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PARA-MARINE(海兵隊空挺部隊)

ラストバトル

 第1空挺大隊が、コイアリに向かう準備を整えている頃、連隊の残りは士気を高めるために提供された感謝祭の七面鳥を楽しみ、そのため、夜は大半が激しい下痢で苦しみました

 12月3日、連隊司令部と武器中隊及び第3大隊はブーゲンビル行きの5隻のLCIに乗り込みました。

 日没頃に日本軍の空爆があり、同行していた駆逐艦の激しい対空砲火によって三機を撃墜するという出来事はありましたが、輸送船団を損傷を受けることなく、無事に良く12月4日にオーガスタ女王湾に到着し、第1大隊と隣接した地点で露営に入り、つかの間の休息を得ます。

 第3海兵師団長は、前線を拡張してすぐに、ブーゲンビルの地形では大部隊を動かすことが困難であることを悟り、部隊を一旦停止させ、工兵が道を切り開くまで待機させることとし、この間の拠点を維持するための前哨地点を築き上げることを考えました。

 ちょうど12月初旬の偵察で、トロキナ川の西にある高地ががら空きであることが確認されていたために、12月5日、司令部は第3海兵師団に1,000高地を守備するように命じるとともに空挺連隊(第1及び第2大隊で構成)を、その指揮下に組み込みます。その一方で師団の他の部隊が近くにある別な高地を確保するために動きました。

 この作戦にウィリアムズ中佐は連隊の編成替えを行い武器中隊、司令部要員及び第3大隊I中隊を使って二つの臨時大隊を編成し、三日分の携行食糧と弾薬をパックに詰め込み、11:30に空挺部隊は宿営地を後にします。

ブーゲンビルで流れを渡る空挺隊員たち

 18:00までに、彼らは第3大隊(I中隊欠)の南、暫定部隊の北にある1,000高地頂上周辺に陣を敷きますが、急勾配と草が生い茂った道、そして深い泥により、補給物資の運搬が容易では無いことが判明します。

 師団は補給問題を解決する策を色々と練った結果、最終的には輸送機からの空中投下に頼るしかありませんでした。

 何人かの降下兵が投下された弾薬と食料を苦労しながら運搬するのと平行して、周辺の偵察が実施しますが、翌6日に師団が多数の部隊を前哨線へ移動させたために、前線が拡張し、空挺連隊は小規模の兵力で、渓谷やジャングルに覆われた丘といった3,000ヤードの割り当てられた前線を守るはめになります。

 12月7日、第3大隊の偵察部隊が1,000高地東の尾根で蜂起された防衛陣地を発見。発見した文書には、増強された日本軍の中隊が強固な拠点―後にヘルズアポッピン高地と呼ばれる―を構築したことが示されていました。

 大隊長バンス少佐は、K中隊の二個小隊を動かしますが、地図も案内も無く漠然とした方向しか分からない状態の上に密生したジャングルに阻まれ、翌日になるまで目標を発見できずに終わります。

 逆に、日本軍は、その日の夜に小規模な偵察部隊を送り込んで連隊の防衛線を詳細に調べ、東の尾根を再び占領し、新たな陣を敷きます。

 この部隊によって、12月8日朝、尾根の偵察に向かった部隊が待ち伏せを受け、一名の行方不明者を出します。一時間後に行方不明者を捜し出すため再編成されて出発しますが、同じ場所で日本軍と交戦し、20分の戦闘の後、8名の負傷者を出して撤退。

 とどめとばかりに、味方の砲弾が降り注ぎ、連隊司令部の通信設備を破壊し、5名の重傷者をK中隊にもたらします。

※味方の砲兵と航空隊は、場合によっては敵よりも始末が悪いという一例。

 日本軍の動きが次第に活発化するのを察知したウィリアムズ中佐は、防衛線を整え直し、大隊の側面を物理的に接続させることを企図し、そのためにI中隊右翼とK中隊左翼を前進させます。

 12月9日朝、バンス少佐が独自に新しい地点の偵察を実施させますが、この部隊は三丁の機関銃を要する8人の日本兵の待ち伏せに遭いました。

 14:15にK中隊の左翼は攻撃を開始しましたが、20分以内に、日本軍からの強力な反撃を受け、前進は停止してしまいます。

 後の報告ではI中隊が前進しなかったことが原因と報告されますが、彼らも、その日前進を試み、激戦で指揮官のミルト・カンハ中尉が戦死、I・J・ファンシュラー第一曹長も手にしていたライフルを撃ち飛ばされる激戦で、死傷者をだし、前進を阻まれていました。

 I中隊が、前進を阻まれたことにより、連隊の前線中央に危険な間隙が生じました。この間隙を埋めるためにバンス少佐は二個分隊をK中隊左翼へ、ウィリアムズ中佐も司令部小隊を派遣します。

 ウィリアムズ中佐は、司令部要員の大半を予備部隊に編入することでライフル中隊で補強し、運良く任務引き継ぎのために前線視察に来ていた第21海兵連隊長が近くにいる第1大隊C中隊に支援を命じ、弾薬の供給を手助けしたために、K中隊前面への砲撃が可能となり、最終的に16:15以降、日本軍の攻撃が弱まると、夜間を通じて15分間隔の砲撃を継続しました。

 この戦いにおいて、K中隊は12名の戦死者と36名の負傷者を出したと当初報告しますが、後に、その日の激戦で18名の行方不明者が生じていることが判明します。

 バンス少佐も、この戦いで足に銃弾を受け、大隊指揮をトーガソンに譲ることになりました。

 師団は第9海兵連隊第1大隊を1,000高地後方の予備地点に移動させ、翌日、左翼に配置するために、第9海兵連隊指揮下に空挺連隊を組み込みます。

 12月9日の空挺部隊の戦いは、これだけではなく、朝、臨時大隊は東の尾根を包囲し、トロキナ川一帯を調査するために火器中隊の機関銃分隊で補強したI中隊の小隊を送り込みます。

 この部隊は北東へと移動し、ヘルザポッピン高地の背後に到着すると、そこで機関銃を据え付けていた二人の日本兵に遭遇すると、隊長のジャック・シーダカー大尉に警告をだし、迅速にカービンで二人を倒します。

 しかし、彼らが気づいていなかった左側面の湿地帯に陣取っていた日本軍からの攻撃を受け、最初の斉射によって一名を失います。

 しかし、空挺部隊の機関銃手は迅速に機関銃を設置すると湿地に向けて反撃を開始。殿のライフル分隊が日本軍側面に回り込み始めると同時に他の部隊は見通しが良く射撃に都合の良い地点を確保するために右の高地へ上りました。

 まもなく日本軍は、形勢不利と判断して撤退を始めましたが、海兵隊が上った場所から見渡せる地点を横切らなくてはならず、推定で16名を失います。

※後の調査で、連隊は12名の戦果としました。

 この日、少なくとも、一つの偵察部隊が日本軍と接触し、そして、機関銃分隊の一つが乱戦によって分断され、三つ目の部隊は行方不明者の捜索を行いますが、発見できず、結局、三人の機関銃手が翌日味方前線に帰還しますが、中尉と三人の兵士が戻ってきませんでした。

 12月10日の朝から、日本軍は小火器による銃撃で空挺部隊を悩ませ続けただけでなく、戦死者を回収するために送られた部隊を撃退し続けました。

 この問題に対処するためにK中隊とL中隊は200ヤード後退し、45分間の砲撃を実施します。

 同地点を再び奪還するために両中隊が前進を開始した時、彼らは砲弾を回避するために海兵隊陣地の近くまで移動していた日本軍と交戦しなければなりませんでした。

 この日遅く第9海兵連隊第1大隊は、空挺部隊左翼の負担を軽減した後、第21海兵連隊第1大隊が、その後を引き継ぐと、ウィリアムズ中佐は臨時大隊を解散し、連隊残余を第9海兵連隊の予備に置きました。

 以降、空挺部隊は偵察部隊を動かし、海兵隊の予備防衛線を構築し始めます。

 しかし、この作戦行動も平穏ではなく、日本軍との接触や空襲によって三名の死傷者をだしています。

 また、12月9日以来、行方不明の戦友を捜すために武器中隊の機関銃手が二人だけで最前線を超えていきましたが、この非公式の英雄的行為は何ら成果を上げられませんでした。

 一方、第21海兵連隊はヘルズポッピン高地の攻略に12日を要し、数百発の100ポンド爆弾による空爆と155mm砲の支援を受けて、12月18日、ようやく高地占領にこぎ着けました。

 陸軍第XIV軍団司令部が12月15日から、作戦を引き継ぎ、I-MACの負担を軽減し始めると、アメリカル師団が第3海兵師団と任務を交代し始めました。

 これらの一環として連隊付中隊と第1空挺大隊はアラン・シャプレー大佐指揮の第2強襲連隊に編入され、第3空挺大隊は引き続き、第9海兵連隊の予備部隊の位置にありました。

 12月22日に、強襲部隊と空挺連隊は第3海兵連隊の前線を引き継ぎますが、まもなくブーゲンビルを後にし、その後、クリスマスまでに陸軍部隊が駐留し、第9海兵連隊を補強します。

 狙撃兵のいる木に向けて反撃を加える空挺隊員及び強襲部隊員

 第1空挺大隊は、意欲的に偵察部隊を動かしていましたが、12月28日に、A中隊がトロキナ川を渡り、海へ向かい、その河口近くで日本軍陣地と遭遇し、3名を失い、2名の負傷者を出したものの18名の日本兵を殺害し、20名を撤退させることに成功します。

※シャプレー大佐は、この最後の戦いを、「優れた仕事」と賞賛します。

 空挺部隊は、1944年1月中旬に最後の部隊がブーゲンビルを後にし、ガダルカナルへ向かいました。

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