熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記 |
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絶景の富士と松林を求めて、駿河路を行く
… 三島宿〜沼津宿〜原宿〜吉原宿 |
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第七日目 |
2007年1月14日(土) 晴れ |
今日のコース : 三島宿〜沼津宿〜原宿〜吉原宿 |
日記の記録 : 旅人の J (熟年夫婦の夫 J、妻 M) |
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相模国から伊豆国へ! |
相模国から伊豆国に入り、今日は伊豆国の三島宿から駿河国の吉原宿まで歩く予定。
歩行距離もいままでの「五十三次テクテク旅」では、26キロメートル以上という最長距離で、時間がもったいないので新幹線を利用して三島まで行くことにした。自宅を4時30分に出てJR千葉駅5時6分発の快速で東京へ、東京駅で新幹線を乗り継いで三島駅には7時21分に着いた。途中、東京駅で買ったお弁当を新幹線で食べ、駅でトイレも済まし、三島駅から駅前通りを南へ行く。
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「三島宿」出発 |
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駅から800メートル程歩くと、本町交差点があり、このあたりがかっての三島宿の中心、ここで、三島宿出発の写真を撮り、万歩計を確認し、午前7時45分、沼津宿を目指して商店街を西に向かう。
すぐ、右手に世古本陣跡の石碑がある。
ほとんど往時の面影のない通りを、さらに進むと右手に街道と並行して走る水路「千貫樋(せんがんとい)」が家々の間に見え、千貫樋の案内板がある。それによると、小浜池から長堤を築き、その水を駿河に疎通させたという。この疎水により、清水町の耕地が多大の恩恵を受けたとある。
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街道を行く
日本橋から二十九里二十町
(116.1Km)
三島市 本町交差点
(静岡県三島市本町)
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美しい形をした常夜燈 |
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千貫樋の案内板の向い側には、均整のとれた美しい形をした常夜燈があり、このあたりの村と旅人の安全を見守っていたとの案内があった。また、ここが「西見附跡」とのことで、新町橋の「東見附跡」からここまで2キロメートル以上あり、三島宿は大きな宿場であったことがわかる。
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「伏見一里塚」と「是より西、沼津領」 |
さらに西に進むと、江戸日本橋から29番目の一里塚、伏見一里塚がある。街道の両側に塚があり、右手の玉井寺側一里塚は9メートル四方に3メートルの盛土をし、エノキあるいは松があり、昔の姿をそのまま残している。また、左手の宝地寺側一里塚は、復元されたもの、ここは、江戸時代には立場があり人夫が駕籠などを停めて休憩できる場であつたという。
さらに街道を歩き、八幡神社境内に、源義朝と奥州から駆けつけた弟義経との対面した二つの石があるという案内板がある。黄瀬川を渡るとやがて右手に潮音寺があり、「是より西、沼津領」の榜示杭がある。
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街道を行く
日本橋から三十里十四町
(119.3Km)
清水町の松並木
(静岡県駿東郡清水町八幡)
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川廓通りを通り、沼津着へ |
街道を西に進み、いったん左手の旧街道に入ると、一里塚跡がある。再び国道一号線に合流し、三枚橋バス停留場を過ぎると右手に折れ、川廓通りに入る。途中で右手に折れ、沼津城本丸跡のある中央公園に着く。
午前9時10分、沼津宿着。 |
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東海道五拾三次 駿河国 |
沼津宿
人口:5346人
総家数:1234軒
本陣:3軒
脇本陣:1軒
旅籠屋:55軒 |
沼津 [黄昏図] |
母娘と天狗の面を背負った白装束の男が街道を歩いていく。
街道の先の橋は、三枚橋で、その先が沼津の宿であろう。
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「沼津宿」 |
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沼津宿は、武田氏が三枚橋城を築いてから城下町として、更に宿場として繁栄したとあるが、大火や戦災、区画整理のために宿駅としての面影はない。沼津城の本丸跡が中央公園に残っているのみである。
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『どこまで歩いていくのですか?』 『エ…』『エ、エ…』 |
中央公園から、川廓通りに戻り、沼津駅から南に向かう大通りに出る。左折し、御成橋で右折する。
信号待ちの間、4〜5分前から偶然同じコースを歩いていたカップルから『どちらまで歩いて行くのですか?』と聞かれたので『吉原です。』と答えると、『エー』と大きな声を出しながらカップル同士が顔を見合わせ、さらに、『三島から歩いてきたのです。』というと、より大きな声で『エ、エー』と驚いていた。
そのカップルに、鍵形の道の角にある「道しるべ」の前で写真を撮ってもらった。道中二人ながら、ふたりの写真は少ないから貴重だ。 |
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千本松原は、旅人からは見えない |
永代橋通りに出て、浅間町を過ぎると「出口町見付外」の案内があった。ここが沼津宿の出口、西の出入り口、見張り番所としての見付があったという。また、「乗運寺」の境内に若山牧水の墓があると資料にはあるが、今日のコースは長いので、寄らないで進むことにした。
旧街道の左手には「千本松原」が沼津の名勝として広がっているらしいが、歩いている旅人から今は見えない。右手に「沼津藩領境榜示」「松長一里塚跡」を見て、JR東海道線を渡ると原宿は近い。
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街道を行く
日本橋から三十一里十町
(123.0Kmあたり)
(静岡県沼津市松長) |
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東海道五拾三次 駿河国 |
原 宿
人口:1939人
総家数:398軒
本陣:1軒
脇本陣:1軒
旅籠屋:25軒 |
原 [朝之富士] |
原宿と吉原宿を結ぶ街道が、東海道で富士山に最も近く、最も美しく見える場所という。
雄大な富士の姿を仰ぎ見ている旅人は、母娘と供の者であろう。
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「原宿」と白隠禅師 |
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原宿は、東海道中最小の宿場といわれているが、「浮島が原」越しに見える雄大な富士の姿は広重をはじめとする絵師や旅人に人気があったという。
原宿の入口付近に「白隠禅師誕生地」「原宿・本陣跡」の石碑があった。資料に寄れば、白隠禅師は、この地で生まれ、全国修行行脚の後、松蔭寺住職となり、臨済宗の名僧として天下に知られ、参勤交代でこの地を通過する際、白隠禅師を訪れる大名が多かったという。 |
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「田子の浦ゆうちいでてみれば…」 |
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旧街道を左手に折れ、JR原駅前で休憩する。午前11時28分、「原宿と浮島が原」案内板を見ながらおにぎりを食べた。一休みした後、旧街道に出て、どこまでもまっすぐな道を西進する。道幅はそう広くはないものの、街並みは新しくなり宿場町らしい雰囲気は無い。途中、「原宿・一里塚」「間の宿・柏原」の案内などがあった。この街道の左手には、有名な田子の浦がひろがっているはず。万葉の歌人、山部赤人は、「田子の浦ゆうちいでてみればま白にぞ富士の高嶺に雪はふりける」と詠んでいる。しかし、富士の裾野は見えるものの、山頂付近は笠雲が覆っている。富士に見守られながら、東海道を歩くという夢は、今日も無理のようだ。
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街道を行く
日本橋から三十四里二十三町
(136.0Kmあたり)
(静岡県富士市大野新田) |
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「元吉原宿」「中吉原」から「新吉原」へ |
旧街道を更に進み、JR吉原駅付近まで来る。このあたりは「元吉原宿」と呼ばれ、東海道が制定された頃はここに宿場があったが、津波や高波などの被害により、寛永年間(1624年〜44年)に「中吉原宿」へ、さらに天和2年(1682年)に「新吉原宿」へと内陸に移転していったという。 |
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「左富士」雲の切れ目から富士山頂が見え、大いに感激!!! |
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東海道本線を横切り、新幹線のガードをくぐり、工場の横を通り過ぎると「左富士神社」に着く。午後2時20分。西行がここを通ったとき、この眺望をほめて「左富士」と名づけたという。東海道で左富士は、この吉原と茅ヶ崎の南湖のふたつ、南湖では、曇っていて富士山が見えなかったので、吉原の左富士には期待していた。左富士神社では一瞬だが雲の切れ目から富士山頂が見え、大いに感激した。 |
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「平家越えの碑」 |
さらに進むと「平家越之橋」があり、そのたもとに「平家越えの碑」がたっている。昔、富士川はこの辺りを流れており、源平合戦で源氏の迂回作戦で飛び立った水鳥の羽音に驚いて、平家の軍勢が戦わずして退却したという源平合戦の話がある。
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街道を進み、岳南鉄道の踏み切りを過ぎると、そこから新吉原宿であったが、現在は商店街であり、宿場の面影は無い。
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街道を行く
日本橋から三十五里三十四町
(141.1Km)
岳南鉄道踏切り
(静岡県富士市吉原) |
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東海道五拾三次 駿河国 |
吉原宿
人口:2832人
総家数:653軒
本陣:2軒
脇本陣:3軒
旅籠屋:60軒 |
吉原 [左富士] |
江戸から京に向かう東海道で、富士山が左手に見えるのは、藤澤宿と平塚宿の間の「南湖」とここ吉原宿のみ。
馬に乗った旅人が、左富士を見ながら、吉原宿に向かっている。
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吉原宿、天和2年(1682年)創業の「鯛屋旅館」に泊まる! |
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今日の宿は、新吉原宿のなかにある、「鯛屋旅館」。場所がわからないので、電話すると、若女将が迎えに来てくれた。鯛屋旅館は、天和2年(1682年)創業という、老舗中の老舗で、玄関は江戸情緒たっぷり。私は、その旅館に足を引きずりながら到着し、26.2キロメートル、走破をかみしめた。午後3時20分。 |
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第七日目 2007年1月14日(日)
前日まで 115.9Km(184、191歩)
今日のコース 三島宿〜7.1Km~〜沼津宿〜6.3Km〜原宿〜12.8Km〜吉原宿
今日の歩行距離 26.2Km(今日の歩数 37、224歩)
今日の歩行時間 7時間35分(休憩、昼食、見学を含む)
日本橋から 142.1Km(221、415歩)
京・三条大橋まで、あと 381.2Km
《参考》
今日の全所要時間(自宅〜三島宿〜吉原宿〜宿)10時間50分
今日の全歩行距離(万歩計換算)28.8Km |
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熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記 |
五十三次の出会い 4
江戸初期から創業の旅館「鯛屋旅館」17代目ご主人から
次郎長の話を…
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出会いの人 : 吉原宿 鯛屋旅館 17代目ご主人
出会いの日時 : 2007年1月14日(日)午後5時30分 鯛屋旅館へ
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「吉原宿」の歴史と文化を発信!!
鯛屋旅館、17代目ご主人と記念撮影 |
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J(私):この鯛屋旅館は創業が天和2年(1682年)と聞いています。
老舗中の老舗ですね。
鯛屋旅館ご主人:東海道の中で当時の場所で当時のままで商いを続けているのは、
この鯛屋旅館と近江八幡の薬屋さんの二つだけと聞いています。
J:この鯛屋旅館は、清水次郎長、山岡鉄舟の常宿と何かの本に書いてありま
したが?
鯛屋旅館ご主人:そのとおりです。清水次郎長はよく泊まったようです。
J:清水次郎長は、どんな用事があって泊まったのですか?
ご主人:次郎長の子分、増川仙衛門という侠客がこの近くの出身で、このあたり
で揉め事があると、次郎長は子分たちを引き連れて、揉め事の収拾に
来ていたようです。
J:次郎長の勢力がこのあたりまで及んでいたのですね?
ご主人:そのようです。次郎長は、県知事からの依頼で囚人を使って、70町歩
の原野の開墾をおこなったという記録があるそうです。その場所は
この近くだそうです。
J:山岡鉄舟という人は、江戸城の無血開城の時の幕末の偉人でしたか?
ご主人:その山岡鉄舟がこの宿に泊まったのです。そして当宿を気に入り、
屋号「鯛屋與三郎」を書き、感謝の気持ちを表したといわれております。
翌日、18代目の若主人が私たちの背中で火打石を打ち、道中の安全を祈願
してくれた。これからも、地域の人々や旅人の「きがるな、お宿」として、
愛され親しまれてほしい。
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熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記 |
五十三次の出会い 5
「鯛屋旅館」資料館内、吉原宿の町おこしに活躍中のスタッフに
インタビュー!
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出会いの人 : 吉原宿 鯛屋旅館 資料館
タウンマネージメント吉原「吉原本宿」専属スタッフのMさん
出会いの日時 : 2007年1月14日(日)午後6時10分
タウンマネージメント吉原「吉原本宿」へ
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土産に買った吉原ことばの書かれた
手ぬぐい
スタッフのMさん(左の方)と旅人M |
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J(私):この鯛屋旅館の資料館は、タウンマネージメント吉原が管理
運営しているようですが、「タウンマネージメント吉原」って
なんですか?
タウンマネージメント吉原「吉原本宿」専属スタッフのMさん:
「タウンマネージネント吉原」は、富士市の吉原地区の街おこしの
ため、行政、企業、商店、個人など構成された組織です。
J:この鯛屋旅館の資料館は「まちの駅」に認定されているそうですね。
専属スタッフのMさん:はい、そうです。旅人や地域の人をもてなす、
「まちの駅」に認定され、気軽に利用してもらっています。
J:具体的には、どのようなことをしているのですか?
専属スタッフのMさん:このコーナーでは、吉原本宿名物一店逸品を販売して
いますし、隣のコーナーでは、お土産品なども揃っています。
このコーナーで、吉原ことばの書かれた手ぬぐいをお土産に購入した。
スタッフMさんから、富士市吉原地区の街おこしについて丁寧でわかり
やすい説明を受けた。
「吉原本宿」がますます活性化され、いつまでも愛され親しまれてほしい。
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箱根宿〜三島宿 このページ 吉原宿〜蒲原宿〜由比宿 |
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旅人 J&M |
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