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PARA-MARINE(海兵隊空挺部隊)

解散

 パラシュート部隊計画の最終評価は1943年8月に始まり、師団の計画と方針の問題点が一ページの覚書に要約されました。

 簡単に言えば、連隊が空挺作戦を実施するに当たって必要とされる輸送機の数が、海兵隊全体で保有するほとんど全ての輸送機と同じで、本来の物資輸送任務に支障を来すということです。

 バンデグリフト将軍が、空挺部隊に対する見解を述べ、これにより、ホルコム将軍は空挺部隊と強襲部隊の双方を解散することを12月21日に決定し、バンデグリフト将軍自ら、海軍作戦部長アーネスト・キング提督へ提案しました。

 キング提督のスタッフのオマー・T・ファイファー大佐は、ホルコム将軍とヴァンデグリフト将軍の意見をまとめあげ、空挺部隊計画を中止することで一ヶ月当たり、150,000ドルを節約し、3,000名の兵員を新しい師団に割り当てられ、海兵隊の訓練を統一し、「エリートとして選ばれたという認識を避けられる」としました。

 キング提督は、1943年12月25日、この提案に同意し、第1空挺連隊を本国へ帰還させると同時に解隊させ、また第4大隊もキャンプペンドルトンで解散し、その兵員を補充要員とすることを決定し、これにより二つの太平洋海兵隊司令部に必要な空輸部隊を提供でき、更に新規に第5海兵師団を発足させることが可能となりました。

 12月30日に、解隊計画の正式な命令が出され、1月1日付けで第18代海兵隊司令官として就任したヴァンデグリフト将軍は最初の命令としてキャンプギルエスピーのパラシュート訓練所の閉鎖を出します。

 第2空挺大隊が1月2日にベララベラ島を離れ、ガダルカナルで連隊と合流すると1月18日に第1及び第2空挺大隊はアメリカ本土へ出発し、2月4日にサンディエゴに到着。連隊司令部と第3大隊も1月30日にはガダルカナルを去ります。

 こうして1944年2月29日、第1空挺連隊は、軍旗を巻き、短い歴史に幕を閉じました。

 しかし、その後、数名がナチスドイツの抵抗運動を支援するためにフランスへ飛び降り、また二人の将校が太平洋で行われた数少ない空挺作戦の一つに同行してニューギニアで降下しています。

 第1空挺連隊を基礎とした第5海兵師団は硫黄島に上陸し、そこでパラマリーンのベテランたちは、特別な訓練を役立て、顕著な活躍を示しただけでなく、1945年2月23日、かつて、パラマリーンの一員として戦ったヘンリー・O・ハンセン軍曹は擂り鉢山に最初の星条旗を立て、アイラ・ヘイズ伍長、ハーロン・ブロックの二人は有名な二つ目の星条旗を立てました。

 また、5人が硫黄島で名誉勲章を授与されています。

 結局、海兵空挺部隊パラマリーンは、期待されたような上陸部隊を支援するための実戦降下を部隊として行うことはありませんでした。

結び

 海兵空挺部隊パラマリーンの任務は、1944年6月6日に陸軍第82空挺師団と第101空挺師団が行った上陸支援と同じものでした。

 しかし、結果的には輸送機不足などの事情から、彼らが本来の空挺作戦を実施することは一切なく、幾つかの戦果をあげたにもかかわらず、新たな師団編成を行うために部隊は解散されます。

 他国や陸軍においても、ドイツ軍はクレタ島攻略の大損害以降、まともな空挺作戦を行うことなく、アメリカ軍も結果的には投入する必要は大して無かった幾つかの空挺作戦を実施後、兵力不足から歩兵部隊として転用され、戦後は朝鮮戦争とベトナム戦争で一度ずつ実施しますが必要だったからというよりも勿体ないから使った程度です。イギリス軍はマーケットガーデン作戦で大損害を受けますが、それでも、戦後、スエズ運河攻略をフランス軍と共同で実施。これが最後の大規模でかつ成功した空挺作戦となります。

 結局、空挺部隊が空から颯爽と舞い降りて瞬く間に敵を制圧する勇壮な部隊ではなく、強力な敵部隊がいるだけで容易に制圧されてしまうデリケートな部隊であり、投入時期が難しく有効な兵力に無駄な時間を過ごさせることが第2次世界大戦で判明したことになります。

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