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Quotation(海兵隊を語る言葉)

「そして、神によって一度だけ、私は海兵隊員であった!」
”And once by God, I was a Marine!”
-1967年、俳優リー・マーヴィン。第4海兵師団に所属し、サイパンで負傷

第2次世界大戦

 第2次世界大戦は、それまで日陰者でしかなかった海兵隊の規模を一気に拡大するとともに、その存在を盤石(戦後の紆余曲折はあったにせよ)にすることになります。

「私の目はマッカーサーを見た
彼の膝には聖書があり
彼は公式発表を封じ込め
人々のために、君と私は好きにしなさい
そして、おそらく今は噂の中
いつの日か、綾織りが事実であるように
君主が低い声で言うのを聞く、
「神よ、このMacに席を譲り給え」
-コレヒドールにいた海兵隊員

 この頃、Semper Fiと並んで有名な言葉が生まれます。中国で日本軍の侵攻を目の当たりにし、直後、八路軍と行動をともにしたエヴァンス・S・カールソン中佐は帰国後、大統領の支援もあり、イギリスのコマンドゥ部隊と同様の特別強襲部隊の編成を任されました。そこでカールソン中佐は、部隊の鬨の声として、中国語の”共闘せよ”を選びました。

「ガン・ホー」
”Gung Ho!”

「長くレイダースが導いた後、
ガンホー、決して死なない
ジャングルシーンから、今日、更に聞こえる
二つの言葉、不朽の名声…」
”Long after Raiders led the way,
Gung Ho will never die;
Still heard today from jungle scenes,
Two words, immortalized…”
-強襲隊員H・E・レブランクによるガン・ホー歌

 もっとも、ガン・ホー精神は当初、次の指揮官となったシャプリー中佐によって徹底的に排除されていきますし、カールソン中佐の処遇も第1大隊長エドソン中佐のその後と比べると(かたやサイパンで重傷を負って本国送還、かたや名誉勲章受章し、参謀職を歴任というのもあり)ぱっとしませんが、部隊自体は短い歴史において燦然と輝く功績を残しました。

 もう一つのレイダース部隊、メリット・A・エドソン中佐率いる第1大隊は、ガン・ホー精神とは無縁でした。1942年8月にツラギへ上陸。太平洋の一大転機となった、ガダルカナルを巡る戦いは、飛行場南にある日本軍側呼称「ムカデ高地」において決定的となりました。

 飛行場を奪還しようと目論む川口支隊が突破点に選んだ場所に陣を敷いたのはエドソン中佐率いる第1レイダースと、その指揮下にある第1空挺大隊の海兵隊員たち。

「そこだ。ここにいるのが他でもない我々であることを我々自身に尋ねることは意味がない。我々はここにいる。飛行場とジャップどもとの間にいるのは我々だけだ。我々が、確保できなければ、我々はガダルカナルで敗北する」
”There it is. It is useless to ask ourselves why it is we who are here. We are here. There is only us between the airfield and the Japs. If we don't hold, we will loose Guadalcanal.”

「それらの人々が持つ唯一のものであるガッツをお前は持っていないのか? お前は伝説になりたくないのか?」
”The only things those people have that you don't is guts. Do you wanna live forever?”

 1942年9月、メリット・A・”レッドマイク”エドソン中佐は、丘の防衛に成功。川口支隊は撤退し、ガダルカナルの戦いは決しました。そして、丘は、血塗られた丘という名と、エドソンの丘、という新たな名前が与えられました。

「もしお前が、運ぶことも、食べることも、撃つこともできないなら、持ってくるな」
If you can't carry it, eat it or shoot it, don't bring it.
-出典不明の海兵隊の言葉。

「時間をかけろ。楽しようとはするな。決して同じ方法を二度行うな」
-チャールズ・C・アームド一等軍曹の偵察心得

「…1775年以来、合衆国海兵隊は彼ら祖国に対する奉仕の素晴らしい伝統を高めた。彼らは今日そうしている。私は彼らがそうし続けると確信している」
-1942年、フランクリン・D・ルーズベルト大統領が、第167回海兵隊誕生日に第17代海兵隊司令官トーマス・ホルコム中将へあてた書簡

「そして、彼が天に召されたとき、
彼は聖ピーターに話すだろう。
”新たな海兵隊員の報告をします。サー。
  私は地獄で戦いました ”」
-1942年ガダルカナル、第1海兵連隊第2大隊H中隊ウィリアム・キャメロン一等兵の墓碑銘。原典は1917年に遡る

「くそったれ、貴様ら、たこつぼに隠れていてはパープルハートは貰えんぞ! 俺に付いてこい!」
”Goddamn it, you'll never get a Purple Heart hiding in a foxhole! Follow me!”

 ヘンリー・P・”ジム”クロウ大尉の言葉は、パープルハートが、”戦いにおいて死亡、もしくは負傷した”ことに対し与えられる勲章だと考えると深いものがあります。

「海兵隊は、その地へ最初に存在した-世界を通した戦いの最中にある浜辺で-我々は彼らが再び上陸することになる全てのアメリカ人の躊躇しない信頼を共有する-そしてしっかりと手に入れる」
-1943年11月8日、東部海域前線司令官ハーバート・F・レアリー准将

 1943年11月、海兵隊は長年研鑽してきた水陸両用作戦を実戦で最初に試す場所としてギルバート諸島タラワ環礁ベティオ島を選択しました。

 上陸は、最初から激しい抵抗を受け、一部の海岸では上陸を断念せざるをえないほどの混戦となり、様子を見るために上陸した副師団長ハームル准将も翌朝まで師団長スミス少将と音信不通になる有様でした。

 それでも、日本軍の抵抗は次第にやんでいき、このガルヴァニック作戦を立案し、胃潰瘍で倒れた前任者の代わりに前線指揮官としてベティオの戦闘を指揮していたデヴィッド・M・シャウプ大佐は、11月21日、戦艦USSメリーランドにいる第2海兵師団長ジュリアン・スミス少将への状況報告を次の言葉で締め括りました。

「死傷者多数、死亡率不明、戦闘は効果的、我々は勝利する」
”Casualties many; Percentage of dead not known; Combat efficiency; we are winning.”

 三日間の激戦で、日本軍守備隊はほぼ全員が戦死、一方、海兵隊もほぼ同数が死傷するなど、実行段階で明らかになった不具合-特に海軍の艦砲射撃、海軍の航空支援、そして海軍の楽観論によって、同地は、”血塗れタラワ”として海兵隊史に名を残すことになります。

「ギルバート諸島タラワ、ベティオ-死んだ海兵隊員ですら、タラワの海岸へ到達する決意だった。一隻のヒギンズ上陸舟艇が轟音を立てて乾いた砂へ向かったので、その側面をしっかりとつかむ手が見えた。それは死につかまれて凍り付いた海兵隊員の手だった。
 第2海兵師団は、その者は死を厭わなかったから、島を占拠できた。彼らは激しい防衛に直面し続け、そして海兵隊の歴史において1平方ヤードにつき、人生の最も高価な代償を払うこととなったが、彼らは76時間でギルバート諸島における主要基地を獲得した。
 0830の最初の突撃で海岸へ押し寄せた二個大隊-2,000から3,000名-の内、2、300名だけが死或いは負傷を免れた。将校の死傷者は激しかった。そして、海兵隊員は到着し続けた。レザーネックたちは、一つの考えと共に死んだ-そこへ到達すること」
-”ヤンク”通信スタッフ、ジョン・ブッシェミ軍曹

海兵隊員、海兵隊員
彼ら吹き飛ばされた海兵隊員(Gyrenes)
彼ら遠洋航海のベルボーイ
それは真鍮ボタンの女王たち
ああ! 彼らは彼ら自身の背中を叩く
大量に物語を書きなさい
全く彼ら自身の賞賛には-
合衆国海兵隊!
海兵隊員、海兵隊員
彼ら名声の常用者
全ての流れに向けられて
この世の不満を抱かせる
彼らは天国の風景と断言する
あなたは推測する-守っているのは! 正解!
合衆国海兵隊!
月は決して光を放たない
海兵隊員いるとき除けば
その輝きを作り出す許しを与えなさい。
そして、流れは決して上らない、風は決して叫ばない、と-
合衆国海兵隊員に許可されない限り、
海兵隊員、海兵隊員
彼らのカーキとグリーンにおいて、
彼らの可愛いブルーのパンティ
彼らの縫い目を下る赤いストライプ
彼らは全てを考え、考えた
全ての夢を見た
歌おう、”私自身の歌を”-
合衆国海兵隊
The Marines, the Marines,
Those blasted Gyrenes,
Those seagoing bellhops,
Those brass-buttoned queens,
Oh! They pat their own back
Write stories in reams,
All in the praise of themselves-
The U.S. Marines!
The Marines, the Marines,
Those publicity fiends,
They built all the forests,
Turned on all the streams,
Discontent with the earth,
They say Heaven's scene
Are guarded by-you guess! Right!
U.S. Marines!
The moon never beams,
Except when the Marines
Give it permission to turn on its gleams.
And the tide never rises, the wind never screams-
Unless authorized by the U.S. Marines
The Marines, the Marines,
In their khakis and greens,
Their pretty blue panties,
Red stripes down their seams.
They have thought all the thoughts,
Dreamed all the dreams
Singing, “The Song of Myself”-
The U.S. Marines.
-1944年5月6日、南太平洋の全軍人のために出版された”ギズモ”から

 1945年2月19日、ロイ・ナムール、グアム、サイパン・ティニアン、ペリリューを攻略した海兵隊は、遂に日本の絶対防衛圏の中へと飛び込みました。

 硫黄島の戦いは熾烈を極め、それ故に海兵隊にとって不屈の闘志の象徴の場所となりました。

 2月23日、五日間の激戦の末、海兵隊は硫黄島最高峰の摺鉢山に星条旗を掲げました。それを見上げた一人-海軍長官ジェームズ・フォレスタルは、隣に立つFMF司令官ホランド・M・”ハウリングマッド”スミス中将に語りました。

「摺鉢山の上に、その旗を掲揚することは、海兵隊の次の500年を意味する」
”The raising of that flag on Suribachi means a Marine Corps for the next 500 years.”

 この言葉にすかさず、スミス中将が、戦争が終わってしまえば硫黄島のような戦いが500回あろうが皆、忘れてしまう、と返しました。正しかったのはスミス中将でした。

「陸軍において、突撃部隊は職人、労働者、事務屋と幹事の巨大な集団に支援された小さな少数派である。海兵隊においては、突撃部隊がほとんどである」
1945年3月17日発行のニューヨーカーマガジンに載った従軍記者ジョン・ラードナーによる1945年3月6日の硫黄島の記事

 硫黄島の戦いは、36日後に終わりました。3月16日、太平洋艦隊司令官ニミッツ提督は、

「硫黄島で従事したアメリカ兵の間で、非凡な勇気は一般的な美徳であった」
”Among the Americans who served on Iwo Island, uncommon valor was a common virtue.”

 と述べ、これは海兵隊戦争記念碑に刻まれた二つの言葉の内の一つとなりました。

「我々に防御陣地に居住する習慣はない。それは士気に有害である」
-ウォルター・カリグの引用したホランド・スミス中将の硫黄島での言葉

 硫黄島の戦いが一応の終息を見た3月26日、沖縄の慶良間諸島へ第77歩兵師団が上陸を開始し、4月1日、第1及び第6海兵師団を含む上陸部隊が沖縄本島へ上陸を開始。この作戦で第77歩兵師団と共に慶良間へ上陸した著名な従軍記者アーニー・パイル氏は、

「海兵隊員は戦争へ冷笑的に取り組む。彼らは三つの物を信じている。自由、給料日、そして2人の海兵隊員が共に戦うとき、1人は逃がされること。軍事的に少数派であり、彼らは他の軍組織と彼らとの関係に誇り高く、敏感である。完璧な戦いの海兵隊の概念は左右の側面に他の海兵隊員がおり、海兵隊航空機が頭上で、そして海兵砲兵隊と艦砲射撃が彼らをバックアップすることである」

と海兵隊を表しました。間もなくパイル氏はジープの影に隠れていたところを狙撃されて戦死し、多くの人々を嘆かせることになります。

「勇敢な奴は敵を撃つ。いかれた奴はそれを撮る」
”The brave ones were shooting the enemy; the crazy ones were shooting film.”
-海兵戦闘カメラマンを見た従軍記者の感想

「彼女たち(女性海兵隊員)にあだ名は無く、そして彼女たちは必要としない。彼女たちは海兵隊員の地位で、彼女たちは海兵隊員の環境において一般的な訓練を受ける。彼女たちは海兵隊員の伝統を受け継ぐ。彼女たちは海兵隊員である」
-第17代海兵隊司令官トーマス・ホルコム中将

「英雄を見せてくれと言われたら、私は君にろくでなしを見せる」
”Show me a hero, and I'll show you a bum.”
-グレッグ・”パピー”ボイントン少佐。WWIIにおける海兵隊トップエース(28機撃墜)の著書の締めの言葉

 1945年、ヨーロッパではドイツの降伏も間もなくと思われていた頃、ひたすら軍を突き進ませていた一人の老兵が、オフレコの話は、あまりにも「絢爛豪華だったので一度も記事にできなかった」と言わしめた毒舌で語りました。

「わしは、くそったれ海兵隊員が全ての栄光をつかむ前に、それら紫のション弁たれ日本兵のけつに蹴りを入れて太平洋の外へ追い出すことができるように、俺は貴様らを、ドイツ兵どもを鞭打つ少年たちに急いでしたい!」

 第3軍司令官ジョージ・S・パットンJr.中将の願いも虚しく、くそったれ海兵隊員たちは全ての栄光をつかみました。

新たな伝統

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