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Quotation(海兵隊を語る言葉)

「アメリカの海兵隊員に直面したとき、私の部下にはパニックが吹き荒れる」
Panic sweeps my men when they are facing the American Marines.
捕虜になった北韓軍少佐

朝鮮戦争

 北韓軍の侵略に国連軍は撤退に次ぐ撤退でした。海兵隊は、急遽、第1海兵旅団を派遣するとともに、第2海兵師団の人員だけでなく、予備役もかき集め、太平洋を渡らせました。

「任務のために海兵連隊戦闘チームと支援航空集団を即座に配備する要請を、ここに命じる…」
-ダグラス・マッカーサー元帥からの1950年7月2日の要請

 海兵隊が到着した頃、事態は更に悪化。本隊が完全に揃うまで待つ予定だったものの、戦局はそれを許さず、海兵隊は前線へと送られました。

「…彼ら海兵隊員たちは、粋である。信頼、シェナンドアのストーンウォール・ジャクソンの陸軍のような不屈さ。彼らはダンケルクのコールドストリームを思い出させる」
-1950年8月16日、東京のイギリス軍司令部へ報告されたイギリス軍将校の日誌

 朝鮮戦争初期は、混乱状態が続き、アメリカ軍と韓国軍は半島の片隅にまで追い込まれていました。マッカーサー将軍は、乾坤一擲の作戦として、北韓軍の背後に当たる仁川への上陸を提案。周囲の大反対もありましたが、マッカーサー将軍は1950年8月、第1海兵師団長オリバー・P・スミス少将との対談で、

「私は、この作戦が多少混乱していることは分かっている。しかし、第1海兵師団が仁川に上陸することによって戦争は勝利へと向かう」

 と語りました。

 インチョン上陸作戦クロマイトは、地形的には最悪でしたが、むしろ、そのために北韓軍は不意を突かれ、僅かな抵抗で、歴戦の第1海兵師団と、太平洋の戦いでも海兵隊と共に上陸作戦を行った経験のある第7歩兵師団は見事仁川の上陸に成功。

 ソウルへの進軍は、少し戸惑ったものの、陸軍が投入されると聞いた海兵隊は、臆病な陸軍が安全に前進できるようにと攻撃を強化し、ソウルの奪還に成功。

 海兵隊嫌いのトルーマン大統領は8月末にマクダナー議員への手紙で、渋々、海兵隊の存続を認めていましたが、9月6日、第19代海兵隊司令官クリフトン・B・ケイツ大将に書簡を送りました。

「私は、私が海兵隊に冠するマクダナー議員への8月29日の私の手紙で用いた言葉の不運な選択を心から残念に思う」

 大統領の全面降伏でした。

 本国での大統領との戦いに勝利する一方、仁川に上陸した第1海兵師団はソウルへと進んでいました。北韓軍は、背後を突かれたことや、元々、短期決戦のつもりで挑んだことで既に初期の勢いを失い、やっと国連軍は一息吐く余裕ができました。前線を視察したマッカーサー将軍は、9月21日、ソウル郊外で、

「私は、前線で海兵隊の視察からちょうど戻ってきた、そして、世界において彼らより素晴らしい戦闘組織は存在しない!」

 と海兵隊を賛美しました(実際には"第7歩兵師団と")。

 仁川上陸作戦クロマイトは、地形的には最悪の状況で作戦を成功させただけでなく、戦局を覆す大きな成果も上げた作戦でした。ビマード・ブロディ著の"海軍戦略ガイド"238ページには、こう記されています。

「朝鮮西岸仁川で1950年9月に合衆国海兵隊の水陸両用上陸は、海軍の歴史上、最も大胆かつ目を見張るほど成功した水陸両用上陸の一つであった」

 一方で、また手柄を取られた陸軍の参謀将校の一人が、海兵隊員がソウルに星条旗を掲揚する姿を見て、「海兵隊員は戦いでは武器よりも星条旗を運び込む」と不平を言ったことに対し、プラー大佐は、

「彼のパック内の旗と、敵の拠点にそれを掲げたいという願望を持つ男が怖じ気づくことはない」

 と返答しました。

 1950年11月、第1海兵師団は戦場を東部に移していました。その頃、逆に追い詰められていた北韓の救援のために中国軍が国境を密かに越え、半島へと部隊を進めていました。行動は完全に秘匿され、国連軍は気が付かないうちに包囲されつつありました。

  1950年11月末、各地で中国軍の攻勢が開始されました。不意を突かれた国連軍は各地で撃破され、陸軍は一個師団を包囲網突破の失敗で失いました。

 このこともあり、第X軍団司令官アマンド中将は、中国第9軍集団12個師団によって包囲されつつある第1海兵師団も、その危険があるとして、師団長スミス少将に対し、まだ制圧下にある空港から、師団を空輸で撤退させるよう命じました。しかし、スミス少将が輸送機に乗せたのは身動きのとれない死傷者のみでした。

「私は私の脱出のために戦うつもりでいる、私は全ての私の装備と全ての私の負傷者、そして、私にできる限りの死者を脱出させる戦いをするつもりである。もし我々がそのように脱出できなければ、この師団は、部隊として再び戦うことはない」

 空路による脱出の提案に、スミス少将はそう答えるとチョシン貯水池から、徒歩で撤退する決意を表しました。

 海兵隊将校としては珍しく読書家で物静かなスミス少将は、それでも海兵隊将校でした。撤退に対する記者会見で、撤退(Withdrawal)か退却(Retreat)が従軍記者からの質問を受けたスミス少将は穏やかに、その言葉は現在の第1海兵師団の立場から考えてどちらも相応しくなく、ただ、背後の敵に向かって攻撃の矛先を向け直すだけだと回答。この言葉は、第1次世界大戦の有名な、「撤退だって畜生! 俺たちはたった今ここに着いたところだぞ!」をもじった、

「撤退だって畜生! 我々は、別な方角へ向けてまさしく攻撃するだけだ」
”Retreat hell! We're just attacking in another direction.”

 となって、新聞の見出しを飾りました。第1海兵師団の状況は、普通に考えれば絶望的でした。兵力は第1海兵師団と合流する途中に第9軍集団にずたぼろにされたイギリス軍(イギリス海兵隊第42コマンドゥ)と僅か。対する第9軍集団は12個師団。

 師団長とは違って、どこから見ても典型的な海兵隊将校。海兵隊員となってから、今まで前線指揮官一本道、ペリリューで解任されたものの朝鮮の戦いで再び第1海兵連隊長となったルイス・B・"チェスティ"プラー大佐は、

「俺たちは、これまでの数日間、敵を探していた。俺たちは最終的に見つけた。俺たちは包囲された。それは奴らのところへ行って、奴らを殺す問題を単純化した」
”We've been looking for the enemy for several days now. We've finally found them. We are surrounded. That simplifies the problem of getting to these people and killing them.”

「お前たちは、お前たちが第1海兵連隊の海兵隊員であることを忘れるな! 地獄で共産主義者ども全員が、お前たちに群がれる訳ではない!」
”Don't you forget that you're Marines- First Marines! Not all the communists in hell can overrun you!”

 と部下にハッパをかけました。幸いなのは海兵隊には豊富な航空支援があったことと、第9軍集団は内乱当時からの歴戦部隊でしたが、南部出身者が多く、冬季装備も十分ではありませんでした。

 この10日間の攻勢で、第1海兵師団は包囲網の突破に成功。一方、第9軍集団は極寒と、海兵隊の受けられた最大のそして唯一の支援である航空攻撃によって消滅していました。

「私は、より多くの海兵隊員が私の周囲にいることを、私はより好む」
”The more Marines I have around the better I like it.”
-国連軍指揮官マーク・クラーク大将。第2次世界大戦ではイタリア戦線を担当

「国防総省の巨大な複合体で、海兵隊員は孤独な回転をする」
”In the vast complex of the Department of Defense, the Marine Corps plays a lonely roll.”
-1951年4月17日、議会軍委員会で海軍長官補ジョン・ニコラス・ブラウンの発言。

戦後

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