PARA-MARINE(海兵隊空挺部隊)
ソロモン諸島
私が王であるならば、敵に加える一番ひどい刑罰はソロモン諸島への流刑だろう。
しかし、考え直してみると、例え王様であってもなくても、それだけは私にはできないと思った。
ジャック・ロンドン-「スナーク号の航海」1908
開戦から四ヶ月後、最初の行動計画が第1海兵師団に示されました。
目標はサモア諸島。1942年3月に第1及び第2両海兵師団から、連隊と支援部隊を引き抜いて二つの旅団が編成されます。
この中で第7海兵連隊が中核となった第3旅団にはエドソン中佐の第1強襲大隊が含まれていただけでなく、第1パラシュート大隊も含んだ編成になっていました。
4月上旬には第1海兵師団にニュージーランドへの移動が命じられ、これに伴いパラシュート部隊は太平洋側へと移動させられ、6月10日に第1パラシュート大隊がニュージーランドへ移動し、6月19日にB中隊とC中隊も太平洋へと移動を開始します。
1942年5月の珊瑚海海戦で勝利を収めた日本軍でしたが、MO作戦そのものは中止、しかし、戦略上、オーストラリア封殺が必須であることから、トラックやラバウルとは別の新しい拠点が必要でした。
これにより、日本軍が目をつけたのがソロモン諸島で、そのガダルカナル島に飛行場建設のための部隊と資材を送り込みます。
これを察知した連合軍は、急遽、ソロモン諸島攻略作戦「ウォッチタワー」を立案。サモア諸島攻略のためにニュージーランドへ移動中の第1海兵師団の派遣を決定します。
この頃、第1海兵師団は先遣隊がニュージーランドへ到着してはいたものの本隊はまだ航海中でしたし、師団長ヴァンデグリフト少将は自分の部隊が実際に行動するのは翌43年と思っていたために、僅か5週間後に決行される作戦に難色を示します。何しろ、戦うために必要な機材もなければ、訓練もまともにできていません。
更に情報も不足していました。何しろ、最新の地図が1897年にイギリスが測量したものと、1908年にドイツが測量したものだったくらいです。
何もかもが不足したウォッチタワー作戦は、いつの間にか無い無い尽くしの皮肉を込めて「シューストリングス(靴ひも)」作戦と呼ばれるようになりますが、その靴ひもすら足りない状態で、8月1日に予定された上陸に向けて準備が進められます。
※日本軍の兵力見積もりは、ツラギ、ガブツ、タナンボコそしてガダルカナルに約5,275名がおり、内1,850名が戦闘能力を有しているとされました(実際には約0−2,700人)。ガダルカナルの北17マイルに位置するツラギは艦隊の停泊地として必要とされ、ガブツ及びタナンボコはツラギへの接近を妨害する拠点と見なされます。
7月11日、最後の輸送船がニュージーランドに到着します。しかし、作戦決行日は師団の戦力を整えるためと作戦に必要な船舶や航空機を揃えるために延期されます。
その決行日は8月7日。08:00に第1及び第5海兵連隊合わせて5個連隊がガダルカナル島に上陸。これとは別にツラギ、ガブツ、タナンボコそしてフロリダ攻略担当のルーパタス准将(海兵隊信条の作成者)指揮下に置かれた第1強襲大隊が第5海兵連隊第2大隊の先鋒として上陸、第2海兵連隊は師団の予備隊として無防備と考えられたフロリダ島へ上陸。
そして、パラシュート部隊は作戦開始4時間後にガブツへ上陸することとなりました。
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