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PARA-MARINE(海兵隊空挺部隊)

再編成


ヴァンデグリフト将軍の閲兵を受けるパラシュート大隊

 第1空挺大隊は、ガダルカナルから、ニューカレドニアへと帰還しました。

 数週間の間、司令部は船から積み荷を降ろし、再編成計画に取り組むように部隊へ命じます。負傷から回復したウィリアムズ少佐が、中佐に昇進して帰還、部隊回復への作業を開始しました。

※この際、独自の訓練施設を設け、100名の隊員を誕生させています。

 大隊の最後の労働は、キャンプカイザー(ガブツで戦死したウォルター・W・カイザー少尉)の4分の1を構築することでした。木造の兵舎が設けられ、パラシュートなどの装備品が収容されましたが、ほとんどの将校や兵士たちはテントで寝起きしていました。

 このキャンプカイザーの近くには飛行場があり、そこにVMJ-152とVMJ-253の輸送機が駐留していたため、11月から開始された訓練の質を僅かながら高める役割を果たしました。

 翌1943年、1943年1月11日に第1空挺大隊は中隊を受け取り、キャンプカイザーで宿営しました。また、第2大隊もトントウタに到着しています。

 第2大隊の編成は、第1大隊と変わらず、その一部がガダルカナルで第1大隊と戦っています。

 第2大隊は1942年の夏、南カリフォルニアで最高14機の輸送機を確保しました。

※但し、一回のジャンプに必要なR3D-2sは50機が必要とされていました。

 更にこの間に装備の武装の更新も行われ、評判の悪いレイジングブルサブマシンガンの代わりとしてM1941ジョンソンライフルと軽機関銃が支給されました。

 部隊の回復は着々と進んでいましたが、人員の供給は遅々として進まず、業を煮やしたウィリアムズ中佐が独自に降下訓練施設を築き、補充をはかりましたが、C中隊の編成は大隊がサンディエゴで誕生してから18ヶ月も経過した1942年9月3日という始末でした。

 それでも、1942年10月に大隊は、サンディエゴから出航し、11月にニュージーランドのウェリントンに到着。そして、1943年1月6日にニューカレドニアへと旅立ちました。

 第2空挺大隊が本国を離れる準備を始めた頃、第3空挺大隊が誕生しました(1942年9月16日:大隊長ロバート・T・バンス少佐)。

 第3空挺大隊は、第1や第2空挺大隊と比べて、成長は早く12月までには十分な戦力を所有していました。バンス少佐は、パラシュート戦術を、歩兵戦略、破壊工作やゲリラ戦にかなった形へと変更し、1943年初頭に、セントクレメンテ島において第21海兵連隊の水陸両用作戦演習に参加し、敵陣後方へパラシュート降下し、上陸支援を行いました。

 こうして、訓練が完了した部隊は3月にサンディエゴを離れ、月末までにキャンプカイザーの第1及び第2空挺大隊と合流します。

 1943年3月、ニューカレドニアに到着した空挺大隊をまとめあげる決定があり、4月1日に第1空挺連隊が誕生し、空挺部隊創設以来、部隊を導いてきたウィリアムズ中佐が連隊長に就任します。ここに来て、ようやく、空挺部隊は、かつてホランド・スミス少将が求めた規模に達しました。

 こうして事態は空挺部隊の前途が明るいものになっていきますが、司令部の熱意は既に失われ、ホルコム中将とスタッフは1942年秋には空挺部隊の再検討を始めていました。

 これを受けて海兵隊司令部の政策担当責任者ケラー・E・ロッキー准将が、落下傘部隊の使用に関しI-MAC(MarineAmphibianCorps:第1海兵水陸両用軍団)に照会をかけます。

 これに対する返答はありませんでしたが、I-MAC はXIV軍団が計画する6月のニュージョージア島上陸の支援に空挺作戦を実施することが可能か、偵察を行うためにウィリアムズ中佐の乗ったB24を現地に飛ばしています。

 一方で、第1海兵師団長ヴァンデグリフト少将が7月にI-MACの指揮を引き継ぐことが決定され、空挺部隊だけでなく強襲部隊の計画にも影響が現れます。

 また、1943年夏には、海兵隊には七つの輸送機部隊しか無いなど、相変わらずの輸送機不足が空挺部隊の運用に支障を来してもいました。

 全ての部隊が集中運用されていたのなら、一個半大隊を輸送するには十分でしたが、三つの輸送機隊は後方で運用されており、南太平洋には三つの部隊しか割り振られていません。

 しかも、これらの輸送機部隊は既に兵站任務に専念しているため、空挺作戦に用いることはできません。

 例えばニューカレドニアの輸送機部隊全てが1942年10月半ばまでヘンダーソン基地に対する日本海軍の艦砲射撃で生じた損害のために航空燃料を一機当たりドラム缶10個を搭載して輸送し、同時に2,879名の死傷者を運搬する任務に従事していたため、上層部では特別な訓練を必要とされる任務のために貴重な輸送機と搭乗員、そして時間を取られたくなかったことから気が進まず、陸軍輸送機部隊も、輸送任務に従事して余裕が無く、マッカーサーは1943年9月まで太平洋における空挺作戦は実施しないとしました。

 こうした事情により、連隊は航空機が無いために1943年5月以降、降下訓練すらできなくなり、第2空挺大隊の最後の降下は、トントウタにおける第15陸軍航空隊のC47から行った夜間降下でしたが、降下地点を誤り、丘の森林の中へと降下、1人が死亡、11人が負傷する結果となりました。

 以降、空挺大隊は上陸作戦や地上戦闘に重点を置くようになります。

 8月下旬、I-MAC は、空挺大隊をセントイザベルのレカタ湾にある日本軍の水上機基地を奪取する任務に就かせましたが、日本軍はD-DAY前に撤退していました。

 1943年4月末、ロッキー准将からニューリバーのパラシュート学校を解散し、その人員で第4大隊を編成するという提案が出されます。

 見積もりではサンディエゴの訓練所で、一週間当たり30名の降下兵が要請できれば現状を維持できるとされ、そうすることによって、当時、規模を拡大していた女性海兵隊員に必要な兵舎や訓練所を供給できるとされ、これを受けてホルコム将軍の代理としてハリー・シュミッド少将が承認します。

 こうしてニューリバーの教官であった33名の将校と727名の下士官兵によって、第4大隊が南カリフォルニアにて編成され、7月上旬、キャンプペンドルトンに本拠を移すことになります。

 しかし、第4大隊は輸送機不足のため、降下訓練すら行うことはありませんでした。

ロバート・H・ウィリアムズ連隊長

※写真は大佐時代のもの

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