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Quotation(海兵隊を語る言葉)

誕生以前

 1775年11月10日、海兵隊は誕生しました。

 以来、現在に至るまで、海兵隊には、様々な賛辞が与えられ、また、海兵隊員自らも、その不屈の闘志の象徴となる数々の言葉が語られました。

 1664年に、「海の歩兵部隊」として大英帝国は海兵隊を編成しました。彼らは艦隊戦時の戦闘要員、上陸作戦部隊としての役割だけでなく、寄せ集めの水夫で運行される軍艦内の治安を保つ役目を担っていました。
それを象徴するように、

「海兵隊員にそれを話しなさい」
-チャールズ二世の時代のイギリスが起源とされる言葉。

「それを海兵隊に話せ-水夫たちは、信頼できない」
-サー・ウォルター・スコット、Redgauntlet Vol.2 第7章

 という言葉は、海兵隊への信頼の言葉を表しています。

独立戦争

 1775年に、大英帝国と植民地との関係が悪化し、ついに一発の銃弾を持って大英帝国と植民地との間で戦争となりました。大陸会議は陸軍と海軍を編成することを決め、それと同時に海兵隊も誕生しました。

「海兵隊の二個大隊は、一人の大佐、二人の中佐、二人の少佐と他の連隊における通常の将校たちから成り立って招集され、その彼らが他の大隊と同数の兵士から構成されている。その独特の管理は、その必要とされる人のいない職に命じられるか、述べられた大隊へ志願したが、優れた水夫のように、航海中に有効に仕えることができるくらい海自を熟知する」
-1775年11月10日、大陸議会決議

 独立戦争において、海兵隊は、その初陣を敵前上陸作戦で飾り、太守を捕虜(太守は後に捕虜となった陸軍の将軍と交換)にし、多数の大砲と砲弾を奪取することに成功しました。これにより、海兵隊の増員がはかられることになります。

「大陸軍船プロビデンスは、現在、ボストンに停泊中、ただちに短い航海をする決意である。少数精鋭の男たちが彼女の定員を補うことを求む」
-1779年3月20日、プロビデンス新聞、ウィリアム・ジョーンズ海兵隊大尉

しかし、大陸軍はフランス海軍の支援が受けられるようになったこともありますが、何より、資金調達のために海軍を解散し、艦船も売却することを決定。同時に海兵隊も解散となりました。

トリポリの海岸から

 1798年7月11日、海兵隊は復活しました。

 この頃、地中海では海賊(*)の横行が問題となっていました。
*地中海の諸国から公式に水先案内人や通行料の徴収を認められていた。

 ヨーロッパ諸国の商船はそうした料金を支払って対処していましたが、金のないアメリカはそうした要求を突っぱねることになります。

 このため、アメリカ船籍の商船の安全確保のため、アメリカは初めて軍隊を海外へと派遣しました。

 しかし、海賊も反撃し、フィラデルフィアが拿捕される自体となります。

 最終的に海賊との戦いは1832年まで続き、高い代償を払わなければならなかったのですが、このとき、オバノン中尉が率いる部隊が徒歩でトリポリまで前進し、制圧。砦にアメリカの歴史において、初めて星条旗を外国の地に打ち立てることに成功し、捕虜の救出にも成功しました。

「私は、全面的にトリポリで近頃捕虜となった海兵隊員に関する貴君によって提案された処置を承認する。したがって、それらを執行せよ」
-1805年9月21日、海軍長官ロバート・スミスから、フランクリン・ウォートン大佐(第3代海兵隊司令官)にあてた手紙

また、この戦いで一人の海兵隊員が上官を救うために身を挺して敵の刃を受け、戦死します。この行為は当時の海兵隊のモットー、

“Fortitudine”
ラテン語で、"不屈の精神とともに"

 を象徴する行為として後々まで語り継がれていくことになります。

  それとは別に第2代海兵隊司令官W.W.バローズ中佐が、

「ゲール中尉は12ヶ月前にガンジスに乗船中、海軍将校に殴られたが、海軍大佐は職務上の注意をせず、ゲールは航海中、納得できなかった。彼が到着したとき、中尉は彼を呼んで撃った。ポリテネスは後に回復した」

 と年次報告で記したように理不尽な行為に関して、決して黙ってはいないという意志を表す言葉も残されています。

 もっとも、このゲール中尉。後に昇進して第4代海兵隊司令官になるのですが、このことがあってか、それとも別な理由があってか海軍長官に個人的恨みを抱き続けて、ついには酔った勢いで海軍長官を殴り、周囲は病気による退職という形で穏便に済ませようとしましたが、時の大統領がそういうことを嫌っていたこともあり、ゲール中佐は正式に処分され、海兵隊を放逐されただけでなく、全ての記録を抹消。歴代司令官で唯一肖像が残されていない人物となりました。
*後に、年金寄越せと訴えて、その権利を見事獲得し、亡くなるまで飲んだくれの生活を送ることになります。

 前任のゲール中佐があれだったので、海兵隊の綱紀粛正の意味もあり、後任となったのはアーチボルト・ヘンダーソン中佐でした。以降、亡くなるまでの30年を第5代司令官として勤め上げ、海兵隊の礎を築いていくことになります。
この頃、起きたセミノール族との戦いで、海兵隊は陸軍の援軍として参戦することになりました。そのとき、ヘンダーソン司令官の執務室の扉には、

「インディアンと戦うためにフロリダに行っている。戦争が終われば戻る」(1836年)
Gone to Florida to fight the Indians. Will be back when the war is over.

 という短信がピンで留められていました。

 ヘンダーソン司令官の指導の下、海兵隊の基礎は固められていきますが、この頃、海兵隊員の勇猛果敢さを讃える言葉として、

「海兵隊員は…彼らの祖国で最も活発な可能性を決して妨げない-決して! 私は戦いにおいて迅速に前進しない者を一人も知らなかった」
-1852年、C.W.モーガン海軍大佐が送った書簡

「"経験深い軍団"をとても長く特徴付けた、その精神を教え込まれた…海兵隊員の存在がなければ私は軍艦は不完全であると考えなければならない」
-ジョシュア・R・サンズ海軍准将が送った書簡

「海軍ヤードを訪問し、そしてアメリカ政府が作ることできるほどの男、さもなければ、例えばその魔術で作ることのできる男、海兵隊員を見よ―告別式の伴奏とともに武装したまま埋められ、生き、そして立ち、そして既に人が言うかもしれないように人間性のただの加護と追憶で男は横たわる…」
-1854年、「市民的不服従」ヘンリー・デヴィッド・ソウロウ

 といった賛辞が送られることになります。

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