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Vietnam:ベトナム戦争1965年3月-1975年5月

概要

各戦い

概要

Vietnam

 海兵隊に限らず、アメリカがその歴史において初めて敗北……というか放り投げた戦争がベトナム戦争です。

 海兵隊の関わりは1954年の時点で既に始まっており、軍事顧問団の派遣や南ベトナム軍の訓練などに従事していました。

 1960年代、ソビエトからは徹底的に嘗められ続けたあげくに元海兵隊員オズワルドに射殺される民主党のケネディ大統領が就任する頃にはベトナムの治安は更に悪化。

 ケネディ大統領により、ベトナムに対する軍事支援は増大していきますが、南ベトナム政府の腐敗はアメリカの後押しがあったからといってどうなるものでもないほどひどく、さらには上流階級はキリスト教で、民衆は仏教という宗教的対立もあり、治安は悪化の一途をたどります。

※大統領夫人の悪名高い「人間バーベキュー」発言も、自殺を禁じるキリスト教徒として、自らの身体に火を放つ僧侶たちを冷笑してのこと。

 ケネディ大統領が暗殺され、後任のジョンソン大統領は軍事顧問団の派遣ではなく、本格的な軍事行動を行うと宣言。

 これを受けて1965年3月8日、かつて硫黄島の激戦を第14海兵連隊(砲兵)参謀として戦ったフレデリック・カーチ准将率いる第3海兵旅団が第1陣としてダナンの海岸に上陸。

 しかし、出迎えたのは歓迎団で、カーチ准将は20年前とは全く違う歓迎のされ方に憮然とし、多くの海兵隊員は戸惑いと笑顔で歓迎団から花輪を受け取りました。

 第3海兵旅団は、そのままダナン基地にまで移動。後続と合流し、第3海兵師団としての体制が整うと、第1海兵師団の到着を待ち、DMZまで移動。ケサン基地を中心としたDMZ近郊を担当し、ダナン基地周辺は第1海兵師団が担当することになります。

 第1海兵師団及び第3海兵師団、そして、第26、第27海兵連隊などを含む、IIIMAF(第3水陸両用軍:III Marine Amphibious Force)が形成され、ここに軍団長に任命されたクッシュマン中将は海兵隊の歴史上最大の戦闘軍団を率いることになります。

 一方、度々ベトナムを訪れていた太平洋艦隊海兵軍(Fleet Marine Force,Pacific)司令官ヴィクター・クルラク中将は、ベトナムにおける戦いが、これまでとは違うことを早い内から見抜いていました。クルラク中将は、ウェストモーランド将軍のやり方を認めつつも、むしろ、人心掌握の方が適していると南ベトナム軍と共同でベトコンを一掃した後、家の再建や井戸の採掘などを行い民兵を組織化。これを一つ一つ根気よく行い拡大していく方法、「インク・ブロット方式」を提唱します。しかし、的確でしたが、長い根気と時間を要する将軍の意見はこれまで同様大規模な部隊運用で対処できるとするテイラー長官や現地のウェストモーランド大将には受け入れることができずに、駐ベトナムアメリカ軍は規模を拡大していくことになります。

※規模を拡大していきますが、決して、戦争に勝てる規模では無かったのが泥沼と化した要因の一つでした。なお、ヴィクター・クルラク中将は、元パラ・マリーンとしてチョイシール島陽動作戦を戦った方です。

 5月、ベトナムにおける初の本格的軍事作戦「スターライト」が第1海兵師団によって実施。同時期、DMZ近郊のアシャウ渓谷周辺に移動した第3海兵師団は、コンティエンを巡って北ベトナム軍と対峙、この戦いは後に「コンティエンの肉挽き器」と呼ばれる激戦区となります。

 また、ホーチミントレイルの監視及び抑制のために唯一北ベトナムを見ることができる最北端の基地「ケ・サン」が建設。ここに第3海兵師団第26海兵連隊が駐留。

 1965年から1967年にかけて大小様々な上陸作戦や掃討作戦が実施されましたが、これまでと違い正面切っての大決戦ではなく、地道な掃討作戦が主体であり、また戦争拡大を恐れる政府によって戦闘に著しい制限が加えられたことが全軍の指揮を低下させていき、平行してソビエトの資金提供を受けた反戦活動が活発化し、前線と後方が次第に隔離していくことになります。

 1967年末、北ベトナム軍はケ・サン基地に対する攻勢を強めます。これに伴いアメリカ軍は兵力を北に集中。

 この最中、11月14日、第3海兵師団長ブルーノ・ホクマス少将の乗るヘリが撃墜され、戦死するという事件が発生しました。

 翌年1月、兵力が北に集中したことによって空いた間隙を狙って北ベトナム軍とベトコンが大攻勢を始めました。後に言う「テト攻勢」です。

 サイゴンのアメリカ大使館が占拠され、各地のアメリカ軍基地も大規模な攻勢を受けます。

 テト攻勢において、海兵隊はケ・サン基地の攻防が更に激しくなりますが重要な861高地と南881高地を事前に確保していたために最終的には確保に成功。

 また、第1海兵師団は占拠されたフエの街の包囲を第101空挺師団に任せ、自らは困難な市街戦へと突入。報道カメラマン故沢田教一氏の残された数々の写真が示すように、通り、そして家の一つ一つ奪取していくという激戦の後に解放し、北ベトナム軍の駆逐に成功します。

 この際、北ベトナム軍側が行った民間人虐殺(判明しているだけで1,200名)が明らかとなります。

 テト攻勢によってベトコンはそのほとんどが撃退され、この攻勢により、ベトコンは民衆の支持を失い、南ベトナム世論を反共へ傾け、壊滅するのですが、一方でアメリカ国内の世論は、大規模攻勢を行う力をベトコンが持っていたことに愕然となり、民主党のジョンソン大統領はアメリカ大使館占拠に狼狽し、その年の大統領選挙の辞退を表明することになります。

※人海戦術しか能が無いとグエン・ザップ将軍は言われますが、テト攻勢に向けての戦略的な手腕は評価していいと思っています(今は)。ケ・サンを陥落できたか否かよりも、その気があったか、です。

 この年の選挙でニクソン大統領が就任すると、ベトナムからの撤退へ向けての動きが始まります。ニクソン大統領は、ベトナムに無駄に配置されていた兵力を削減することから始め、ジョンソン大統領が北ベトナムを支援するために差し止めていた北爆を再開します。

 規模を縮小しながら、それまで以上の成果をあげることに成功していたものの世論も議会も撤退を支持。特に戦争を始めた民主党は同盟国を見捨てることを主張。

 ベトナム駐留アメリカ軍司令もウェストモーランド大将から、かつてドイツ軍に包囲されたバストーニュに一番乗りを果たして名を馳せ、当時の上官パットン中将がビーニーキャップを虐待したように、ブーニーハットを虐待したクレイトン・エイブラムス大将に交替。

 これらのベトナム化政策と銘打った同盟国を見捨てる政策に沿う形で、各部隊は撤収を開始し、海兵隊でも、1969年7月から第3海兵師団の撤退が始まり、11月までに第3海兵師団はベトナムを去ります。

 残った第1海兵師団も、翌年10月から第7海兵連隊と第10海兵連隊(砲兵)が撤退。1971年5月には第1海兵連隊と第5海兵連隊も撤退が完了し、これにより、大使館警備の200名を残す全師団がベトナムを離れることとなり、1973年3月24日に海兵隊は撤退を完了。五日後3月29日にアメリカ軍の全部隊の撤退も完了し、ここにアメリカの最も長い戦争ベトナムは終結します。

※ベトナム戦争を終わらせたのはニクソン大統領なのに、なぜかベトナム戦争の責任をニクソンに押しつけたがる連中って何なんでしょう?

 アメリカ軍が撤退すると、北ベトナム軍は和平を一方的に破棄して、南ベトナムへの侵略を開始します。

 弾薬も欠乏し、アメリカの支援も失った南ベトナム軍は各地で奮戦するものの次第に追い詰められていき、1975年には首都サイゴンまで北ベトナム軍は到達します。

 このため、海兵隊は、サイゴンからの撤退作戦「フリークエントウインド」を4月29日と30日に実施。大使館屋上へとヘリを着陸させ、大使館員と南ベトナム市民を収容します。この争乱の中、海兵隊員は大使館の星条旗をたたんで飛び乗り、最後のアメリカ兵としてベトナムを去りました。

 南ベトナムが陥落したのに合わせて隣国カンボジアでも内乱が激化。この撤退支援を行ったのも海兵隊でした。

 ベトナムはその後、社会主義政権によって大量のポートピープルを発生させ、隣国カンボジアも社会主義をいっそう勧めたいかれた政策によって大量虐殺が開始しました。

 妄想の止まらないカンボジア政府は国際法を無視して領海権を勝手に設定。国際的には無視されていたために、その海域を航海したマヤゲス号を拿捕する騒ぎを起こします。

 この乗員の救出のために5月15日、海兵隊は上陸作戦を実施。立て続けに起きた不手際に出さなくてもいい損害を重ねたのはともかく、アメリカの意地を見せたことでは意義のある作戦であり、そして、事実上、これがベトナム戦争における最後の作戦行動となりました。

※カンボジア政府も、アメリカの出方を伺うためだったらしく、海兵隊の行動と共に乗員を釈放していました。作戦前に。

 ベトナム戦争の後、海兵隊に限らず、アメリカ軍全体が誇大化した組織の改編を行うこととなります。

参加人員
戦死
負傷
名誉勲章
約180,000
13,091
51,392
57
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ケ・サン攻防

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