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Quotation(海兵隊を語る言葉)

「私たち海兵隊員は本当に幸せである。私たちはその価値を知っているので、私たちは自由の甘い経験を楽しむことができる」
We Marines are truly blessed. We get to enjoy the sweet taste of freedom because we know its price.
ニューヨーク市消防隊員ジョン・チャイプラ氏の第225回海兵隊誕生日(2000年)の言葉。チャイプラ氏は海兵隊員としてベイルートで1983年のBLTビル爆破事件に巻き込まれるも、生還した人物。しかし、2001年9月11日、世界貿易センタービル第2棟で消火活動中、タワーの崩壊によって殉職した。

現在

 ベトナム戦争が終わると軍はがたがたになった組織を建て直さなければなりませんでした。これによって、幾つかの運用面での改善が行われ、海兵隊の立場も少しではあるにせよ、向上しました。

  ベトナム戦争の影響で経済面でもがたがたになったアメリカは、レーガン政権が誕生するまで外交活動には消極的となり、結果として世界の治安が悪化していくことになります。

 1981年、レーガン政権が誕生するとアメリカは再び対外政策に乗り出し始めました。1982年、治安が悪化したベイルートへ上陸した海兵隊は一時は治安回復に成功したものの、彼らが帰還の途につき、まだ洋上にいる間に大統領が暗殺され、彼らはそのままベイルートへ引き返しました。

 海兵隊第2海兵師団の駐留は続きましたが、ベイルートの治安は悪化する一方で、1983年、BLTビルに一台のトラックが突入。搭載していたプロパンベースの気化爆弾でBLTビルは瞬く間に崩壊し、ビル内にいた海兵隊員と海軍兵の242名が戦死しました。

 その三日後、アメリカ軍はクーデターの起きたグレナダへと進攻。第22MAUは上陸後、島の北部の制圧に係ります。

 グレナダ進攻作戦アージェントフェリーは、アメリカ軍の行う久しぶりの大規模な作戦でしたし、(デザートワン作戦を除けば)久しぶりの海兵隊と陸軍の合同作戦でもありました。不手際の連続もあり、楽勝とは呼べなかったものの、アメリカ軍がまだこうした軍事行動を行い、勝利することができるという誇りを取り戻すことはできました。

 一方、ベイルートの治安の悪化は依然続いており、結局、1984年、海兵隊はベイルートでの活動を終了し、撤退。最後の死者は2月8日に爆発事故で死亡したアルフレッド・L・バトラー少佐でした。
*当時、5歳だった少佐の息子は後に海兵隊に入隊。2006年5月、イラクでブロンズスターを授与。

「任務中の海兵隊に友はいない」
”A Marine on duty has no friends.”
-海兵隊格言

「海兵隊は、それが結合された武器の力である事実を誇りに思っている。そしてそれは油断なく空地チームの安全を守る」
-1971年、キース・B・マカッチャン大将

「私は撃ち、そして敬礼ができる海兵隊員を必要とする。しかし、私は同様にジェットエンジンを修理し、そして精巧なレーダー設備に要員を配置できる海兵隊員も必要とする」
-1974年5月17日、第25代海兵隊司令官ロバート・E・クッシュマンJr.大将

「リーダーは流れに逆らって泳ぐ。チェスティ・プラーは真のサケであった」
”Leaders swim upstream. Chesty Puller was a real salmon.”
-1975年、マイケル・ケアリー少佐

「海兵隊を非難する人々は、チャールズ・アトラスの広告に出る筋肉男に砂を蹴ろうとするやせっぽちの男のようだ」
「私は彼らである」
「要するに、海兵隊員となることは、我々がそれぞれの監視を通じて我々の一員となることである。そして、それぞれの海兵隊員の監視は現役勤務期間に限定はされない。それは、彼と同じくらい長く"合衆国海兵隊のタイトルを持つことを誇りに思う"ことである」
-第26代海兵隊司令官ルイス・H・ウィルソン大将

「市街地における戦闘では、あなたはゴミ箱サイズの何かを撃つ直射兵器を必要とする」
-アーネスト・シータム大佐。1976年、"ordnance(兵器)"

「反政府リーダーは、奴の後ろ足で立つ種馬である。君は奴の心と精神には勝てない。君は奴を殺す」
-ショーン・リーチ少佐。1976年、"counterinsurgency対反乱者"

「これらが君の見つけるできた最高のテント? 君は至る所を見たのか? 他の場所を幾つか見つけるんだ」
「状況報告は誰も殺さない」
-アーネスト・クック中佐。1977年、沖縄

「ランニングについて唯一の欠点は、不快だと言うことだ」
「私は、戦いたいという君の大隊の意欲は疑わない。私は、戦う君の大隊の能力を疑う」
-ロバート・トンプソン大佐。1977年沖縄

Band of Brothers
1.全海兵隊員たちは、個人としての尊厳と尊敬を得る資格がある、しかし、ほとんどは関係当局によって定められた一般的な標準を守る。
2.海兵隊員は決して、嘘、不正行為、或いは仲間の海兵隊員からの盗み、或いは必要なときに彼の救援を怠ることをしてはならない。
3.全海兵隊員は、彼らの能力の100%を部隊の任務で貢献させなければならない。個人が努力を僅かでも怠ることは、他の誰かの責任となる。
4.部隊は、規模に関係なく、メンバー間で相互の尊敬に基づく類似した規律を守る家族の構造である。
5.部隊の降下を少なくする傾向がある論争と疑問の対処と解決は重要である。
6.別々の文化、様々な教育レベル、そして異なる社会的背景の混合は、共通の目的、向上心、そして意思疎通の利己的ではない環境において可能である。
7.共通の努力、激務、そしてチームワークは最高であるために要求される。価値ある些細なことは容易に達成できる。
8.あらゆる海兵隊員は、彼の功績の報酬と表彰に等しく仕事の満足感を受ける価値がある。
9.君の仲間の海兵隊員をよく知ることで、君は、君自身の目のように、"彼の目を通じて"物事が見えるようになる。
10.有効性と個人のよくある思慮を損う論争は、明らかにされるべきであり、全体として部隊への影響に対して検討されるべきである。
11.それは"相応しいこと"として全メンバーが兄弟愛概念の事情であると認めなられなければならない-他によって完全に受け入れられること。
-1970年代後半、チャールズ・クーパー中将によるFMFPac概念"Band of Brothers絆の兄弟"

「君らの内、誰かが陸軍に対する綱引きでヘルニアにかかるなら、私は固定され、それにかかるために報いを受けるだろう」
-ロバート・ハーベル少将。1982年パリスアイランド。軍勢の反映

「キツツキのくちばしのように頑丈だ!」
-1983年ベイルートにて海兵隊将校が部下について、記述した言葉。

「我々には島の北半分全体で激烈に戦っている海兵隊の二個中隊、そして南西の角で釘付けになっている(陸軍の)三個歩兵連隊がいる。一体全体、何が続いているんだ?」
-グレナダ作戦中、統合参謀本部議長ジョン・W・ヴェッシー陸軍大将のぼやき。

「幾人かの人々は全ての生涯を通じ、これまで世界を変えることができたか彼らは疑問に思うが、海兵隊員にはその問題は無い」
-1983年9月23日、ロナルド・レーガン大統領。大統領の親友の息子であり、レバノンに派遣される海兵隊員ジョセフ・ヒッキー上等兵にあてた手紙

「PXでPT装備の海兵隊員を私が次に見たときには、私は彼を最も近い中尉と中佐の首に巻き付けるつもりでいる」
-ジョン・ホプキンス准将。1986年キャンプ・レジューンにて。

「我々は海兵隊員として進む。我々がもはや海兵隊員としてできないとき、それは退役し、ポーチに座りに行く時だ」
-1986年、スティーブ・シヴァーズ少佐

「もしあなたが働くためのユーティリティを着るのであれば、少佐、チャーリー丘であなたが着たのと同じものを着てはいけません」
-チャールズ・スキナー曹長

「海兵隊員は死ぬ、我々がここにいるのはそのためである。しかし、海兵隊は永遠に生きる。そして、それは貴様らが永遠に生きることを意味する」
-1987年、映画"フルメタルジャケット"でR・リー・アーメイ二等軍曹が演じ、アーメイ軍曹自身が選んだ訓練教官ハートマン一等軍曹の台詞の一つ

「集団の深い考えは、飲むことだけに繋がる」
「将校と友好的なことは割には合わない。連中は君につけ込む」
「馬に乗った海兵隊員より尊大な何かがあるとすれば、それは飛行機一機である」
-元海兵隊員ウィリアム・オーヴァーガード著“A Few Good Men,”

 1990年にイラクがクウェートを侵略。アメリカ軍は急遽第82空挺師団を派遣しますが、軽歩兵師団である彼らに重装備は無く、その増援として海兵隊は先遣隊を送り込み、事前集積艦隊を利用して一ヶ月も経たないうちにサウジアラビアとクウェート国境へ陣取り、緊急即応部隊としての経験と歴史の差を見せつけました。

 1991年、第1海兵師団と第2海兵師団はクウェートへと雪崩れ込みます。その勢いは素晴らしく、シュワルツコフ将軍は側面保護のために予定を変更して第7軍団(フランクス中将指揮)の前進を命じなければなりませんでした。

 僅か四日間の戦闘で海兵隊は主要目標の全てを解放。

 長年、陸軍の海兵隊に対する認識は、どんなに好意的に見ても良いとは言えなかったのですが、湾岸戦争で多国籍軍を率いたシュワルツコフ大将は海兵隊に対し、1991年2月27日、

「私は、2つの海兵師団について十分に語ることができない。もし、私が素晴らしい言葉を用いるならば、それは、実際に彼らが俗にいう不可侵の障壁を突破する際にした無条件に素晴らしい仕事は言い足りない…完全に華麗な作戦、教本、そして、私は、多くのために最高のやり方としてこれから長年学ばれるだろうと思う」

 という賛辞を与えました。この湾岸戦争の後、第29代海兵隊司令官アルフレッド・M・グレイ大将は、1946年に一隊員として始め、朝鮮戦争(軍曹)、ベトナム戦争(中佐)、ベイルート及びグレナダ(少将)、湾岸戦争(大将)と第2次世界大戦以後、ほぼ全ての海兵隊の戦いに関与した約半世紀に渡る海兵隊生活に幕を下ろし、湾岸戦争でIMEFを率いたマンディ中将と交代しました。

「混雑した戦場という者は存在しない。戦場とは孤独な場所である」
第29代海兵隊司令官アルフレッド・M・グレイ大将

 湾岸戦争以前から、内乱が激しくなっていたソマリアの治安維持に海兵隊は派遣されました。

「彼らは、(我々は)大使館を開ける、或いは、"我々はお前を吹き飛ばすだろう"と言った。そして、その時、彼らは見上げ、そして屋根の上の海兵隊員と彼らの実に大きな銃を見るとソマリ語で、"Igaralli ahow"と言った、その意味は、"失礼しました。今のは私の間違いで本気ではありませんでした"」
-カレン・アクイラ。1991年ソマリア、モガディシオ、アメリカ大使館

 海兵隊の撤収後、再びソマリアの治安は悪化。1993年、ブラックシーの戦いを持ってアメリカはソマリアから手を引き、同地は見捨てられた土地となりました。

「戦争に勝つのは良いことである」
-ガリー・アンダーソン中佐。1992年2月25日、ワシントンタイムズ社説

「君は、新兵訓練を卒業すると同時に、"海兵隊員"の称号を得た。それは君に遺贈されたのではない、それは贈り物ではない、それは政府の助成ではない。少数の者しか称号を勝ち取ることはできない、誰も奪うことはできない。それは永遠に君のものである」
-レザーネックマガジン編集主任トーマス・P・バートレット曹長

「海兵隊員たちは、彼らの銃剣の使い方を知っている。陸軍の銃剣はペーパーウェイトであった方が相応しい」
-ネービータイムズ、1944年11月

「君の関係するあらゆる銃撃戦は、激しいものである」
-W・V・H・ホワイト大佐(退役)

「私は、出すことのできないそれら無形財産故に海兵隊を愛する。誇り、名誉、誠実、そして過ぎ去った武人の世代のための伝統を運び続けること」
-ジェフ・ソルニ伍長。1944年ネービータイムズ

「Oooh Rahは、軽く用いられなければならない断続的な短い用語では当然無い。君のガッツの刺激の量が激しく増進されたとき、深く内部に伝わって用いられる感情の感覚を持ち、それは君の声帯を通じて爆発させ、他ならぬ抑えようとする空気を破ること以外の選択肢を持たない」
-スコット・ストレンジャー軍曹。1995年ワシントンDC、8th&I海兵隊基地

「海兵隊員は大物と平均、或いはやせっぽちと平均の二つの種類で伝えられる、だから、私はロットワイラー或いはドーベルマンの2種類として海兵隊員を見る。彼らは攻撃には積極的で、防御には粘り強い。彼らは実に短い髪を持ち、常に喉へと食らい付く」
- "ジェイ"R・スターク海軍中将。1995年11月10日

「彼が純然たる喜びを味わうのを許される前に、人は絶望を知らなければならない」
-ジェームズ・ウェッブ元海兵隊大尉"A Country Such as This"151ページ

「私が海兵隊に加わったとき、私は私が歩兵であり、自由へと向かい、ビールを飲み、水兵を殴り、ワイルドな女性を追い掛け、共産主義者を殺し、そして、私が私のブーツをきれいにし、毎年ライフル資格証を得るならば、私は一等軍曹であるようになるだろう、と考えた」
-R・R・キーン先任曹長、1996年4月

「その戦闘における卓越した猛烈に誇り高い伝統、その神聖な儀式、そして揺るがない名誉の掟とともに合衆国海兵隊は、アメリカの神話の組織の一部である」
-トーマス・E・リックス。1997年“Making the Corps,”

「221年以上の間、我ら軍団は、この偉大な国家のために二つのことをしてきた。我々は、海兵隊員になり、そして我々は戦いに勝つ。
-1997年5月5日、第31代海兵隊司令官チャールズ・C・クルラク大将

「我々は合衆国海兵隊員であり、そして二と四分の一世紀の間、我々は勇気、精神、そして軍事的能力の標準を定めた」
-2000年11月10日、第32代海兵隊司令官ジェームズ・L・ジョーンズ大将

 最後に、海兵隊は1775年11月10日、居酒屋タン・タバーンで最初の徴募(というか、連行というか…)が行われて誕生しました。 そのこともあってか、海兵隊賛歌にも、乾杯を叫ぶ一節が含まれ、また乾杯の音頭と共に朝まで痛飲することになります。

「ここに飲んだくれの海兵隊員がいる。
彼の水筒にはビールがある!
君は無名戦士について耳にした。
しかし、これまで無名の海兵隊員はいない!」
Here's to the drunken Marine
With beer in his canteen!
You've heard of the Unknown Soldier
But, never an unknown Marine!
-海軍十字章受賞者ジョン・リプリー大佐が度々繰り返した古い乾杯(Toast)の言葉

ベトナム戦争

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