PARA-MARINE(海兵隊空挺部隊)
チョイシール島陽動作戦
中央ソロモンにおける最終的な目標は、日本軍のラバウル海軍基地を包囲し、無力化することでした。南太平洋軍は、当初、ショートランド島攻略の計画を考えていましたが、日本軍の守りが強固であり、現有する兵力での攻略は割に合わないと判断されたことで、次にチョイシール島を攻略し、ブーゲンビル南北における航空戦力の無力化を図ることを計画します。
ちょうど、南西太平洋軍司令のマッカーサー将軍も、ラバウルに対する爆撃を効果的に支援できるブーゲンビル攻略に意欲的であることから、作戦決行が決定しますが、南太平洋軍司令ハルゼー提督が保有する戦力ではブーゲンビル攻略は、やはり無理であったため、提督は防備が手薄で、日本軍の増援がままならない地形である西側のオーガスタ女王湾一帯を攻略し、そこに空軍基地を建設することを決定しました。
この頃、第2空挺大隊は、9月上旬にガダルカナルに渡り、10月1日、ベララベラ島の部隊集結地に移動しました。
アメリカ軍とニュージーランド軍は、ベララベラ島の一部を既に確保していましたが、日本軍の小部隊がジャングルを徘徊し、また制空権も完全に掌握できておらず、空挺大隊の乗り込んだ輸送船を含む船団に対して日本軍が空爆を行い揚陸作業中だった戦車揚陸艦に二発の爆弾を命中させました。
幸い浅瀬だったために撃沈は免れ、大部分は岸に避難することができましたが、14名の降下兵が戦死し、更に大隊の装備と補給物資の大部分が失われました。
この後、空挺部隊は一端キャンプで落ち着いた後、日本軍の敗残兵の捜索を開始。
※大隊の残りは10月後半までに到着。
ブーゲンビル攻略に対する最終計画がまとまり始めると、ジェームズ・C・ムーレイ少佐を初めとしたスタッフが、日本軍に別な目標が主目的であると思わせるため、陽動としてチョイシール島攻略を計画します。
この作戦協議のために第2大隊長クルラク中佐が10月20日にガダルカナルへ派遣され、10月22日、第2空挺大隊の襲撃を六日後とした最終命令が下りました。
情報では、ブーゲンビル撤収のための輸送を待つ小規模の日本軍キャンプが複数有り、最高で4,000名の兵力を有し、補給状態は悪いものの依然として迫撃砲や軽砲を含んだ兵器を所有していると推定されます。
第2空挺大隊の任務は、ヴォザ近辺の無防備な北西沿岸を強襲し、快速哨戒魚雷艇(PTボート)が使用可能な地点を確保し、海軍が施設の設置を望まなければ12日後に撤収することと、この攻撃がチョイシール攻略を行ったのが大部隊であると欺瞞することでした。
このため、火力強化を図るために連隊の重火器中隊とロケット実験小隊から、機関銃小隊を大隊へ移動させたことにより、大隊は700人編成となり、クルラク中佐は10月28日01:00に夜間上陸を実施することを決定します。
※ロケット部隊は―中尉以下8名で構成され、1,000mの射程を持つ40枚のフィンを持つ65ポンドの弾頭が発射可能で、命中精度は非常に悪いものの、その威力は絶大でした。
10月27日夜、4隻のAPDs 及び駆逐艦コンウェイ (DD-507) に乗り込んで第2空挺大隊は出発。途中、国籍不明機が一発の爆弾を投下し、また上陸中にコンウェイが日本軍水上機による攻撃を辛うじてかわすなどという出来事はあったものの01:00には予定どおり上陸を完了していました。
上陸完了後、船が離れてまもなく別の日本軍機が現れ、空挺大隊に対し二つの爆弾を投下しましたが、これも幸い外れ、水飛沫を上げたに止まりました。
早朝、大隊は内陸の山中へ移動し、哨戒基地を設けますが、これを偽装するために一個小隊がジオナ島へ向かうボートに同行し、また、日本軍の注意を引き付けるために海岸から2マイルの地点にニセの補給所を空箱を使って設置します。
一個小隊はジオナ島へ向かうボートに同行し、早朝、大隊が内陸の山中へ移動し、哨戒基地を設けるのを偽装するのに役立ちます。
更に陽動作戦を支援するために、10月30日にはハルゼー提督の司令部は空挺部隊によるチョイシール侵攻を発表します。
※実際には、前述のように上陸用舟艇で海岸から乗り込んだ訳ですが、少なくとも一社が、この話を真に受けて、空挺部隊がパラシュートで島に舞い降りる姿を奇抜なイラストを用いて報道しています。
午後になって、小規模の偵察部隊が哨戒魚雷艇基地が構築可能な場所を調査するために海岸に沿って西へと移動を開始。
現地人から、約200人の日本兵がサンギガイの南東で船着き場を守っており、また別の部隊がウォリアー川を超えた北西18マイルにいるという報告がもたらされます。
クルラク中佐は30日にサンギガイを攻撃すると決定し、29日に幾つかの偵察部隊を送り、自らも偵察部隊に同行します。
クルラク中佐の増強された分隊は、サンギガイ側で艀から積み荷を降ろす10名の日本兵と遭遇し、内7名を殺害。その日遅く、前哨地点から日本軍の小隊を追い出します。
10月30日、機関銃及びロケットによって増強された2個中隊がサンギガイへと陸路で進軍。
F中隊が背後から基地を攻めるために内陸へ移動する一方で、E中隊は砂浜を下っていきます。
早朝、12機の雷撃機が空襲を行いサンギガイの外で確認された敵陣地に打撃を与えます。
14:30、E中隊が接近すると、迫撃砲と36発のロケット弾で攻撃が行われます。
日本軍は、これらの攻撃により防衛陣地を蜂起し撤退しますが、その撤退先には、偶然にもF中隊が接近中でした。
包囲するための陣形を取って接近していたF中隊は、同行していた現地人斥候から、手短な警告を受けていたものの意外な遭遇には日本軍同様に驚いたものの、次の瞬間には、先導していた小隊が即座に反応して攻撃を開始し、後続の小隊が日本軍の側面を突くために右翼へと回り込みます。
日本軍も、同様にライフル、機関銃、そして擲弾筒による反撃を開始。
15分の激しい戦闘の中、F中隊がゆっくりと前進を開始した瞬間、突如として日本軍は万歳突撃を敢行します。
マシンガンが、突撃を食い止めている間に第3小隊が退却を阻止するために左翼へと移動しますが、日本軍はそのまま第2小隊へ突撃を続け、この結果、72名を失いました。
※日本軍の約40名は包囲網を突破して退却に成功しています。
F中隊がジャングルで戦っている頃、E中隊は無抵抗のままサンギガイに侵入し、防衛陣地と一隻の艀を破壊しました。
また、ブーゲンビルからの機雷敷設区域を示す海図を含んだ重要書類を手に入れます。
その後、中隊は上陸用舟艇まで戻り、夜間、基地へ帰還する準備を始めます。
しかし、死傷者を出したF中隊の合流が遅れ、結局、海岸側で一夜を過ごすことになりました。
この戦闘の損失は戦死6名、行方不明1名、そして負傷者12名。クルラク中佐自身、破片によって顔を負傷していました。
翌朝、死傷者と機雷敷設図は飛行艇によって運び出されますが、指揮官クルラク中佐は負傷しているのにもかかわらず撤退を拒否し、部下たちと残留することを選びます。
11月1日、ワーナー・T・ビッガー少佐が、チョイシール湾で艀を破壊し、グッピー島の日本軍の爆撃機基地を目的とした作戦を開始しました。
ビッガー少佐とG中隊(一個小隊欠)は、唯一の通信機と保安部隊を残し、ウォリアー川で上陸用舟艇に乗り込みます。
これ以降、事態は悪化していきます。同行した現地人斥候は、この地域に詳しくなく、偵察部隊も気がつけば同じ所を回っていたことに気づく有様。
結局、その夜は野営し、ビッガー少佐は大隊に報告するために一個分隊をウォリアー川へ引き替えさせます。
翌11月2日。夜明けと同時に、その分隊と通信チームは日本軍の小隊に出くわし、銃撃戦の後、彼らはヌキキ海岸に沿って待っていたボートと接触します。このヴォザへの行程で、彼らはモリ島に8隻の日本軍の艀があるのを発見し、第2空挺大隊の両翼の間に日本軍の大部隊が入り込んでいることに気づきました。
これに関連して、I-MACはクルラク中佐の要請で、空爆とPTボートの支援を行うと共にウォリアー川の上陸用舟艇まで引き返すようビッガー少佐の部隊に命令します。
G中隊は、06:30にチョイシール湾に出ると、彼らを案内してきた現地人斥候と合流し、砂浜を占拠していた日本軍と遭遇、交戦、更に射界を得るために海の中に60mm迫撃砲を設置し、グッピー島に142発の砲弾を撃ち込み、燃料の一つを炎上させます。
これに対し、日本軍も島から機関銃で反撃してきますが、効果はありませんでした。
16:00。ビッガー少佐と彼の主部隊はウォリアー川に引き返してきましたが、そこに待っているはずの上陸用舟艇はなく、また通信チームがいないことに気づかないまま川を横切り始めたところを日本軍から攻撃を受けます。
90分、戦闘が続いた時、三艘のボートが現れ、海から攻撃を始め、日本軍の攻撃は次第に収束していきます。
一艘のボートは、礁に乗り上げ、エンジンが停止し、日本軍のいる砂浜へと漂い始めます。
二隻のPTボートの内の一隻が、そのボートへ近付くと艇長ジョン・F・ケネディ大尉自らが乗り込んだ時、三機の航空機が現れ、海岸に機関銃掃射を始め、救援を援護します。
※このケネディ大尉こそ、後のジョン・F・ケネディ大統領です。
これらの戦闘により、日本軍は42名の戦死者を出し、更に迫撃砲によって損害を出した一方海兵隊の損害は戦死2名、負傷1名、行方不明2名でした。
※後、現地人によって二人の遺体は発見され、回収されました。
ビッガー少佐が北西へ動くと同時にクルラク中佐は小隊規模の偵察部隊をサンギガイ南東へと派遣します。これらのうち、二つが日本軍と接触し、1名が戦死したものの日本軍17名を殺害。
海兵隊と現地人斥候によって集められた情報を集めた結果、日本軍が二つの方向から、ヴォザ奪還に向けて移動を開始していることが艀やトラックの轍によって判明します(北西への動きを示す唯一の証拠)。
その反対側の南東には1,800名、ことによる3,000名の日本軍がいると推察され、クルラク中佐は自分の部隊の力に日本軍が気づいていると推測し、サンギガイとチョイシール湾からの撤退を制限します。
11月2日午後、クルラク中佐は状況をI-MACに連絡し、日本軍の活動が活発化すれば海兵隊の哨戒任務が妨害されるが、大隊は一週間は何とかできると宣言し、クルラク中佐は防衛強化のために小隊規模の歩哨をヴォザの各側面に起き、工兵小隊に地雷を敷設させ、日本軍が上陸してこないようにPTボートのパトロールを要求します。
一方で、I-MACのスタッフは、既にオーガスタ女王湾上陸から二日が経過し、チョイシールが陽動作戦であり、本当の目的がブーゲンビル西海岸であると日本軍にも明白となった現在、これ以上、任務を継続しても得るものは無いことから、空挺連隊の引き上げを検討し始め、クルラク中佐に、
「率直な意見として、我々は君の部隊が明日の夜に撤退してもかまわない」
とメッセージを伝え、最後に簡潔なメッセージを付け加えました。
「君の任務は達成されたと思う」
クルラク中佐からは、日本軍が48時間以内に攻勢をかけてくると予測されるために撤退を要請すると返答が来ました。
11月3日午後から、撤退は始まり、大隊はヴォザの砂浜から、四隻のLCIが夜間に到着するまで防衛線を維持しました。
この間、工兵が数百の仕掛け爆弾を設置し、木にロケットをつるし、更に狙撃手が木によじ登ることを妨害するために幹にひげ剃りの刃(両刃)を打ち込みました。
暗闇が訪れた頃に現地人斥候が、日本軍部隊がヴォザに接近し始め、一部が仕掛け爆弾を爆発させたと報告し、また沿岸監視員は大隊の撤退後、日本軍が彼らの置き土産に厄介な状況に陥っていることも報告されています。
01:30に三隻のLCIが到着すると20分以内に空挺部隊は乗り込みを完了し、08:00にはベララベラ島に到着し、大隊はキャンプまで行進して帰還しました。
戦死11名、14名の負傷者を出した第2空挺大隊は最低で143名の日本兵を殺害し、そしてチョイシールからノースワードへ移動しようとした日本軍の動きを完全に崩壊させました。また、手に入れた機雷敷設区域図は北ソロモンで作戦を行う海軍作戦本部に価値のある情報をもたらします。
ハルゼー提督は、これにより機雷を掃海した水路を用いて進撃し、日本海軍の2隻を撃沈します。
※第3次ソロモン海戦と思われます。
戦果は小さく、戦略的にも決して多大な影響を与えたとは言い難い作戦でしたが、この陽動作戦を実施したことにより、11月1日に日本軍はヴォザ橋頭堡にいると推測した機動部隊攻撃のためにショートランドからチョイシールまで爆撃機を発進させています。このように襲撃は日本軍を惑わせ続け、後の作戦計画を誤った方向へ多少なりとも影響を与えました。
ウィリアムズ中佐は、この作戦を、
「燦然と輝くとてもとても小さな仕事」
と呼びました。