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PARA-MARINE(海兵隊空挺部隊)

ソロモン諸島第3部 エドソンリッジ

 9月9日。回収された文書を翻訳した結果、最大約3,000名の日本軍がタシンボコ南西のジャングルで行動中であることが判明します。

 ニカラグアのジャングルと日本軍との戦闘による経験から、エドソン中佐はそれらの動きが手薄な南側の襲撃を意味していると察し、航空写真から、ナイフのように飛行場から突き出した地点を選択します。

 これにトーマス中佐が許可を与えますが、ヴァンデグリフト少将は難色を示します。しかし、トーマス中佐と話し合った結果、強襲部隊と空挺部隊の拠点をエドソン中佐の選択した地点に変更することを容認しました。

 9月10日、新しい拠点に移動した強襲部隊と空挺部隊の混合部隊は即座に自分たちが休息のために移動したのではないことに気づきます(騙した訳でも無いんでしょうが)。

 11日及び12日の両日に日本軍の空爆があり、若干の死傷者が発生するとエドソン中佐は塹壕の構築を命じました。

 現地人斥候の報告によると南東に日本軍の強力な部隊がいるとされ、海兵隊の偵察部隊によって確認されます。強襲部隊と空挺大隊は防衛陣地を強化しますが、有刺鉄線は少なく、土嚢や道具もありません。更にはマラリア、食中毒や睡眠不足で両部隊とも上陸時の兵力から規模を大幅に縮小していました。加えて峰に塹壕を掘れば堀ったですぐに珊瑚に打ち当たり、側面に配置された部隊はジャングルによって火線が遮られるという防御するには最悪の土地でした。

 唯一の慰めは、高地の右翼にあるルンガ川の向こう岸に工兵隊と第1水陸両用車大隊がおり、左翼には第1海兵連隊の末端が配置されていたことくらいで、両大隊とも重火器を欠き、一個大隊にも満たない規模でまともな防衛線の確立は全く望めない状況でした。

 エドソン中佐は、空挺部隊のB中隊を80高地東側へと配置。残り二つの中隊は左翼を守るために梯形に配置されました。

 強襲部隊B中隊は80高地の右翼を占め、C中隊は小隊を礁湖と川の間に配置。残りは予備兵力として120高地に留め置かれます。

 トーマス中佐は第5連隊第2大隊を峰と飛行場の間に配置し、数門の砲を南に向けました。

 砲撃観測員は120高地にあるエドソンの司令所に入ります。

 一方、川口支隊はジャングルの通過に難渋し、大砲や大多数の必需品をおいていかなければ進軍できない有様でした。

 また、四個大隊の内の一つをテナルに沿って牽制攻撃を行うために左翼に2,500名を配置します。

 しかし、ジャングルを過小評価した日本軍は予定通り進むことができず、9月12日の日没に川口少将の元には一個大隊のみがあり、その他の部隊は全て間に合いませんでした。

 川口少将は22:00の攻撃開始を遅らせようとしましたが、簡単に変えることは地理的にも時間的にも全く不可能な状態でした。

 予定通りに日本軍の水上戦闘機が緑色の照明弾を海兵隊陣地へ投下すると、巡洋艦及び三隻の駆逐艦が峰一帯に対する砲撃を開始します。砲撃は20分続きましたが、主要な目標にはほとんど命中しませんでした。

 日本軍は混乱した状態のまま照明弾を合図に突撃を開始します。これにより、攻撃そのものは決して適切ではなかったものの猛攻によって強襲大隊C中隊を排除することに成功します。

※後退したC中隊は、120高地にて再編成。

 しかし、兵力不足の日本軍はその傷を広げることができず、夜明けと共に日本軍は攻撃を中止し、次の夜襲に備えて再編成に入りました。

 翌朝、エドソン中佐は強襲大隊B中隊と空挺大隊A中隊を使ってC中隊陣地の奪還を命じますが、日本軍の機関銃による攻撃を受けて失敗します。

 強襲部隊指揮官は日本軍陣地の突破が無理と判断すると部隊の撤退を決定します。午後遅く80高地と120高地まで両中隊は撤退。

 エドソン中佐は師団から供給された工兵中隊を右翼に配置し、強襲大隊A中隊はルンガをカバーする位置に、パラシュート大隊C中隊は同B中隊の左後方に、同A中隊は120高地の東側に配置され直します。強襲大隊のC及びD中隊は西、そしてエドソン中佐の前線司令部は頂上に置かれました。

 13日、川口少将は日没と共に攻撃再開を命じます。

 最初の攻勢は強襲大隊B中隊右翼に向けられ、小隊のいくつかが撤退を余儀なくされますが、彼らの背後に位置するC中隊が支援する中、B中隊の残存部隊は陣地を確保し続けます。

 日本軍は、小規模ながら強襲部隊と空挺部隊の防衛線を突破し、司令部に繋がる野戦電話を切断します。しかし、前日同様、間隙を広げることができませんでした。

 21:00までに日本軍は峰の南―二つのB中隊側面に集結し、正確な射撃を浴びせていました。

 エドソン中佐は、120高地の前面と側面の防衛線を形成するために強襲部隊C中隊及び空挺大隊A中隊に反撃するよう命じます。

 日本軍の迫撃砲と機関銃によって高地が掃射される中、ウィリアム・J・マッケナン大尉、マリオン・レノイア一等軍曹は部下を集め、高地周辺の陣地へと移動します。

 日本軍の最終的な攻撃が22:00から始まりました。峰の開けた地点に照準を合わせた攻撃は海兵隊中央を引き裂き、空挺大隊B中隊長ジャスティン・G・デュリア大尉は味方の砲弾を間近に着弾させ、日本軍が左翼に集結した隙に部隊を後退させます。

 この混乱の中、煙が下流から立ち上るのを見て、「毒ガス攻撃」の叫びが上がり、混乱に拍車をかけます。

 デュリア大尉は、東斜面のC中隊の位置まで下がるとトーガソン大隊参謀に報告します。トーガソンは中隊に120高地の後方へ下がるように命令し、そこで再編成を命じます。

 このデュリア中隊の撤退により、第1防衛線左斜面に約60名の強襲部隊が孤立します。

 エドソン中佐は、B中隊の要請で砲兵及び120高地周辺の部隊と援護射撃の手配を行います。

 彼らは、既に新しい最前線となった第2防衛ラインに配置されました。

 夜襲によって、既に前線は混乱し、指揮官も一貫した部隊を制御できない状態だったため、エドソン中佐は即座に対応策をとり、トーガソンに命じて高地の後部から、彼のB中隊及びC中隊を動かし、A中隊の左翼へ走る防衛線を延長するように命じます。

 強襲大隊C中隊の指揮官ケネス・D・ベイリー少佐は、今にも諦めそうな部下を励まし、強襲大隊と空挺大隊を防衛線まで進ませました。

 トーガソンと部隊長の下で、予備の二個パラシュート中隊が前進し、A中隊側面との接触を確立します。移動中は僅かな抵抗を受けただけでしたが、日本軍の高地に対する攻勢が再開された途端に苛烈な攻撃を受けることとなります。

 しかし、強襲大隊と空挺大隊の新しい防衛線は、単に二つの大隊から兵士をかき集めて高地の斜面に配置しただけで、あまり強固ではありませんでしたが、この行動によって日本軍は包囲を分割され、結果として海兵隊の勝利を決定づける重要な要因にもなりました。

 師団の最終報告書によれば、砲兵は作戦中、徹底して確実な弾幕放火を浴びせ続け、そして、全ての前線で、海兵隊は自動火器の支援の元、手榴弾を次から次へと投げました。

 弾薬の供給は、急速に減少し、手榴弾とブローニング軽機関銃を前線へ動かすことは戦いの重要な要素となりました。

 04:00。エドソン中佐は、疲労困憊した彼の部隊を予備部隊に回すように師団へ依頼します。

 そのとき、第5海兵連隊第2大隊は一個中隊を峰の背に進ませ、長い夜を生き延びた者たちの側へと進ませました。

 夜明けまでに日本軍は、優勢な火力支援による粘り強い防衛網に直面し敗退し、分散して撤退していきます。

 第2大隊は、これらの日本軍の掃討の長い過程を始め、エドソン中佐は日本軍の主力部隊の撤退を早めるために空爆を要求しました。

 これに応じて、P-40が、80高地に残る日本軍に機銃掃射を加えます。

 強襲大隊と空挺大隊は、その朝、高地を立ち去り、ココナッツ園に設置した駐屯地へと帰還しました。日本軍の正確な損害は不明でしたが、約700名と見積もられ、逃走した500名が後に負傷により死亡したと推定されます。

 これがガダルカナルにおける地上戦の雌雄を決したと言われるエドソンリッジ、またの名を血塗られた高地、そして日本名ムカデ高地の戦いです。

 空挺大隊は、作戦の成功に大きな貢献をしました。

 彼らはアメリカ軍として最初の敵前上陸作戦を行い、島を確保するために激しい銃火をかいくぐって戦いました。

 彼らは、定数に満たない兵力、熟練した統率力そして最初の火力にもかかわらず、強襲大隊と共に血塗られた高地の激戦を切り抜けました。

 ガダルカナルにおける第1海兵師団の最終報告書では、

「高地の防衛に参加した兵士たちの動作及び行為は最大級の賞賛を受けるに相応しい。部隊は疲弊し、初めはうんざりする眠れない戦いを行った。夜間、彼らは自分たちを圧倒する強力な攻撃に直面していた。彼らは退けられながらも、再び必死の反撃を行い夜明けまでに部隊を再編成し、そこを取り戻した」

 戦後、ヴァンデグリフト大将は、当時を回想して、

「私が高地の戦いこそが最も決定的な瞬間であったと思う」

 と語りました。

 この二日間の戦闘で、第1強襲大隊は135名、第1空挺大隊は128名が犠牲となり、その内59名が戦死、また、この損害により、大隊の実用人員は100名を割り込み、ライフル中隊の定数すら満たしていない状態になりました。

 三日後、両大隊は第7海兵連隊と交代し、損耗率が55%に達した空挺部隊は、その第7海兵連隊を運んできた船団に乗り込み、ガダルカナル島を後にし、ニューカレドニアで再編成にはいることになりました。

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