名誉勲章受章者-G-
氏名 |
受賞時階級 |
受賞年 |
戦地 |
ロス・F・グレイ |
軍曹 |
1945 |
硫黄島 |
サミュエル・グロス |
二等兵 |
1915 |
ハイチ |
アムブロシオ・ギレン |
二等軍曹 |
1953 |
朝鮮 |
ヘンリー・ガーク |
一等兵 |
1943 |
ブーゲンビル |
受賞者G-1 |
ロス・F・"ディーコン"グレイ軍曹
1945年:硫黄島
第4海兵師団第25海兵師団第1大隊A中隊
1920年8月1日 | アラバマ州マーヴェルヴァレーで生まれる |
1942年7月22日 | 海兵隊入隊 |
1944年 | クウェゼリン、サイパン、ティニアン上陸 |
1945年2月19日 | 硫黄島上陸 |
1945年2月21日 | 名誉勲章 |
1945年2月27日 | 戦死 |
感状:
1945年2月21日、火山列島硫黄島の敵日本軍部隊に対する戦闘において第4海兵師団第25海兵連隊第1大隊A中隊の小隊軍曹代理として従事中に義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
第1滑走路の高地北東に向けて前進中に敵手榴弾の突然の弾幕によって彼の小隊は停止させられたとき、そつなく戦術的状況を推し量り、グレイ軍曹は敵の手榴弾の範囲から彼の部下の撤退を迅速に組織化し、偵察のために単独で素早く前進し、防御された兵站塹壕によって結合された砲床の強固な接続網の前線に沿って広がる地帯で大量の地雷を発見した。
猛烈な砲撃に襲われたにもかかわらず、彼は要塞の一つまで地雷原を通り抜け進んで除去すると小隊陣地に引き返し、深刻な状況の彼のリーダーに他の三人の海兵隊員の援護を受ける間に攻撃を自発的に始めると伝えた。
たった一人、そして武器を持たない代わりに24ポンドの爆破包を持ち、彼は日本軍防御陣地に忍び寄り、大胆にショートヒューズをつけた爆薬を投げ付けて入り口を封鎖した。
同様の陣地まで二つめの入り口から機関銃の射撃の下に直ちに取りかかり、彼は別な爆薬のために這い戻り、ますます激しくなる一斉射撃に躊躇せず勇敢に、彼の目標へ引き返し、そして二つめの開口部を吹き飛ばすことによって陣地を破壊した。
獰猛に守られた敵要塞と彼の小隊陣地の地上の間を援護されながら繰り返し、彼は整然と接近し、25名の敵兵と大量の重要な軍需用品と弾薬、計六つの日本軍陣地を破壊するまで弾幕射撃の下、攻撃しては退いた。
大胆、そして不屈のグレイ軍曹は独力で強固な敵守備隊に打ち勝ち、そして彼の部隊へ最後に再び合流する前に巨大な地雷原を完全に無力化し、そして彼の偉大な個人的勇気によって極端な危険に直面し、大胆な戦術と不屈の忍耐は彼の中隊の作戦成就を実質的に与えた。
彼の勇敢な行為を通して合衆国海軍職務の最高の伝統は支えられ、そして維持された。
ハリー・S・トルーマン
サミュエル・グロス二等兵(本名サミュエル・マグリアス)
1915年:ハイチ
USSコネチカット海軍分遣隊第23中隊
1891年3月9日 | ペンシルヴァニア州フィラデルフィアで生まれる |
1913年6月2日 | 海兵隊入隊 |
1917年9月17日 | 名誉勲章 |
1918年9月10日 | 病気除隊 |
1934年9月13日 | 死去 |
感状:
USSコネチカットからの海兵隊及び水兵分遣隊、そして第23中隊13-5の一員として中隊に所属中、兵士グロスは1915年11月17日のハイチ、リヴィエール要塞の攻撃に参加した。
激しいぶつかり合いの後、海兵隊の幾つかの異なる分遣隊がカコ山賊の全ての退路を遮断しようとする努力の結果、次第にフランスの稜堡要塞に接近した。
要塞唯一の出入り口である壁の裂け目に接近し、兵士グロスはカコたちから絶え間ない銃撃に直面して突破口を通り抜けた二番目の人であり、そして、その後、10分間、要塞を確保し、カコの抵抗を無力化するまで敵との白兵戦による交戦を行った。
アムブロシオ・ギレン二等軍曹
1953年:朝鮮
第1海兵師団第7海兵連隊第2大隊F中隊
1929年12月7日 | コロラド州ラ・ユンタで生まれる |
1948年 | 海兵隊入隊 |
1953年7月25日 | 戦死 |
感状:
1953年7月25日、韓国の敵侵略部隊に対する戦闘において第1海兵師団(増強)第7海兵連隊第2大隊F中隊の小隊軍曹としての義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
抵抗の主力前線の前哨前方の防衛に参加し、ギレン二等軍曹は敵軍の銃撃に直面し、道の地形上で彼の小隊を巧みに移動させ、彼の部下を戦闘地点に配置した。彼の部隊が迫撃砲と砲撃に支援された敵二個大隊の推定部隊による暗闇に包まれた攻撃を受け、前哨地点で釘付けにされたとき、彼は負傷者の搬出と治療の監督を自ら行い、そして彼らの拠点を守るためにをわざと彼自身を激しい弾幕と攻撃に向けてさらして指揮を執った。
彼のリーダーシップに影響を受け、小隊は迅速に集結すると凄まじい白兵戦によって敵部隊と交戦した。戦闘の最中に重傷を負ったにもかかわらず、ギレン二等軍曹は治療を拒絶し、敵が破られ、そして混乱した撤退に投げ込むまで交戦の残りを通じて彼の部下を指揮し続けた。
彼が負傷で倒れるまでの数時間内にギレン二等軍曹は彼の際立った勇気と不屈の闘争心により、数において勝る敵部隊への抵抗において彼の小隊の成功へ直接影響を与えた。
彼の個人的勇気は最高の名誉を彼自身にもたらし、そして合衆国海軍職務の最高の伝統を高めた。
彼は彼の祖国へ彼の生命を勇敢に捧げた。
ドワイト・D・アイゼンハワー
ヘンリー・ガーク一等兵
1943年:ブーゲンビル
第2強襲連隊第3強襲大隊M中隊
1922年11月6日 | ノースダコタ州ニーシェで生まれる |
1942年4月15日 | 海兵隊入隊 |
1942年9月 | 第3強襲大隊 |
1943年2月21日 | ラッセル島上陸 |
1943年11月9日 | 戦死 |
感状:
1943年11月9日、ソロモン諸島地方の敵日本軍部隊に対する戦闘中第3海兵強襲大隊とともに従事中、義務の要求を遙かに超えて彼の生命の危険を冒す際立った勇気と大胆さによる。
彼の小隊がブーゲンビル島のオーガスタ女王湾近くで肝要な道路封鎖の防衛に従事中にガーク一等兵は中隊の他の海兵隊員と共に日本軍の主力前衛部隊に対し、激しい銃弾の嵐を送り込んだ。
手榴弾の弾幕のますます増加する獰猛さから敵が彼らの浅い二人のたこつぼを壊滅する決意を固めたと結論し、彼は砲弾の激しい雨にもかかわらず持ち堪えるために、大胆に、そして深刻な手段に訴えた。
日本軍の手榴弾がたこつぼの中に直接落下したとき、ガーク一等兵は彼の仲間が優勢な火力の自動火器に要員を配置し、より効果的な抵抗を提供できるように気にかけ、彼を乱暴に脇へ押しやり、そして爆発を覆うためにミサイルの上に彼自身の身体を接触させた。
義務への揺らぎない忠誠と素晴らしい勇気でガーク一等兵は彼の戦友が生きて戦い続けられるように彼自身を犠牲にした。
彼は彼の祖国の職務に彼の生命を勇敢に捧げた。
フランクリン・D・ルーズヴェルト
受賞者G-1 |