度目の傷を負った。
彼が最後の手榴弾を一方の拠点へ投げて破壊したとき、彼は別の敵の弾によって致命傷を負っていた。
ディアス一等兵の不屈の勇気、積極的な自発性そして義務への無私無欲の献身は合衆国海兵隊と合衆国海軍職務の最高の伝統を支えた。
彼は、彼の祖国の職務に彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
ダグラス・E・ディッキー一等兵
1967年:ベトナム
第3海兵師団第4海兵連隊第1大隊C中隊
1946年12月24日 | オハイオ州グリーンビルで生まれる |
1965年12月13日 | 海兵隊予備役 |
1966年4月11日 | 海兵隊入隊 |
1967年3月26日 | 戦死 |
感状:
1967年3月26日、ベトナム共和国の第3海兵師団第4海兵連隊第1大隊C中隊第2小隊員として従事している間に義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
ビーコンヒルI作戦に参加中の第2小隊は濃密なジャングルの中でベトコンと激しい接近戦を行っていた。
ディッキー一等兵は、この激戦において、負傷して医療衛生兵による治療を受けている通信手と交替するために進み出た。突然、敵の手榴弾が、負傷して動けない通信手を含む海兵隊員のグループの中に落下した。
最終的な勇気ある行動により、ディッキー一等兵は彼の行動の確実な結果を十分理解しながら、素早くそして躊躇うことなく、彼自身の身体で爆発の十分そして完全な力を吸収するため、致命的な手榴弾の上へ自らを投げ出した。
ディッキー一等兵の個人的勇気、並外れた勇敢そして無私無欲の大胆さは自らの生命を犠牲にし、確実な負傷と死の可能性から、多くの彼の戦友を救った。彼の行動は、最高の名誉を自身、合衆国海兵隊そして合衆国海軍職務にもたらした。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
リチャード・M・ニクソン
ジェームズ・ドーハーティ兵
1872年:朝鮮
USSキャロンデレット海軍分遣隊169号
1839年11月16日 | アイルランド ランハッシュで生まれる |
1869年7月31日 | 海兵隊入隊 |
1872年2月8日 | 名誉勲章 |
1893年8月22日 | 退役 |
1897年11月25日 | 死去 |
感状:
その船の様々な戦いにおいてUSSキャロンドエレットに搭乗していた。数回負傷したドーティは、変わることなく職務に戻り、旗への忠誠と不変の見本を示した。
ジェイソン・L・ダナム伍長
2004年:イラク
第1海兵師団第7海兵連隊第3大隊K中隊
1981年11月10日 | ニューヨーク州サイオで生まれる |
2004年4月14日 | シリア国境付近で投げられた手榴弾におおいかぶさり、重傷 |
2004年4月22日 | 収容先の病院で死亡 |
2006年11月10日 | 名誉勲章 |
感状:
2004年4月14日、第1海兵師団(増強)連隊戦闘チーム7第7海兵連隊(増強)第3大隊K中退第4小隊ライフル分隊長として従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立って勇敢な行為と大胆さによる。
ダナム伍長の分隊はイラク、カラビラの町において偵察任務を行っていた、そのとき、彼らは約2キロメートル西でロケット推進擲弾と小火器の銃撃が噴出するのを耳にした。
ダナム伍長は、それがキャンプ・ハッサイバへ移動している時に待ち伏せられた、彼らの大隊指揮官のコンボイへ彼の合同対装甲チームを率いて向かい、火力支援を提供するために交戦した。
ダナム伍長と彼の海兵隊員が前進したとき、彼らはすぐさま敵の銃撃を受け始めた。
ダナム伍長は彼の分隊に彼らの車両から降りるように命令し、そして待ち伏せられたコンボイの数ブロック南に徒歩で彼の射撃班の一つを導いた。
発進しようとしている7台のイラク人車両の車列を発見したダナム伍長と彼のチームはそれらが武器を持っていないか調べるために車両を停止させた。
彼らが車両に接近したとき、反乱者は躍り出るとダナム伍長に襲い掛かった。
ダナム伍長は地面に反乱者を組み伏せ、そして、なおもあがく反乱者が手榴弾を放すのを見た。
ダナム伍長は即座に彼の海兵隊員仲間に脅威を警告した。
差し迫った危険を意識し、そして躊躇うことなくダナム伍長は彼のヘルメットと身体で手榴弾を覆い、爆発の矢面に立って爆風から彼の海兵隊員たちを保護した。
彼が致命傷を負った究極の、そして勇敢な献身的行為において、彼は少なくとも2人の海兵隊仲間の生命を救った。
彼の怯むことのない勇気、大胆不敵な闘争心、そして任務への揺るぎない忠誠によって、ダナム伍長は彼の祖国のために彼の生命を勇敢に捧げ、それによって彼自身に最高の名誉をもたらし、そして海兵隊と合衆国海軍職務の崇高な伝統を鼓舞した。
ロバート・H・ダンラップ大尉
1945年:硫黄島
第5海兵師団第26海兵連隊第1大隊C中隊長
1920年10月19日 | イリノイ州アビンドンで生まれる |
1942年3月5日 | 海兵隊予備役 |
1942年7月7日 | 少尉任官 |
1942年11月23日 | 第3空挺大隊 |
1944年3月 | 第5海兵師団第26海兵連隊第3大隊G中隊機関銃小隊長 |
1944年10月2日 | 同第1大隊C中隊長(大尉昇進) |
1945年2月20日 | 名誉勲章 |
1945年2月26日 | 腰に被弾。 |
1946年4月20日 | 退院 |
1946年12月1日 | 少佐にて退役 |
2000年3月24日 | 死去 |
感状:
1945年2月20日及び21日、火山列島硫黄島の攻略の間、敵日本軍部隊に対する戦闘において第5海兵師団代26海兵連隊第1大隊C中隊長としての義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
日本軍の絶え間ない大砲、迫撃砲、ライフルそして機関銃の砲撃の絶え間ない爆風をものともせずにダンラップ大尉は、彼の前線まで高い位置にある洞窟からの敵銃撃の凄まじい量に彼の前進を一時的に停止させられてから着実に少しずつ前進しつつ、彼の兵隊たちを榴弾と銃弾の壊滅的な雨を敵が注ぐ険しい崖に向かって低地から坂の上へ決然とした前進で導いた。
屈服しない決意も固く、彼は彼の前線の約200ヤード前方まで単独で匍匐し、日本軍前線から50ヤードの崖の陣地を注意深く観察を行い、敵の機関銃陣地の配置を確認し、支援砲撃と艦砲射撃に極めて重要な情報を彼は伝え、彼自身の前線へと戻った。
繰り返し、彼個人の安全を無視し、彼はより正確な支援砲撃を指揮するために彼自身をむき出しの絶好の位置に置き、そして絶え間ない敵の銃撃下、二日二晩の間、休むことなく働き、多数の障害と厳しい海兵隊員の死傷者にもかかわらず、ほぼ難攻不落の日本軍陣地に対し、破壊的な砲爆撃を巧みに指揮した。
輝かしいリーダーのダンラップ大尉は、戦闘の重大な局面における英雄的努力によって彼の部下を鼓舞し、そして熱狂的敵対者に直面しての彼の冷静な決断力、不屈の闘争心と大胆な戦術により、彼の地域と彼の中隊の間断無い前進を実質的に進め、日本軍を追い詰め、最後には決定的な敗北を大いに加速した。
彼の偉大な個人的勇気と苦い戦争行為を通じての自己犠牲の雄々しき精神はダンラップ大尉と合衆国海軍職務に最高の名誉をもたらした。
ハリー・S・トルーマン
ジョス・F・ダイアー大尉
1914年:ベラ・クルス
海軍分遣隊177号
1877年12月2日 | ミネソタ州セント・ポールで生まれる |
1898年 | 第13ミネソタ歩兵として米西戦争に従軍 |
1903年 | 海兵隊少尉任官 |
1914年4月21日 | 名誉勲章 |
1937年 | 大佐にて退役 |
1942年 | 准将昇進 |
1955年3月31日 | 死去 |
感状:
1914年4月21日及び22日におけるベラ・クルスの交戦における顕著な行為による。双方の日の戦闘で、彼は中隊の先頭に立ち、そして技術と勇気によって彼の部下を導き、彼の戦闘において卓越し、そして際立っていた。
アクリラ・J・ディース中佐
1944年:マーシャル諸島クウェジェリン環礁ナムール島
第4海兵師団第24海兵連隊第1大隊長
1909年1月11日 | ジョージア州アンダーソンヴィルで生まれる |
1931年 | 陸軍予備役少尉 |
1932年 | クレムソン大学にて建築学士号 |
1936年11月 | 海兵隊予備役中尉 |
1937年 | ナショナルマッチ出場の海兵隊ライフルチームの一員として銅メダル |
1944年2月2日 | 戦死 |
感状:
1944年2月1日及び2日、マーシャル諸島クウェジェリン環礁ナムール島の襲撃中、敵日本軍部隊に対する戦闘において第4海兵師団第24海兵連隊第1大隊の指揮官として義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
日本軍の自動火器からの容赦ない銃撃を恐れず、ディース中佐は襲撃の二日目に躊躇することない姿勢で彼自身を目標の確保のために敵前戦の間におき、接近する道と自らの先導で兵士たちを前進させ、強力な最終攻撃を行った。油断無く、そして決然と攻撃のペースを速めたことに対し、激しくなる敵の銃撃に、彼は常に前進する部隊の先頭に立ち、彼の部下たちを日本軍の抵抗の中心部に後退させ追い詰めるまで突き進むように奮い立たせた。最後の敵陣地に対する側面攻撃中に歩兵の集団を指揮し、対戦車壕の塹壕上に立ち上がったとき、ディース中佐は敵の機関銃の掃射によって殺害された。
彼の大胆で力強いリーダーシップ、そして恐ろしい抵抗に直面しての彼の雄々しい闘争心は合衆国海軍職務の最高の伝統を支えた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
フランクリン・D・ルーズベルト
受賞者D-1 |