熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
                 
 雪のかぶった富士が見守る、箱根西坂を下る
                                 … 箱根宿〜三島宿
第六日目 
2006年12月24日(日) 晴れ
今日のコース : 箱根宿〜三島宿
日記の記録  : 旅人のM (熟年夫婦の夫 J、妻 M)
  さあ、元気よく出発しよう!
 昨日は、本当に疲れた。箱根の山は天下の剣というが、うわさどおり、箱根の山登りは、かなりきつかった。それなのに、昨日、箱根宿に到着したときの写真を撮るボードにJさんは、「(箱根の登りは)思ったほどではない。」などと書いている。夫婦のテクテク日記なのに、私の意見は無視された感じ。でも仕方がないか。Jさんは、体力もあり、登りに強い、なにしろ、私の倍くらい食べる。でも、今日はちょっと登ると、あとは下りのみ。さあ、元気よく出発しよう。
  雪化粧をした富士山が熟年の旅人を迎えた!

宿から旧街道まで5分とかからない。旧街道に出て、「箱根宿、午前8時27分に出発」とボードに書いて、写真を撮る。すぐに、箱根峠までの最後の登りにかかる。「赤石坂」「釜石坂」「風越坂」「挟石坂」と一気に急坂を登りきると、突如、雪を被った富士山が間近に迫っていた。
 箱根峠、標高846m、すばらしい眺めだった。「五十三次テクテク旅」の道中、箱根峠で、雪化粧した富士山が初めて熟年の旅人(J&M)を迎えてくれた。やったね!


  街道を行く

 日本橋から二十六里七町
  (102.7Km)

  箱根峠
  (神奈川県足柄下郡箱根町)
  向井千秋さんの『夢に向かってもう一度』!!
 箱根峠には「新箱根八里記念碑(峠の地蔵)」があり、向井千秋さんの『夢に向かってもう一度』が目を引いた。案内板には「その昔、東海道を旅する人の目安になったのが一里塚。時は移り、現代、箱根旧街道を散策する人にとって旅のひとときの憩いになればと、1985年に(社)三島青年会議所の働きかけで設置されたのが「新箱根八里記念碑」。
  そして2003年、国土交通省静岡国道事務所・三島市・函南町の協力により、8人の女性による揮毫を得て、ここに新石碑が誕生しました。地球に見立てられ盛り上げられた地表に、さまざまな様相、さまざまな方向を見つめて立っている地蔵たち。
  「これらの地蔵は未来への道標となろう言葉を抱えていて、まさに現代の一里塚といえるものです。」とあった。8人の女性とは、向井千秋さんのほか、橋田寿賀子さん、黒柳徹子さん、杉本苑子さん、宮城まり子さんなどである。やっぱり、女性は強いね!!

  街道を行く

 日本橋から二十六里十七町
  (104.0Kmあたり)

  接待茶屋跡付近
  (静岡県三島市)
  箱根西坂の下りが始まる

 いよいよ、箱根西坂の下りが始まる。ゴルフ場入口を右手に折れ、旧東海道入口道標を左に入ると「甲石坂」である。やがて、接待茶屋跡があり、「昔、接待茶屋は箱根山を往来する者の苦難を救うため、人や馬に粥や飼葉、焚き火を無料で施した。」と伝えられている。
 下っている途中、なぜか、私は娘を思い出して、電話をしたが、料理教室の受講中だった。少し下ると「兜石」があり、案内板に「兜を伏せたような形の石で、豊臣秀吉が小田原城を攻める時、休憩してこの石の上に兜を置いたともいわれている。」とあった。
 午前9時32分、歩き出してちょうど1時間、快調に進んでいる。

  「念仏石」 南無阿弥陀仏 …
 今度は、「石原坂」を下ると「念仏石」があり、「この念仏石の前に『南無阿弥陀仏・宗閉寺』と刻んだ碑があるが、旅の行き倒れの人を宗閉寺で供養して、碑を建てたものと思われる」との説明があった。
  五十三次 草鞋は3日に一足 ?
  「石原坂」も石畳になっている。箱根東坂・西坂の石畳は草鞋で踏みつけられ、石が丸くなっている。石が丸くなるほど、草鞋で踏みつけられ、草鞋は痛む。現代の靴でもこの石畳では相当傷む。
 『江戸時代、五十三次で草鞋はどれくらい持ったのだろうね?』と、Jさんに話しかけると、『草鞋は3日に一足、必要らしい。ただ、4〜5里も歩けば、草鞋は、ちびて履けなくなり、通常一日に二足は必要だった、との資料もあり、鼻緒を直し直し使うかどうかの差だろうかね。』という。
 何もわからない私は、なるほどね、と妙に納得してしまう。
 
「五十三次のおしゃべり 7 江戸の旅人…草鞋の寿命とトイレの話」をみてね。)

  街道を行く

 日本橋から二十七里六町
  (106.7Km)

  山中新田
  (静岡県三島市山中新田)
  杯と徳利が浮き彫り「雲助徳利の墓」

 旧街道はどんどん下っていく。「大枯木坂」を下ると、突然、民家の敷地を通り抜ける。畑仕事の人と、挨拶を交わす。今度は「小枯木坂」を下り、下りきって少し歩くと盃と徳利が浮き彫りになっている「雲助徳利の墓」があった。久四郎という人は、一説に西国大名の剣道指南役であったが、大酒飲みのため事件を起こし追放され、箱根の雲助の仲間になった。雲助たちを助けたが、酒で命を縮めてしまう。その久四郎を偲んで墓が立てられたが、雲助たちの暖かい人情によるものであった。

 名物「寒ざらし団子」をいただく!

 さらに下ると、右手丘の上に「山中城跡」があった。小田原城を防衛するための城であったが、豊臣秀吉により、半日で落城したという。三の丸堀の二重堀などはまだ残っていた。広い駐車場と茶店があり、茶店で一息つくことにした。

 午前11時10分。江戸時代にこの山中宿で人気のあったという「寒ざらし団子」をいただいた。一人前300円、おいしかった。Jさんは、ビールを飲んで気合を入れるというので、私も少し飲んで、少しだけ気合を入れた。休憩をして口に食べるものを入れると元気が出るね。いつものことながら。


  雪の被った富士に見守られながら箱根西坂を下る
  山中城跡をあとにし、国道を横断し、ふたたび旧街道に入ると、そこは、富士の雄姿が一番といわれている富士見平である。薄曇ではあったが、雪をかぶった富士山が空中に浮かんで見えた。
  富士山は高い、その雪の被った富士に見守られながら箱根西坂を下った。駿河湾も見える絶景とあるが、今日は見えなかった。写真を撮っていたら、子どもとその父親と思われる親子が追い越して行った。私たちも先を急ぎ、先ほどの親子を追い越したり追い越されたり、挨拶を交わしながら、「上長坂(かみなり坂)」から笹原一里塚を経て「下長坂(こわめし坂)」を下った。特に下長坂は、急坂でしかも長く、背負っていたお米が汗と暑さで強飯になってしまったという話から「こわめし坂」と呼ばれるようになったという。
  初音ヶ原の松並木を歩く
 さらに「小時雨坂」「大時雨坂」「臼転坂」を下ると、国道の歩道工事中迂回の看板があり、やむを得ず、一時、左に迂回し、また、旧街道に戻る。
  旧街道は、初音ヶ原の松並木と石畳となっており、ゆっくりとゆったりと、松並木を歩いた。

  街道を行く

 日本橋から二十八里三十二町
  (113.5Km)

  初音ヶ原の松並木
  (静岡県三島市谷田)
  往時の面影がある「錦田一里塚」

初音ヶ原の松並木と石畳をしばらく歩くと、錦田一里塚がある。
 錦田一里塚は、28番目の一里塚であり、両側とも保存されている一里塚は日本橋から三つ目のはずである。
 保土ヶ谷宿から権現坂を越えたあと、街中の品濃一里塚、箱根東坂の畑宿一里塚、それにこの錦田一里塚で、左右一対になった一里塚は往時の東海道の面影があり、うれしい。

 「愛宕坂」「今井坂」を下り、箱根西坂が終わる

また、松並木を歩き、「愛宕坂」「今井坂」を下り、東海道本線をわたると箱根西坂も終わりに近づく。大場川にかかる新町橋、ここが東見附跡というので、三島宿の入口だ。
 やがて、右手に鳥居が見えて、源頼朝が源氏の再興を祈願し成就したことで知られている三島大社だ。さらに西に進むと、ほどなく本町交差点、その先に世古本陣跡があるが、6日目は、この交差点までとする。
 午後2時29分、
三島宿、到着。昔は箱根を越えて三島宿に着いた旅人は「山祝い」と称して従者に祝儀を宿にも散在をしたという。

 東海道五拾三次 伊豆国
 三島宿

 人口:4048人
 総家数:1025軒
 本陣:2軒
 脇本陣:3軒
 旅籠屋:74軒

三島 [朝霧]
  朝霧のたちこめる中、駕籠に乗って箱根路に向かう旅人が、描かれている。
  シルエットで三島大社が描かれているが、東海道を通る旅人は、ここで道中の安全を祈願したらしい。

   「三島宿」 … 源氏の再興を祈願した三島大社

三島宿は、その昔、三島大社の門前町として栄えていた。そして、東海道が開通後は「ノーエ節」でおなじみの三島女郎衆と呼ばれる飯盛り女の存在でも賑わったという。
 三島駅に向かう通りの右手にある白滝公園内に「富士の白雪、朝日に溶ける、三島女郎の化粧水」という農兵節の記念碑があるとのことである。

   箱根八里を越えた!

三島駅前でお土産に買い、三島駅発午後2時56分、熱海で乗り換え、千葉に午後5時56分に着いた。駐車場に車をとりに行き、自宅についたのは午後6時35分だった。箱根八里を越えた!
 明日は年末の大掃除をやる予定、足腰、大丈夫かな?

  第六日目 2006年12月24日(日)

    前日までの距離     100.8Km(163、177歩)
  今日のコース    箱根宿〜15.1Km〜三島宿
  今日の歩行距離  15.1Km(今日の歩数 21、014歩)
  今日の歩行時間  6時間2分(休憩、昼食、見学を含む)
     日本橋から       115.9Km(184、191歩)
     京・三条大橋まで、あと 407.4Km
《参考》
  今日の全所要時間(宿〜箱根宿〜三島宿〜自宅)10時間13分
  今日の全歩行距離(万歩計換算)17.9Km
熟年夫婦の 東海道五十三次 テクテク日記
  五十三次のおしゃべり 江戸の旅人 … 草履の寿命とトイレの話
 「五十三次テクテク歩き」を始めてみて、江戸時代の旅人に疑問が次々とわいてきた。
 まず、一つ目は、草鞋。庶民は東海道を草鞋で歩いている。箱根越えで石畳を歩いたが、石の先が丸くなるほど草鞋によって踏みつけられていた。踏みつけられる石も大変だが、踏みつける草鞋も大変である。草鞋の寿命、草鞋はどれくらいもつのだろうか。
 
 
  高橋千劔破著「江戸の旅人」によれば、草鞋は3〜4里歩くと磨り減って履けなくなる、とあり、別の資料では、3〜4里歩くと、草鞋がなじみにくくなるので、紐を結びかえる、とある。そうすると、日本橋からこの三島宿まで28里として、草鞋が7〜8足ということになる。箱根越えがあるのでもっと必要だったのかもしれない。また、「草鞋は三日に一足」という資料もあった。

  草鞋について面白い記載があるので紹介する。旅人は新しい草鞋に履き替えると、古い草鞋は道端のお堂や地蔵に備えた。すると、新品の草鞋を買えない貧しい旅人がまだ履ける草鞋を見つけて利用したという。いよいよボロボロになった草鞋は、捨てる場所があり、集められて肥料になったという。

  疑問の二つ目、トイレである。我々は事前に歩くコースを調べ、トイレの位置を確認し、(東海道ルネッサンス推進協議会監修の地図に記載されている)現地でも、この次のトイレは何キロ先、などと言っていた。江戸時代はどうであろうか?これについても面白い記載があるので紹介する。江戸時代、公衆トイレなどはあるはず無く、女性の場合はたいへんでなかったかというと、そうでもなかったらしい。主要街道といえど、宿場町を過ぎるといたるところが自然であり、天然トイレに事欠かない。農村地帯に行くと道端に肥桶が埋めてあり、女性も尻をまくって桶に立小便した。農民はこれを肥料に利用、あわせて、草鞋も肥料にしたわけだから、なんという、循環型社会、江戸に学ぶことが多い。
 

五十三次のおしゃべり 五十三次のおしゃべり
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