Quotation(海兵隊を語る言葉)
「私は、義勇兵の旅団よりも、海兵隊員の一個中隊を率いたい」
-1862年11月に南部同盟陸軍大佐として旅団長代理の打診を受けたジョン・R・F・タットノール大尉が任命を断る理由として述べた言葉
南北戦争
ペリー提督とともに、ゼイリン少佐率いる海兵隊200名が日本に初上陸を果たし、明治維新の切っ掛けを作ったアメリカでしたが、1861年に南北戦争が勃発したために、ヨーロッパ諸国のように積極的にかかわることができなくなりました。
アメリカ初の内乱は、早々と連合軍の海上封鎖が成功してしまい、海兵隊の活躍する機会はそれほどありませんでしたが、それでも、
「海兵隊員のいない船は、ボタンの無い衣服のようだ」
ファラガット提督(1862年)もしくはポーター提督(1863年)
また、海軍からは第6代海兵隊司令官ジョン・ハリス大佐に対し、
「もし海兵隊が廃止されるならば、海軍の能力の半分は破壊される。彼らは将校と同様に船にとって必要である。私は部隊を減少させるのではなく、大きく増加させることを望みたい、なぜならば、我々は海兵隊員がとても不足していると思っているからだ」
デヴィッド・D・ポーター海軍少将(1863年12月6日)「私の専門家としての人生を通じ、私は我々海軍組織の最高に価値ある要素として軍団を見、そして、この意見をより多くの者が現役勤務において毎年の更なる経験によってより確認させるだけだった」
S・F・デュポン海軍中将(1863年12月29日)「ニューアイアンサイズに乗船した私は35門の艦尾砲に海兵警備隊を配置し、そして私は、重砲兵隊の砲が無いと認められた、その招集された"海兵砲"がより働いたと考える」
T・ターナー海軍少将(1863年12月29日)
と海兵隊の働きに対する賛辞の手紙が送られています。
一方、南部同盟海兵隊も、1862年11月に陸軍大佐として旅団長代理の打診を受けたジョン・R・F・タットノール大尉は、その任命を断り、
「私は、義勇兵の旅団よりも、海兵隊員の一個中隊を率いたい」
と南部同盟海兵隊の道を選んだ人物もおり、南部同盟海軍J・テイラー・ウッド少将が、南部同盟海兵隊司令官リロイド・J・ビール大佐へ1864年2月16日に、
「閣下。特別な義務が無い間、ウィルソン大尉と彼の部下の軍人らしい行いと素晴らしい忍耐は、私にあなたへ報告する喜びを与えてくれます。彼らの任務を通じ、他者のそれらより困難であったにもかかわらず、彼らは常に迅速で、彼らが行うよう求められた全ての機能の準備ができていました。集団として彼らはあらゆる組織への称賛であり、そして私はどんな場合の義務でも彼らを伴えることを嬉しく思っています」
とノイス川で1864年2月2日、トーマス・S・ウィルソン大尉率いる南部同盟海兵隊が、命じられた停滞作戦のため、USSアンダーライター号を破壊したことを称賛する書簡を送っています。
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